こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(言語社会学)の寺沢拓敬のブログです。

留学斡旋会社タクトピア (@taktopia) 創業者で『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』の著者、グローバル教育革命家 白川寧々さんに「エセ学者」と言われました。

著書に『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』をお持ちで、留学斡旋会社タクトピア創業者で、グローバル教育革命家*1の白川寧々さんに「エセ学者」と言われました。

とある人から以下のFBのポストを教えてもらったところ、たしかに、『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』の著者でグローバル教育革命家の白川寧々さんは私のことを指してエセ学者と言っています。

https://www.facebook.com/soutarou.isowa/posts/2670284469694720

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しかも「この人は有名なエセ学者なのよ」とのことなので、私のエセ度合いは結構広く知られているようですね!

心外です。こう見えても、私はわりと真面目に研究しています。 『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』の著者でグローバル教育革命家の白川寧々さんには抗議したい気持ちでいっぱいです。

とはいえ、『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』の著者でグローバル教育革命家の白川寧々さんが、無根拠にそのようなことを言う方ではないと思います。 子ども・若者の教育に携わる『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』の著者でグローバル教育革命家の白川寧々さんが、根拠もなく他者の名誉を毀損することを言うはずがありません。

ですので、『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』の著者でグローバル教育革命家の白川寧々には、ぜひ根拠を示していただきたいと思います。 (ちなみに事実を摘示しないで公然と侮辱した場合には侮辱罪ですが、摘示した場合には侮辱罪にならないそうですよ!)

ついでに、この話はすでに有名らしいので、『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』の著者でグローバル教育革命家の白川寧々さんの他にどのような人が言っていたのかできれば教えていただきたいと思います(こっそりで構いません)。

それを踏まえたうえで、『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』の著者でグローバル教育革命家の白川寧々さん以外の人にも抗議したいと思います。

11月25日17時20分追記

いま調べたら、(株)タクトピアは経産省「未来の教室」事業でベネッセ等ともに教職員向け研修サービスに選ばれている(https://resemom.jp/article/2019/09/30/52681.html)。街の怪しいセミナー会社じゃあるまいし、公的性格の強い事業に携わる企業の代表者が、こういう炎上商法(扇動商法?)みたいなことしていていいのでしょうか。

*1:私がそう揶揄して呼んでるわけではなく、自分で「グローバル教育革命家」と言っている。

JACET関西支部大会(11月16日)で講演します。

2019年11月16日に同志社大学で開かれる 2019年度JACET関西支部大会で講演します。

私の講演タイトルは、外国語教育政策研究の理論・方法です。

要旨は以下。

本発表では、外国語教育政策における研究上の空白領域を問題点として指摘し、対案としてより妥当な枠組みを示す。私の専門分野である英語教育政策に焦点化し、国内外の言語政策理論や研究方法論を批判的に検討する。
先行研究には特定の理論・方法論への偏りが見られる。例えば、(A)マクロレベル(イデオロギー)およびミクロレベル(相互行為)の分析、(B)外的妥当性よりも理論的サンプリングの重視、(C)政策内容の同時代的な記述・批判といった研究は非常に隆盛している。その一方で、次のような枠組みは(社会科学では王道的であるにもかかわらず)十分に浸透しているとは言い難い。すなわち、(a)メゾレベル、特に国・自治体の行財政レベルの分析。(b)代表性を備えた社会調査・マクロ統計の分析。(c)政策過程の記述・批判。とくに歴史分析。
後者の枠組みがいかに重要か、公共政策研究をはじめとした社会科学研究に基づいて論じたい。



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原稿の墓場。超長文。小学校英語論争

みんなお待ちかね、原稿の墓場シリーズ!!!

今回は某書を執筆していて章を丸ごと削りました。

暫定で墓場にはいってますけど、受け入れてくれる媒体を絶賛募集中です。でも、まあ、所属先の紀要が無難かな。文体が学術さに欠けるのにはちょっと不安があるけれど。


第NNN章 導入の是非――小学校英語論争

そもそも小学校に英語を導入することは果たしてほんとうに効果があるのか。 大衆的にも注目度の高い問いであるが、前章まではこれまでの経緯を中心にしていたこともあり、意図的に避けてきた。 いよいよ本章と次章で本格的に扱うことにする。

本章では、とくに論争に焦点をあてる。 小学校英語の効果と一口に言っても、賛成派は一枚岩ではなく、多様な観点からその意義を主張してきた。しがたって、賛成派の各主張を丁寧に読み解きながら効果を考える必要がある。 そのうえで、賛成論と対をなす反対論にも目配りが必要である。 論争の検討から始めるのは、以上の理由である。

第1節 小学校英語論争の分析

論争の中身を検討する前に、分析方法について説明しておきたい。

論争全体像の理解

基本方針は、賛成論・反対論の包括的な検討である。 そのため、各論点をできるだけ取りこぼしがないように拾っていく。 たとえ一見荒唐無稽な論点であっても安易に切り捨てず、論争の一つのピースとして拾っていく。

分析方法はごくシンプルで、「たくさん読んできれいに整理する」である。 関係文献(論文・書籍から新聞・雑誌、はてはインターネット記事に至るまで)を渉猟し、小学校英語を推進する主張および反対する主張をピックアップする。その上で、同様の主張をまとめて論点化し、それぞれを全体の構図に位置づけるという作業である。

関係文献はほぼ無限にあるので包括的検討など無理ではないかと思えるかもしれない。ただ、骨が折れることは毎違いないものの、不可能ではない。 小学校英語の是非について論じた記事を何でもよいので思い出してほしい。 既にどこかで聞いたことのある主張の「再演」だったのではないだろうか。 実際、筆者の分析でも、ある程度の量をカバーし終えた後に新規な主張に出会うことはほぼまったくなかった。

この点は、小学校英語論争の特徴の一つでもある。 賛成・反対双方が白熱した舌戦を繰り広げたように見えても、実は以前に他の人々がした主張のクリシェ(言い換え)に過ぎないことが多い。 ある意味で、みな自分の意見を言いたいという思いが先行し、今までになされた論争の把握が不十分とも言える。

論争の構造への注目

以下の分析では、主張者よりも主張内容に注目する。 つまり、論争の構造の把握を最優先し、論争におけるキーパーソンの発言を追うわけではない(そもそもキーパーソンがいたかどうかも定かではない)。 要するに、何が主張されたかに注目し、誰が主張したかは問わないということである。

論争・論争史の分析としては少し異質かもしれないが、それには次のような理由がある。 第一に、論争に参加するメンバーが非常に多いため、主張者に焦点化した分析では収集がつかなくなるためである。 第二に、主張のほとんどが(失礼ながら)あまり深いものではないため、そもそも属人的な分析を行う必要性がないためである。

たしかに、主張内容のみへの注目は一見すると人間味に欠け、「分析のための分析」に感じるかもしれないが、 議論を包括的に見通すことができ、だからこそ、争点の空白地帯を特定することができるという利点がある。 論争の構造を把握することで、理論的には争点になるはずなのに、実際には議論が起きていない部分が明確化される。こうした箇所は、反対派ですら問題として取り上げない部分であり、だからこそ議論の盲点として重要である。

第2節 賛成論

NNN章で論じたとおり、小学校英語は論争として参加しやすいテーマであり、その分、大きな盛り上がりを見せてきた。 教育行政や英語教育の関係者だけでなく、英語教育を専門としない知識人や政治家が発言することも珍しくないし、ニュース番組などや新聞記事で取り上げられることも多い。はては、一般人が読者投稿欄やインターネットなどで意見を戦わせることさえある。

多種多様な意見を目の当たりにすると、その膨大な量に圧倒され、きわめて複雑な論争のように感じてしまうことは無理もないが、実際には、論点が途方もないほど拡散しているわけではない。 人々が「ここぞ」とばかりに披瀝した持論は、ほとんどの場合、誰かがすでに言ったことの繰り返しである。 言った本人にとっては残念な話だが、論争を包括的に理解したい読者にはむしろ朗報である。 同工異曲に思える主張は思い切って一括りにし、「論争の見取り図」を頭に描けば、今後どんな主張を耳にしても、その主張にどのような前提があり、どのような問題点がああるかすぐにわかるようになるだろう。

なかでも、賛成論は比較的容易に理解できる。 なぜなら、小学校英語の目標は大別して次の4つであり、それらを軸に整理可能だからである。 図1は、NNN章で用いたものの再掲(一部修正)である。 小学校英語において教育目標とされてきたものを「英語科固有の内容 vs. 他教科横断的な内容」という横軸と「知識重視 vs. 情意面重視」という縦軸をもとに整理している。


図1 小学校英語の4つの目的

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小学校英語賛成論とは、要するに、「[英語スキル OR 英語学習態度 OR 異文化理解 OR 会話への積極性]を育成するために、小学校英語を導入すべきである」という主張である。

この「導入すべし」という「べき論」(規範的言明)は、複数の論拠で構成される。 これらの論拠は、「である論」(記述的言明)の形をとることが多い。 「である論」は事実に対する言明であり、価値判断をめぐる言明である「べき論」に比ると検証がしやすい。データがあれば決着がつきやすいからである。

「英語スキルを育成するために小学校英語を導入すべきである」(以下、賛①と表記する)という「べき論」を例に説明しよう。 この主張は、図2のように、複数の「である論」に解きほぐすことができる。


図2 賛成論1 英語力を育成すべし

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図式化の上で、「診断→処方箋→効能」という医療のアナロジーを利用している。 つまり、現状に対する何らかの危機意識(=病理の診断)があるからこそ、その問題を是正するために小学校英語という「処方箋」が提案されているわけである。そして、処方箋は、当初の問題を改善するという「効能」を発揮しなければならない。 また、診断=現状認識にも、効能=期待される効果にも何らかの証拠を伴うのが通常である。

このように構造化した場合、賛成論は大別して6パタンに整理できる。 たった6つだけと聞くと乱暴に感じるかもしれないが、実際に以下の6パタン以外は見つからない。この理由は、賛成派は提案を出す側であり、ある程度意見が共有されているためだろう。

賛①「英語力を育成すべし」

以下、順番に説明する。 なお、一般の読者にとって馴染みがない主張については実例を含めて詳述するが、どこかで聞いたことがあるような容易に理解可能な主張については紙幅の都合上表面的な記述に留める。

前述の図2を再度見てほしい。 第1のパタンは、国際化・グローバル化が進んでおり、英語力の必要性が高まっているという現状認識を元に、だから、早くから英語を学んで英語を身につけるべきだという主張である。 小学校英語論で最も一般的な主張であり、英語教育に詳しくない人でも一度は耳にしたことがあると思われる。

このように人口に膾炙した小学校英語論だが、それゆえに意識されにくい点がある。 それは、この「診断」の背後に、ナショナリスティックな前提がある点である。 上記の主張は、日本人は一般的に英語ができず、それではグローバル化に対応できないという現状認識があってはじめて意味を成すのである。 逆に、もし国民の多くが英語に堪能であればこのような提案をする必要がないし、また、一部の英語使用者だけでもグローバル化へ対応可能であればやはりこの主張は無意味である。 要するに、「日本人は英語ができない」ことが何らかの国益に反するというナショナリスティックな危機意識が根底にあるのである。

賛②・賛③「国際化に対応すべく、異文化理解・会話への積極性を育成すべし」

第 2 および第 3 のパタンは、グローバル化が進んでいるという現状認識から、国際理解・国際交流の重要性を訴える主張である。(図3参照)。


図3 賛成論2 国際化への対応(情意面)

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賛①の場合と同様、日本人は国際コミュニケーション・異文化コミュニケーションの面で問題があり、これではグローバル化に対応できないという暗黙の前提がある。 具体的には、日本人は内向き・同質的で、異文化に対して排他的であり、こうした特徴が国際化を阻害しているという。

こうした問題は、英会話体験で解決されるという。 推進者によれば、英会話を通して異文化に触れることによって、国際理解・異文化理解が養われ(→賛②)、また、言語コミュニケーションへの積極性が身につく(→賛③)。

英語教育を英語習得のためだけにあると思っている人からするとかなり奇異に聞こえる主張だろうが、日本の小学校英語はもともと国際理解教育の枠組みから進展してきた経緯がある点を思い出したい。 ついでに言えば、国際理解という目標は中学高校の学習指導要領(英語)にも明記されており、日本の学校英語教育の文脈ではそれほど珍しい主張ではない。

賛④「会話への積極性を育成すべし」

第4は、これまでの賛①・賛②・賛③に比べ、かなり異質である。(図4)


図4 賛成論4 会話への積極性を育成すべし f:id:TerasawaT:20191012224208j:plain


現代の子ども(や日本人)に、母語でのコミュニケーションに問題を抱えた人が増加している。したがって、英会話活動を通して、会話への積極性を育成すべきだという主張である。

英語教育関係者ではない人には荒唐無稽に聞こえるだろうが、NNN章で見たとおり、『小学校学習指導要領解説 外国語活動編』 (2008年8月発行)にも明記されており、「公式見解」としての性格が強いものである。 『解説』では、現代の子どもは会話での問題があるので「コミュニケーションを図ろうとする態度の育成が必要」だと抽象的に述べるのみだったが、もっと具体的かつストレートに説明しているものを2点紹介しよう。

ひとつが、2000年代半ば(外国語活動必修化を審議していた頃)、文科省の教科調査官を務めていた菅正隆へのインタビューである(『総合教育技術』2009年5月号)。

記事のタイトル→「コミュニケーション能力の欠如」による、学校での暴力事件の増加が、「小学校外国語活動」の背景にある

1980年代後半からは学校での暴力事件が増加し、いじめも増えてきていました。その大きな理由としてコミュニケーション能力の欠如があげられるのです。言葉を介して他者とコミュニケーションをとる能力が欠如しているから暴力に訴える、あるいは隠れていじめをする。その背後には、子どもたちの遊びがコミュニケーションの必要のないテレビゲームとなり、少子化が進んで異年齢の子どもとの交流もなくなってきたこと等が考えられます。そのため、他者と関わる機会が少なく、他者との距離感がとれないという課題が現れてきました。(中略)それらの課題を解決するためにも、小学校から英語活動が導入されることになりました。

もうひとり、やはり教科調査官の主張を紹介しよう。 直山木綿子による2006年の論考である。 なお、 出版当時の直山の肩書は京都市指導主事である。 (「小学校英語の必要性の主張のあとに必要なこと」大津由紀雄編 2006 『日本の英語教育に必要なこと』(pp. 229-230)慶應義塾大学出版会)。

私たちの生活を振り返ってみると、ますます言葉がなくても不便なく生活できる場面が増えてきました。コンビニエンスストアに行けば、何も言わずに商品をレジに差し出せば、買うことができます。電車に乗るには、言葉を使わずとも券売機で目的地までの切符を買うこともできます。このように人と言葉でかかわらなくても、生活ができる場面が増えてきています。子どもたちの生活を見ていても、うまく自分の思いが言葉で表せない場面が教室で多く見受けられます。このように、人と言葉でかかわることがだんだん少なくなるということは、生きていく力が弱くなっていくことだと考えます。(中略)そこで、子どもたちにあえて言葉で人とかかわる楽しさを体験させることが大切になってきます。

いずれも、英会話活動を通じて、コミュニケーションへの肯定的態度、とりわけ会話への積極性が育まれるという主張で、一見すると、心理カウンセリングのアサーション・トレーニングに類似している。

賛⑤ 英語学習への肯定的態度の育成

第 5は、英語学習への肯定的な態度の育成を強調するタイプである (図5)。


図5 賛成論5 英語学習への肯定的態度 f:id:TerasawaT:20191012224213j:plain


要するに、「英語に慣れ親しむため」や「英語が好きになるため」など、早くから始めることで英語学習への抵抗感を軽減すべきだとする主張である。

図に示されている通り、この主張には診断に当たる部分がない。 つまり、現状に対する何らかの危機意識をベースにしているわけではない。 なぜその態度が重要かは述べずに、その育成を主張しているわけで、「必要だから必要なんだ」と言っているのと同義である。その意味で実は稚拙な主張だが、この点はあまり認識されていないようである。

英語に慣れ親しむことが必要な理由は、常識的に考えれば、「英語学習に役立つから」しかあり得ないだろう。 この理由は、総合学習における英語活動や外国語活動の文脈では、実は相応の不協和を引き起こしている。 つまり、「慣れ親しむ」論が英語スキルの育成を前提とした目的である以上、英語活動等の趣旨に反しかねないのである。

この不協和を言語化している論者は、筆者の知る限り、皆無である。 曖昧に濁したほうが賢明だという判断があるからとも思うが、教育目的を構想するうえでは、きちんと言語化したうえで議論するべき点だろう。

賛⑥ 機会均等のために導入すべし

第 6 は、賛①~賛⑤とはかなり異質であり、特定の能力・態度の育成を目指す主張ではなく、英語教育の機会均等を訴えた主張である(図6)


図6 賛成論5 機会均等のために導入すべし

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英語を学ぶことができる児童とそうでない児童がいるという状況を不公平と捉え、この格差を是正するために、小学校に英語を導入すべきだと提案する立場である。

ただし、この主張の効能である平等状態が具体的にどういう状態を意味するのか明言されることはほぼない。 普通の格差論議では、機会均等が達成された暁にはどういった平等が実現されるのか、具体的に論じるのが普通である。 たとえば、家庭の経済力に起因する進学格差を緩和するため、給付型奨学金が提案されているが、この政策がもたらす平等とは、低所得世帯の子どもの進学率が(少なくとも平均並みに)上昇することである。その有効性はともかくとして、きわめて具体的でわかりやすい平等化目標である。

一方、小学校英語における機会均等論では、この手の議論がほとんどない。 低所得世帯の英語力が上昇することが平等なのか。それとも、こうした子どもの間で異文化理解が進むことが機会均等なのか。あるいは、また別の面の平等なのか。こうしたことが議論されることはほとんどない。

機会均等のために導入を訴える論者はそれなりに多いが、この点を分析的に議論できているとは言い難い。 「隣の街では既に英語を始めていてずるい気がする」といった心情的な機会均等論がほとんどである。

反面、他国の機会均等論は単純明快である。 たとえば、「小学校英語先進国」というだけでなく英語格差(「イングリッシュ・ディバイド」とも呼ばれている)の先進国でもある韓国において、問題視されてきたのは他でもなく英語力の差である。 つまり、裕福でない子どもや農村部の子どもの英語習得の機会が、富裕層・都市部の子どもと比較しても遜色ない状態になることが達成されるべき平等である。

教育社会学に、ペアレントクラシー(親の教育観・教育投資等で子どもの教育達成が左右されること)という用語がある。 小学校英語政策について国際比較を行ったジャネット・エネヴァー[BIBLIO]によれば、多くの国で韓国のような「言語的ペアレントクラシー」が社会問題化しつつあるという。 ひるがえって、日本の英語教育をめぐる機会均等論議はまだこの水準まで行っていないようである(もっとも、これは英語格差が深刻化していないことの証左である可能性もあり、喜ぶべきことかもしれない)。

第3節 反対論「効果がない」

次に、上記の賛成論と対をなす反対論を見ていこう。

反対論を整理するうえでも医療のアナロジーが便利である。 処方箋に対する「効果がない」という批判と、「副作用が大きい」という批判に区別できるからである。 前者は、小学校英語を導入しても賛成派が言うような成果は出ないという批判で、 後者は、小学校英語が(賛成派が言及していないような)意図せざる悪影響を引き起こすという批判である。

本節では「効果がない」タイプの批判を、次節で「副作用が大きい」タイプの批判をそれぞれ検討する。

「効き目がない」

「効かない」という批判は、「診断(=現状認識)が間違っているから効かない」と「効能(=期待される成果)が間違っているから効かない」とに分けられる。 反対論の主流は、「副作用が大きい」論である。「効き目がない」論ももちろん存在するが、賛成論者の多様な主張に対し包括的に反論しているわけではなく、いくつかの「必修化論」批判に集中している。包括的に批判がなされていないということは、「反論しやすい部分だけが反論されている」ことを意味し、いわゆる「わら人形論法」( straw man argument )の典型である。これが、「論争」を不毛なものにした要因でもある。

賛成論を整理した図2~図5を見ると、診断(現状認識)は全部で4種類、効能(期待される成果)は5種類ある。ということは、理論上、反論は9種類ある。表1に、反①~反⑨として整理した。


表1 効果がない型反論、9通り

診断への疑義 効能への疑義
反① 「日本人の低い英語力が国際化への障害になっている」という認識はおかしい 反⑤ 小学校に英語を導入しても、英語力育成は期待できない
反② 「日本人は国際交流での態度に問題があり、それが国際化の障害になっている」という認識はおかしい 反⑥ 同上、国際理解・異文化理解への積極的態度の育成は期待できない
反③ 「現代の子どもにコミュニケーション上の問題がある」という認識はおかしい 反⑦ 同上、言語コミュニケーションへの積極的態度の育成は期待できない
反④ 「子どもの英語学習の機会に差がある」という認識はおかしい 反⑧ 同上、英語学習への肯定的態度の育成は期待できない
反⑨ 同上、英語力の差がなくなり、平等になることは期待できない

英語力育成は期待できるのか

このうち最大の争点が、反⑤、つまり、小学校英語によって日本人の英語力が向上するという主張をめぐる賛否である。 両者の対立を一言で要約すれば、英語の運用能力育成に大きな効果があると考える賛成派に対して、そのような効果は期待できないか、あったとしても現行の公立小学校の教育環境(授業時数やカリキュラム、教員の質・量など)では大した効果を見込めないと主張する反対派という構図である。

早期開始のメリットは、量の問題と質の問題に分解できる。早くから始めればそれだけ学習時間が長くなるから効果が上がるというのが量の観点であり、一方、早い時期のほうが何らかの発達的理由から学習効果が高いというのが質の観点である。

一般論としては両者とも重要だが、日本の小学校英語論議で前提にされるのが、ほとんどの場合、質の観点である。 それは当然である。日本の小学校教育課程では、現実的に週1-2時間程度しか授業時間を捻出できない(どんなに頑張っても3時間が限度だろう)。 微々たる学習量増加で量の利点を主張しようにも、土台無理な話である。

早期開始の質的な利点に関する推進派の主張は、大別して、 (a) 「早期から英語を始めたらペラペラになった知人の(あるいは自分の)子ども」というような逸話的なもの、 (b) 脳神経科学や発達心理学等の知見をもとにした類推、そして、 (c) 早期英語学習経験者と非経験者を比較した実証研究の成果である。

このうち、(a) は、根拠が不確かな「都市伝説」のようなものばかりで、真剣な検討に値しない (もっとも、この手の主張は、審議会でも頻繁に飛び出しており、早期英語への幻想を増幅する働きをしている点は否めないが)。 (b) は、たとえば「○○歳以降は脳の柔軟性が失われるから早くから始めたほうがよい」とか「発達心理学的に見て○○歳ごろまでが言語習得に適した時期である」という主張である。 こちらも詳細に検討する必要はあまりない。 NNN章で見たとおり、小学校英語論議において引用される脳神経科学や発達心理学はほとんどが不適切な引用だからである(原典で言ってもいないことを、さも言っているかのように引用する我田引水のオンパレードである)。

経験者・非経験者を比較した実証研究

そもそも、早期英語学習プログラムの成否は実社会の文脈で検討されるべきものであり、脳の血流量や神経伝達物質、あるいは発達段階などに抽象化する必要はない。先行プログラムや実験プログラムに効果があったかどうか実証研究に基づいて判断すべきである。

こうした問題意識に基づくのが (c) である。 1980年代から、早期英語教育プログラムの有効性を学術的に明らかにしようという機運が高まり、多くの実証研究――早期英語経験者と非経験者の比較研究――が行われた。 このうちのいくつかには確かに早期英語の有効性を示したものもあり、推進論の拠り所となった。

しかし、有効性を証明したとする実証研究には問題も多い。とりわけ、重要なのが次の二点である。

第一に、対象者選択の問題である。 調査対象の早期英語経験者が、多くの場合、私立小学校や研究開発学校に通っていた特殊な児童であり、公立小全体に一般化することは難しい。

第二に、そもそも実証研究の中には、効果に関して否定的な結果を示したものも多い。 つまり、結果はばらばらで、効果について白黒ついているわけではないのである。 心情的に推進論に共感しがちな人は、効果を実証した研究ばかりに目が行き、他方、心情的に慎重論に共感しがちな人は効果を実証できなかった研究に注目してしまう。 したがって、フェアな比較を行うために何らかの枠組みが必要になる。 NNN章では、この問題を、エビデンスベースト教育政策の枠組みを使いながら検討する。

実証研究による英語熱の冷却

なお、ここで急いで付け加えれば、実証研究の結果を恣意的に引用する「不作法」は推進論者のごく一部に見られるだけである。 多くの推進者は、対象者選択の問題や否定的な研究結果に真摯に向き合ってきた。

それだけに、否定的な結果を示した研究の存在は衝撃だったはずである。 1980年代・90年代までは効果があると素朴に信じられきたがゆえに大きな高揚を見せていた早期英語熱が、実証研究の蓄積によって適切に冷まされたと言える。 実際、2010年代、研究者や教育関係者による文献には、小学校から英語を始めれば英語力が向上すると強弁する主張は姿を消すことになる。

教育条件

そうした背景から、とくに近年は、小学校から始めさえすれば英語力が身につくといった素朴な楽観論はなりを潜めている。 とりわけ研究者は、一般論として早期英語の効果を肯定しつつも、それには授業時間数、指導方法、そして指導者が理想的な環境であればという条件を付す者がほとんどである。

もっとも、この3つの要因の重要性は疑いないが、これらが整っている環境であれば小学校であれ中学高校であれ英語力は伸びるはずである。 そう考えると、正論には違いないが、実質的にはあまり意味のある主張ではないだろう。

論争の空白地帯である「診断」

英語力が向上するか否かという論点について白熱した議論が展開されたのとは対照的に、その他の論点については目立った反論・反反論が見られない。

診断、すなわち現状認識に対する批判は総じて低調である。

グローバル化

第一に、グローバル化・国際化が進んでいるという認識に疑義を差し挟む主張はほとんど見られない。 グローバル化の進行など当然ではないかと思うかもしれないが、必ずしもそうとは言い切れない(詳細はNNN章で議論する)。 にもかかわらず、反対派を含めて疑義を呈する人がほとんどいない。 小学校英語論を特徴づけるキーワードの一つが「グローバル化」ではあるが、論争の参加者は表面的な理解のままでこのキーワードを使っているだけではないかとさえ思えてくる。

日本人のメンタリティ

第二に、日本人の国際交流上の態度に問題があるという認識(賛②・賛③)は、ほとんど争点化していないが、実際には批判的な検討が必要である。 日本人は内向きである、同質的である、腹芸に頼り言葉で意見を伝えるのが苦手である等々、国際交流における問題とされるものはいずれも日本人論・日本文化論として、日本研究者や文化人類学者に厳しく批判されてきた(杉本良夫・ロス=マオア『日本人論の方程式』。ベフ=ハルミ『イデオロギーとしての日本文化論』[BIBLIO])。

そもそも上記の「問題点」のほとんどが、「みながそう言うからそう思えてくる」といった占いの類であり、詳細な調査・研究によって明らかにされたものではない。 むしろ、日本人同質論については、計量社会学者の間淵領吾による国際比較分析[BIBLIO]で反証されている。間淵の分析によれば、日本人は他国??に比べて、意見の同質性がむしろ低いのである。

機会均等

第三に、「英語学習の機会に差があるから導入すべし」という主張(賛⑥)に対しても反論はほとんど行われていない。 この主張はある種の平等化要求なので、異を唱えづらいのもわかるが、どのような学習経験を平等化すべきかについては実は難しい問題をはらむ。

極端な例だと、バイオリンの学習経験については明らかにばらつきがある。しかも、裕福な家庭の子どものほうが経験しているのも明らかである。しかしながら、このような状況を不平等だという声は聞かれない。 英語学習経験のばらつきを問題だとみなす考え方の背後には、将来的に英語力に差を生み出し、ひいては進学や就職、あるいは人生設計を左右してしまうという前提があるだろう。 ということは、これは、小学校英語は英語力育成に効果的であるという前提があって初めて成り立つ主張である。 前述のとおり、反対派ばかりでなく賛成派にも英語力育成という効能に対し懐疑的な論者は少なくないが、これは機会均等論の前提と大きく矛盾するのである。 「小学校英語は効果がない。でも、学習経験に格差があるのは問題だ」という主張は基本的に成り立たないのである。

「コミュニケーション能力が低い」

第四に、「現代の子どもはコミュニケーション能力が低い」という現状認識(賛④)も、実はかなり怪しい代物であるが、ほとんど誰も問題にせず、争点とはならなかった。

この主張は、典型的な若者言説(「最近の若者は…」といった愚痴)である。 ただし、主張が行われた時代状況(主に2000年代)を加味して理解する必要があるので、少々脱線するが当時の社会状況について説明する。

90年代後半から2000年代にかけて子どもや若者のコミュニケーションのあり方が大きな社会問題になった。 「(キレる)十七歳」が2000年の流行語大賞にノミネートされたように、対話なしでいきなり暴力に訴える子どものイメージが形成された。 この頃に一般化した「引きこもり」や「ニート」という言葉にも、コミュニケーションに問題を抱えた人たちというレッテルが貼られている。

その一方で、社会や仕事の流動化・高度化に伴い、若者に求められる能力は、抽象的でしかも複雑になった。 その代表格が「コミュニケーション能力」である。 この状況を教育社会学者の本田由紀は、(従来のメリトクラシー[=能力主義]の徹底化という意味で)「ハイパーメリトクラシー」と呼んでいる[BIBLIO]。

要するに、伝統的な若者言説、そして、大人にとって理解不可能な事件や社会現象、さらには、社会の流動化・高度化に伴うハイパーメリトクラシーによって、若者や子どものコミュニケーションのあり方に注目が集まったのが1990年代以降だったと言える。 このような価値観が充満する空間では、以前であれば「おとなしい子」や「ちょっと変わった子」という評価で済んでいた子どもが「コミュニケーションに課題を抱えた子」と見なされるようになる。

しかし、問題は、子どものコミュニケーション能力が低下したという調査結果は一切存在しない点である。 つまり、小学校英語推進論には、若者言説を真に受けた根拠不確かな主張が生産され、大した反論も受けずに流通し続けているということである(しかも『学習指導要領解説』にまで記載された)。

効能をめぐる論争

反⑤「英語力育成」以外の効能について、やはり反対論は低調である。

まず、反⑥と反⑦について。 小学校英語を導入すれば子どもの国際性・異文化理解や会話への積極性が向上するという主張は、あくまで机上の推論である。 一方で、たとえわずかであってもこうした体験は決定的に効果的である気もするが、他方で、週に1-2時間程度の英語学習経験では大して影響がない気もする。

要するに、実証データが決定的に不足しているが、この点について反対派からの指摘はほとんどない。 日本の小学校英語の出自は国際理解教育であり、この目的論は常に重要な位置を占めていたわけで、もう少し争点になってもよかったのではないかと思う。

反⑧の英語学習への肯定的態度育成については、一応、争点にはなっている。 代表的な反対論が、早くから始めると、英語に慣れ親しむどころか、むしろ嫌いな子どもが増えるというものである。 もっとも、小学校で英語をやれば即英語嫌いが増えるという話ではなく、教育条件の未整備と相まって問題が生じるという理屈である。

この点は賛成派にも共有されている。実際、小学校で英語を始めれば無条件で英語好きが増えるなどという過度な楽観論はほとんど見られない。 もっとも、楽しく充実した授業が例外なく毎日行われている理想的な条件であるならば、小学校であろうが中学・高校であろうが、英語嫌いが増えるはずもなく、このような理想的な条件を前提にした議論にはあまり実りがない。 むしろ、現実的な条件を出発点にして、そうした条件でも英語への肯定的態度は育まれるのか、あるいは英語嫌いを増やしてしまうのかを論じるのが生産的だろう。 しかしながら、このような論争は筆者の知る限り、なされている形跡はない。

まとめると、反⑥・反⑦、そして反⑧も、効果の有無について見通しが異なることに起因した争点である。 つまり、「英語力育成を優先するか、国際理解育成を優先するか」といった価値観の対立ではない。 その点で、実証的な解決を見やすい論点であるが、残念ながら、実証研究は圧倒的に不足している。 それが災いして、賛成派は観念的な主張に終止し、反対論者も争点としないため深まらない。 なお、この「効果をめぐる問い」の検討のあり方については、NNN章で検討する。

「効果がない型反対論」のまとめ

以上見たとおり、推進派が掲げる主張のうち、英語力育成および英語学習への態度の育成を除き、多くの主張に反論がなされてこなかった。 上記で見たとおり、推進派の認識には根拠が不確かなものも多かったにもかかわらず、そこに批判が集まらなかったことは奇妙でもあり、そして建設的な論争のうえでは不幸なことでもあった。

こうした議論の偏りは、論争参加者の関心がいかに「英語力育成のための小学校英語」に集中しているかを物語っていると言えよう。 文科省は、1990年代後半から2010年代まで一貫して、総合学習や外国語活動の目標は英語習得ではないと強調してきた。 しかし、その訴えも虚しく、英語習得が可能かどうかという論点に回収されがちだったのである。

そして、スキル育成論の影にかくれて、「日本人の国際感覚を向上させるため」とか「子どものコミュニケーション能力低下を解決するため」という根拠も効能も不確かな主張が、反論の洗礼も受けずにそのまま流通し、ひいては文科省の公式見解にまで成長していったと言える。

第4節 反対論「副作用が大きい」型

次に、「副作用が大きい」型、つまり小学校英語導入はむしろ有害な面が多いという反対論を見ていく。 多種多様な観点から小学校英語のリスクが主張されており、システマティックな分析が難しいので、各主張を順番に議論していく方式をとる。

まず、表2に反対論の全体像を示す(害①~害⑩)。


表2「副作用が大きい」型の反対論

主張
英語力・英語学習へ悪影響 害① 英語指導の 訓練を受けていない小学校教員が指導することで、間違った英語の発音を身につける
害② 同上、英語嫌いが増える
認知能力へ悪影響 害③ 母語が混乱する
害④ 国語の時間が減り、国語力が低下する
害⑤ 学力が全般的に低下する
英語重視の弊害 害⑥ 英語だけを特別視し、言語は平等であると考えなくなる
害⑦. 日本人としてのアイデンティティを喪失する
教員の負担 害⑧ 教員の負担が増える
子どもの負担 害⑨. 英語学習は子どもにとって負担になる
害⑩. 中学入試に英語が課されることになると、受験勉強の負担が増える

害①・害② 英語力・英語学習への悪影響

小学校への英語の導入は様々な観点から批判されてきたが、その代表選手のひとつが、教育環境が整っていない小学校で教え始めるのは、むしろ英語力・英語学習に害があるのではないかという批判である(害①・害②)。

既に見たとおり、日本では基本的に、既存の小学校教員に英語指導を新たに担当させるという形態で導入が進められてきており、こうした状況への懸念である。

そうした懸念は、 第一に、小学校教員の英語力、第二に英語指導能力(外国語教授法や英語学・音声学等の知識)に向けられている。 とりわけ、子どもたちに間違った発音や文法を教えかねないのではという懸念の声は大きい。

反対論に対する応答

反対論者の主張に対する賛成側の反論は二通りある。 1つ目は、小学校教員に英語指導経験が不足していたとしても、初歩の学習では大きな問題にならない、あるいは、外部から指導者を確保してくればよいという主張――要するに懸念は杞憂だという楽観論である。 2つ目の反論は、小学校教員の英語指導力をことさらあげつらうのは、小学校英語の目指すものを理解しそこなっているというものである。

第二の反論はもう少し説明すべきだろう。 日本の小学校英語は、スキル主義の伝統的な英語教育と一線を画す形で発展したこともあり、推進者には、英語力育成の側面よりも国際理解やコミュニケーションへの態度など情意面に大きな優先順位をつける論者が多かったことは前章までで見てきたとおりである。 この手の論者からすれば、小学校教員の英語力・英語指導力に対する非難は、あまりにもスキル主義的であり、旧来的な英語教育観に偏りすぎているということになる。

この種の「新しい小学校英語」の主唱者の一人である松川禮子は、英語ができる教師が教えるべきであるという主張を「正論」と認めつつも、そうした「正論」を超えて、英語が必ずしも得意ではない「普通の日本人」としての学級担任にこそ、豊かな英語活動を創っていく可能性があるのではないかと反論する。

筆者[=松川]はこの「総合的な学習の時間」という新しい器に、「英語活動」という新しい教育内容を盛り込む上で、小学校の普通の先生の果たす役割は重要だと考えています。 <改行>
英語に限らず教師の果たすべき機能はいろいろであり、[正しい英語を示すという]モデル提示機能はそのひとつに過ぎません。モデル提示機能にしても先生は英語そのもののモデルではなくて、むしろ「外国語をう日本人」というロールモデルを果たすべきだと思うのです。子どもの興味にそって英語を使う場をどう設定するかというマネジメント機能や子どもの反応を捉えて適切に反応する反応・評価機能に関しては、小学校の先生はALTや英語専科の日本人教師よりも優れていると思われます。さらに、全教科を教えているということを生かした授業設計の能力は、…多彩な英語のカリキュラムを生み出すもとになっています。
(松川 2004 大津本 p.36-7.[BIBLIO])

小学校英語は、スキル主義の伝統的な英語教育ではなく、情意面を重視した「新しい小学校英語」なのだから、英語指導経験の不足は大きな問題にはならない。そもそも小学校教員には英語指導経験の不足を補ってあまりある豊かな資質があるという主張である。

2つの反反論に関する考察

小学校教員には英語指導者としての経験が不足しているという点は、賛成派・反対派双方に共通した現状認識である。 したがって、争点は、 この現状は大いに問題があると考える反対派と、 問題であることは事実だが外部の人材等で対応可能だとする推進派その1、そして、 そもそも小学校教員の英語指導経験を問題視するのは論点がずれているとする推進派その2 という三つ巴の論争である。 同じ推進派であっても小学校英語に期待するものによって、反応が異なるわけである。

推進派その1の応答――人材確保で対応すべきだ――は、一般論としてであれば文句のつけようのない主張だが、重要なのはその実現可能性である。 つまり、どのような方策を使えば小学校教員の指導経験不足がカバーできるのか、そして、それはどれだけ実現の見込みがあるのかである。 しかし、こうした点についてほとんど議論はなされなかった(情報やデータの不足により、議論したくてもできなかったというのが実情だろう)。 カバーできると述べた論者も、外部人材確保に関する財政試算や成功事例を紹介することはほとんどなかったため、観念的な議論に終始せざるを得なかった。

なお、近年の状況は、この反論があまりに楽観的だったことを証明したように思える。 結局、外部の人材を教壇に立たせる解決策には法制度上の壁が幾重にも立ちふさがっていたため、結局、そのような「難事業」は回避され、抜本的な人材確保は困難になった。また、英語指導経験が豊富な有資格者を採用するための財政措置もなされなかった。要するに、絵に描いた餅だったわけである。

推進派その2の応答――小学校教員の指導力を評価すべきだ――は、少なくとも2000年代頃までは説得力のある主張だったと考えられる。 もし仮に政府が「新しい小学校英語」を採用するのであれば(実際、2013年に教科化が既定路線になる前までは、相応の現実味があった)、小学校教員の指導経験不足をむやみにあげつらう主張は批判されて然るべきだっただろう。

しかしながら、その後、とりわけ2010年代に、政府が「新しい小学校英語」からスキル主義に明確に舵を切ったことはNNN章で見たとおりである。 この反論は、90年代から2000年代には相応の一貫性・説得力を備えていたが、2010年代後半にはもはや時代遅れになった感がある。実際、2010年代の教育界・学界は、小学校教員の英語力向上・英語指導力向上が急務だとする主張で溢れかえることになる。

害③・害④・害⑤ 日本語力や学力など認知能力に悪影響がある

反対論の中でも最も有名なものが、日本語力低下論である。 この主張は、文字通りあらゆる媒体で目にする。 インターネットの匿名掲示板や情報番組のコメンテーターの発言だけでなく、新聞の社説や識者(作家や学者)の論考まで非常に多岐にわたる。 なかでも、文句なくナンバーワンの影響力だったのが、 2006 年 9 月の伊吹文明文部科学大臣(当時)による「美しい日本語が大事、必修化の必要なし」という発言である。 同じ年にベストセラーになった藤原正彦著『国家の品格』でも、国語重視論の観点から小学校英語が辛辣に批判されていたが、これも偶然ではない。 2000年代は、「日本語がだめになる」論が溢れかえっていた時期だったのである。

もっとも、この手の主張は近年に限ったものではなく、小学校英語が議論され始めるはるか以前から、早期教育を批判する文脈で数多くなされている。 日本語が大人の水準に発達していない子どもに別の言語を習わせるという光景は、ある種の人々の神経を逆撫でするものだったのだろう。

なお、日本語力低下論には次の区別が必要である。

ひとつは害③で、早期に外国語に接触することによって母語が混乱したり、どちらの言語も中途半端になる(「セミリンガル」などと呼ばれる)という主張である。 もう一つが害④で、小学校に英語が導入されると、国語の授業時数が減り、国語力が低下するという主張である。

後者は教育課程内での授業時数のやりくりに関する懸念である。 それに対し、前者は言語習得に伴う認知発達面への悪影響を問題にしており、小学校英語だけでなくあらゆる早期第二言語学習・年少バイリンガリズム(2つ以上の言語を同時に習得すること)へも矛先が向かう主張である。

結論から言えば、母語が混乱するという主張は、研究者、とくに言語学者・心理学者の間でほぼ否定し尽くされているし、セミリンガルなどとまことしやかに論じられる現象にも実は根拠がない。要するに、都市伝説の一種である。 たしかに、日本語という母語の軸ができる前に別の言語に接触するのは一見不安だが、そもそも「母語の軸」なる考え方が第二言語習得の実態に合わないのである(詳細は、バトラー後藤裕子『英語学習は早いほど良いのか』[BIBLIO]を参照)。

この点で、母語が混乱するという批判は明らかに悪手である。 悪手だからこそ反論しやすい論点であり、賛成派はこぞって「反撃」する。 実例をひとつひとつ紹介することは避けるが、「母語が混乱するはずがない」「バイリンガルの言語能力が中途半端などというのは著しい偏見」などといった反論が多数なされてきた。

同時に、筋の悪い批判であるがゆえ、反対派の専門家からの評判も必ずしも良くない。 反対派の代表的人物である言語学者大津由紀雄も、自身の主張が「日本語がダメになる」のような素朴な主張に回収されがちであることに不満を吐露している。

小学校英語を行うよりも、まずは言語教育をきちんとすべきだという提言もさまざまなところで述べたり、書いたりしています。これも、時として、《英語などやると母語である日本語がだめになる》という主張にすりかえられてしまう。子どもたちの心の奥底に根ざした母語は外国語を週に一時間や二時間やった程度のことでぐらついてしまうほど柔なものではありません。
大津由紀雄 (2006e)「公立小学校における英語教育―議論の現状と今後の課題」(大津由紀雄編). 『日本の英語教育に必要なこと―小学校英語と英語教育政策』 東京:慶応大学出版会)[BIBLIO]

大津の最後の指摘も重要である。 もし反対派の多くが言うように週に1・2時間程度の英語学習では英語が身につかないならば、国語力にもおそらく影響は出ないはずである。 つまり、英語は身につかないという主張と国語がダメになるという主張は両立し得ない――とはいえ、両者を同時に述べる人はままいるのだが。

もっとも、害④の「英語が導入される → 国語の授業時数が減る → 国語力が低下する」という理屈にはこうした矛盾はない。 実際、英語と引き換えに国語の授業時数が減ることへの懸念はしばしば聞かれた。 しかしながら、実際にこのような事態は生じなかった。2011年の外国語活動の必修化でも、2020年の教科化でも、授業時数減の憂き目に遭ったのは総合学習だったからである。 そもそも、政府(官邸・文科省)の英語教育政策は、昔から、日本人の欧米化などでは決してなく、日本人としてのアイデンティティを堅持しつつグローバル社会で戦える「強い日本人」の創出をしようとしてきた(久保田竜子『グローバル化社会と言語教育』参照)。 したがって、そう簡単に国語の時間を減らすとは考えにくい。

害⑥・害⑦ 英語への特別視を助長

害⑥「言語は平等であると考えなくなる」と害⑦「日本人としてのアイデンティティを喪失する」は、いずれも児童が英語を特別視してしまうことへの懸念であるが、拠って立つ前提はかなり異なる。

前者は文化相対主義的な観点からの懸念である。 曰く、本来、あらゆる言語・あらゆる文化は平等であるはずなのに、早期から英語に接すると英語だけが特別な言語であるという信念が刷り込まれる、と。

一方、後者は、英語や英米文化の特別視によって、日本文化のコアである日本語を軽視するようになったり、日本人としてのアイデンティティに迷いを感じてしまうという批判である。要するに、日本文化ナショナリズムである。

以上のように、一見似た⑥と⑦は前提がまったく異なる。 後者の日本語・日本文化ナショナリズム型の主張は、要するに、日本国民の教育である以上、日本語・日本文化をまずは優先せよ(英語・英米文化を特別視すべきではない)と暗に述べている点で、文化・言語に対する相対主義的な見方をとる前者とは矛盾すらしている。

反論

英語への特別視が助長されるという批判はかなり観念的であるが(実際、実証的根拠はほぼ述べられない)、それに対する応答も観念的である。

反論の第一のタイプが、特別視につながるなどという懸念は杞憂であるとか、適切な指導があれば問題は生じないという、要するに楽観論である。

その主張はたとえば次のようなものである。 異文化理解という名目でALTの出身国(多くは米英加豪NZ)の文化だけを紹介したり、日本語使用を理不尽な形で禁止したりすれば、たしかに英語・英米文化を特別視させかねない。しかし、そうした点を注意し、真の意味での異文化理解・他者理解をカリキュラムの核に据えれば問題は生じない。

一般論としては異論を挟む余地のない正論だが、問題はその特別視が指導上の工夫程度のことで乗り越えられるのかどうかという点である。 英語を重視する風潮は日本社会の社会構造に深く埋め込まれているわけで、対症療法的な工夫で克服できるものかは不明である。

一方、「英語の特別視につながるから小学校で英語を始めてはいけないと言うなら、なぜ中学校はよいのか」という反論もある。 開き直りめいた反論だが、実はなかなか鋭い指摘である。 なるほど、中学校の「外国語」はほぼ100%英語で、高校でも第二外国語を開講する学校はほんのわずかである。そして、大学におけ最も重要な外国語は間違いなく英語である。こうした社会状況で、なぜ中学生では英語の特別視は助長されないのか、なぜ小学生だけが危険なのか。

矛盾のない理屈を構築するためには、中学生は小学生と異なり、英語を特別視しないだけの精神的耐性が育っているといった「補助理論」を主張しなければならないが、これはかなり苦しい主張である。 精神的転換点が12-13歳前後にあるとする知見は発達心理学をはじめとした発達科学では何ら示されていないからである。

以上見てきたとおり、特別視を懸念する論者もそれに反論する論者も、理論的・実証的根拠を提示しておらず、観念的な論争に終止している。 いわば、素朴な悲観論に対して素朴な楽観論で応じるという構図である。 こうした水掛け論から脱し、建設的な議論につなげるためには、何らかの実証データが必要である。「英語への特別視」をどう測定するかは難しい問題であるとはいえ、心理測定の知見を援用すれば決して困難ではないように思われる。 しかしながら、こうした実証データが整備されないまま、論者個々の信念をぶつけ合う水掛け論に終止しした。結局、2010年代になるとこの論点はあまり論じられなくなってしまった感がある。

害⑧ 教員への悪影響

教員への悪影響に関しては、ほとんどが教員の負担に関するもの(害⑧)である。

この点をストレートに批判しているのが、2017年9月14日に全日本教職員組合が出した緊急要求である。

多くの小学校教員は、英語教員免許を取得しておらず、児童に十分な指導を行うことができないもとで、負担増を押し付けられることになってしまいます。《改行》
現在でも、33.5%の小学校教員が過労死ライン月 80 時間を超える時間外勤務を強いられている中、さらなる長時間過密勤務を増大させるものです。現在、多くの自治体では、改訂学習指導要領の先行実施及び完全実施にむけて準備がおこなわれています。しかし、必要な条件整備が行われていないもとで、「外国語関連の授業増加に対応するための策がないまま、現場に丸投げされていることに憤りを覚える」…などの声があがっています。

要するに、教員の就労状況がいっそう悪化しかねないという懸念である。 実は、この観点からの批判は小学校英語論争では異色である。 というのも、論争における「主戦場」は、小学校英語の導入が児童の学び・成長にどう影響するかという狭い意味での学習者論だったからである。 これまでの議論を振り返ってみれば、それは明らかだろう。

つまり、論争は児童への注目一辺倒であり、労働者としての教師という視点や教員の人権という観点は薄い。 教育基本法「改正」であれ、歴史教科書であれ、国歌国旗をめぐる問題であれ、主要な教育論争では必ず教師の立場という論点が含まれていたのとは大きな違いである。

教師の負担論は、論争における「異端児」だけあって、数は比較的少ない。 教員の働き方改革に注目が集まり始めた2010年代後半こそ、上記の全教の要求をはじめとして、存在感を増してきたが、2000年代の論争最盛期にはきわめて影が薄い論点であり、1990年代にはほとんど指摘されなかった。 たしかに教員組合系の英語教育研究組織(たとえば新英語教育研究会)は当然ながらこの論点を根強く訴えてきているものの、全体としてみれば少数派だった。

そして、少数派だからこそ、賛成派からの応答もなく、争点にはなっていない。

「教員の負担」という認識

「教員の負担」論は反対論という形での論点化こそされなかったが、常に認識はされてきた。 たとえば、教員対象の意識調査において、この点は最頻出項目である。 2000年に日本児童英語教育学会関西支部のグループ[BIBLIO]が近畿地方の市町村教育委員会を対象に行なったアンケート調査では、英語学習を既に実施している小学校において問題になっていることの筆頭として「担任には英語の教材研究や授業の準備に当てる時間的余裕がなく肉体的、精神的負担が大きい」という点があがっている(実施校283校中128校が指摘。45.2%)。

この調査に限らず、教員の負担という問題点は1990年代から現在まで常に頻繁に指摘されているが、一方で、小学校英語反対論の論拠として持ち出されるのは前述の通り近年になってからである。

これは、教員がながらく「聖職者」としての側面を期待されてきたことと無関係ではない。 「教師聖職者論」に基づけば、児童生徒の優先順位がいついかなるときも第一であり、いきおい、自身の労働者としての権利を声高に叫ぶことがはばかられた。

2010年代後半、働き方改革の流れもあり、ようやく無条件の奉職の問題性が周知されはじめ、「児童ファースト」のようなスローガンを相対化できる空気が広がりつつある。 この結果、教師の負担という反論が上げやすくなったと考えられる。

とはいえ、いまだに「権利ばかり主張して、子どもの学びを第一に考えない教師など論外である」といった主張は根強いし、そればかりか脅迫的フレーズとしてすら重宝されている。 しかし、こうした緻密さを欠いた物言いこそ論外だろう。 小学校英語はもはや、教師個人の心情論、狭い意味での指導論・教室論の領域を越えている。 教育制度・政策全般という視覚から考えていかなければならない以上、労働者としての教師の権利についても議論全体の一画にきちんと位置づける必要があるはずである。

害⑨ 子どもの負担

小学校英語は、教師だけでなく、子どもにも負担であるという批判もある。 大別して、英語学習そのものが子どもにとって負担であるという一般的な主張と、私立中学校の入試科目に英語が取り入れられて受験競争が激化するという中学受験を前提にした批判に分けられる。

総合学習や外国語活動の良い意味でのんびりした英語教育を知っている私たちからすると、上記の批判はいささか過剰反応という気もするが、小学校英語の具体的な導入形態が未知数だった1990年代においてはそれなりに切実な懸念だった。 実際、1990年代の中教審の審議で、英語学習の過熱が強く警戒されていたことはNNN章で見たとおりである。

中教審の判断が功を奏したのかは定かではないが、その後しばらくの間は、中学入試は大きな問題にならなかった。 ほとんどの私立中学が、基本的にそれまでの入試科目体制(国語・算数・理科・社会)を維持し続けたからである。英語による受験者選抜は特殊な入試(帰国生入試など)に限定されていた。 こうした事情もあり、2000年代の論争全盛期には影の薄い争点になっていた。

ただし、今後の状況は余談を許さない。 中学受験を扱う首都圏模試センターの集計によると、一般入試で英語を入試科目に入れる私立・国立中学は、2010年代後半に急増しているという。 同センターのブログ(2019年1月21日の記事、https://www.syutoken-mosi.co.jp/blog/entry/entry001542.php )によれば、英語入試を行う首都圏の中学校は2014年には15校だったが、2019年には125校にまで増えたという。 この状況は、教科化される2020年代以降、さらに加速し、しかも全国的に拡大する可能性が高い。 なぜなら、小学校の公式教科というお墨付きが得られるからである。

第5節 まとめ

まとめ

以上が、論争の全体像である。 非常に多数の論点が錯綜した複雑な論争には違いないが、推進派の主張(6タイプ)を中心に見ていくと、見通しが良くなることを示した。

賛成・反対の厳しい応酬が繰り広げられている論点は、思いのほか少ない点も指摘したい。 大きな争点になっているのは、(1) 小学校英語は英語力育成に効果はあるのか否か、(2) 英語学習の肯定的態度につながるのか(英語嫌いはむしろ増えないか)、(3) 現状の指導体制で英語力・英語学習への悪影響はないのか、(4) 日本語力の低下につながるのではないかの4点であり、それ以外は必ずしも十分な議論が尽くされているとは言えない。

もうひとつ指摘すべきは、意見の対立は、賛成派と反対派の間の価値観の食い違いというより、実証データの欠如、要するに情報不足に起因している場合が多い点である (むしろ、価値観の対立は、賛成派内部の対立――小学校英語は、英語習得のためか、国際理解教育のためか――のほうが深刻に思える)。 たとえば、英語力育成に効果があるかどうかという争点は、決定的なデータがあれば決着する問題である。

もちろん、関係者の間に多様な価値観があるのは間違いない。 ただし、賛成論・反対論いずれにしてもその多くが、データで雌雄を決することができる事実の言明である ――「効果がないのだからやめるべし」という主張をする反対派は、仮にその効果を完璧に実証したデータが得られたのならば、もはや反対する理由はなくなるし、逆もまた然りである。 同様のことは、英語嫌いは増えないかとか英語力にむしろ悪影響があるのではといった議論についても言える。 いずれもデータ不足が争点を生んでいる原因である。

これが意味するのは、研究者が中心となって適切なデータを用意さえすれば、論争の多くは――少なくとも形式上は――決着がつくということである。 とはいえ、やみくもにデータをとればいいというものではない。自分の立場に都合がよい形で調査を設計したり、恣意的にデータを解釈するのは厳に慎むべきで、研究者には中立的な調査設計・分析・解釈が求められる。

もっとも、社会科学(教育プログラムの効果検証はここに含まれる)において、完全に中立的な手続きでとられた「完全無欠のデータ」など存在し得ない。 したがって、そこまで高い水準を要求するのは現実的ではないが、少なくとも多くの人が納得できる手続きに基づいてデータが採られるのが望ましい。 この指針として、エビデンスベースト教育政策と呼ばれる考え方が大いに参考になる。詳細はNNN章で論じる

論争の手続き

最後に、論争の行われ方の問題点について述べたい。

本章では、小学校英語の是非をめぐる議論を便宜的に「論争」と呼んできたが、これは一般的な論争とかなり性格を異にする。 事実を明らかにする手段としての科学論争とも異なれば、自陣営の正当性を主張することにより第三者(裁判官・陪審員・審判等)を説得する法廷闘争や競技ディベートでもない。 そうではなく、自分が心情的に思い入れのある英語教育について(多少の根拠を述べながら)主張するだけの、有り体に言えば放談型の論争だったというのが筆者の評価である。

心情ベースの放談だからこそ、反対陣営から痛いところを突かれた場合、その点をディフェンスするインセンティブは少ない。 黙殺するか曖昧にぼかせば事足りる(科学論争や競技ディベートだったらこうは行かない)。 逆に、反対陣営に脇が甘い部分があれば多少的外れであっても「口撃」すれば溜飲が下がる。 この結果、叩きやすくデフォルメされたストローマン(藁で作ったカカシ)を論破するのに終止し、もっと時間をかけて丁寧に論じなければいけない論点の多くが放置されてしまった感がある。

また、この論争(あるいは対話)を実りあるものにするには、反対論に対する推進側の反論(あるいは応答)が不可欠だった。 しかし、NNN章で見たとおり、2010年代になると、そうした反論・応答はなりを潜めた。

この理由として、推進側にはそもそも反論・応答するインセンティブがないことが考えられる。 1990年代・2000年代ならば導入されるかどうかも定かでない段階であり、賛成派にも論争のテーブルにつくメリットはあった。 しかし、2010年代になると小学校英語は(理想型かはさておき)実現した。 2010年代半ば以降は教科化も既定路線化しつつあった。 行政的な後ろ盾が得られた以上、もはや声高に意義を叫んだり、反対派に反論する理由がなくなったのである。

たしかに、論争にかまけたりせず小学校英語施策を粛々と進めていくのが実務的には正道かもしれない。 しかし、論争・対話の消失は、小学校英語教育論が理論的に深化できなくなったことを意味する。議論の欠如は、後々、大いなる負の遺産になりかねない。

本章の文献

  • 瀧口優 (2001). 「『英会話』導入の背景」 『新英語教育』4 月号 pp.24-5.
  • JASTEC関西支部調査研究プロジェクトチーム (2001)「総合的な学習の時間」における英語学習に関する実態調査--近畿地区内の教育委員会を対象とした質問紙調査に基づいて」『日本児童英語教育学会研究紀要』20号、pp. 47-63

  • Enever, Janet. (2018) Policy and politics in global primary English. Oxford Applied Linguistics. Oxford University Press, Oxford, pp208. ISBN 978-0-19-420054-7

  • 間淵領吾 2002 「二次分析による日本人同質論の検証」『理論と方法』17(1)

岩波書店『世界』11月号「英語の教科化という迷走」

8日発売の岩波書店『世界』11月号に「英語の教科化という迷走」を寄稿しました。小学校英語政策を批判的に論じています。 https://www.iwanami.co.jp/book/b482287.html

最後は

第二次安倍政権以降の小学校英語改革は、英語教育施策としての問題にとどまらず、教育政策過程全般に重大な瑕疵があることを暗示するものなのである。

と締めました。

英語教育関係者だけではなく、一般の人の読む雑誌なので、この改革の問題点は、単に英語教育にとどまらず、様々な問題とつながっていることを示しました。

原稿断片の墓場――学習指導要領解説(2017年発行)の改革根拠をめぐる記述に対する批判

みんなお待ちかね、原稿の墓場シリーズ!!!


第2節 教科化・早期化を批判的に考察する

第1章から前節までは、これまでの政策過程・歴史的経緯に注目し、いきおい政策の内容に関しては踏み込んだ価値判断を控えてきた。 一方、本節では、本書執筆時点で最新の小学校英語改革である2020年4月からの教科化・早期化をとりあげ、その政策内容の問題点を批判的に検討したい。

前章でみたとおり、2013年6月に閣議決定で教科化・早期化の方向性が打ち出された。 つまり、中教審で学習指導要領改訂に向けた議論が始まる2014年にはすでに既定路線になっていた。 要するに、教科化という結論先行の改訂論議である。 たしかに、文科省も研究調査や中教審の議論を通して独自の貢献を行っているものの、英語を教科に格上げするという方針を崩すことは困難だった。

こうした事情を頭の片隅に置きながら、『学習指導要領解説』(そして、そのもととなった中教審答申)を読むと、見事に根拠と結論の前後関係が逆転している様が読み取れる。 つまり、教科化という結論が先にあって、この結論に都合のいい根拠を様々なところからつまみ食い的に拾ってくるという論理展開になってしまっている。

以上の問題意識から、『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 外国語活動・外国語編』(以下『解説』)で述べられた改革の根拠を批判的に検討していく。

教科化の根拠

問題点の第一が、教科化が本当に有効なのか実はよくわかっていないまま政策決定がなされた点である。 少なくとも政府は明確な根拠を示していない。

ここで強調したいのが「明確な」の部分である。 なるほど、優秀な官僚が作った文章だけあって、『解説』はなかなかよくできている。実際、それなりに「根拠らしきもの」は書かれており、無根拠な空想論が垂れ流されているわけではない。 しかし、丁寧に読んでいけば、それが「明確な根拠」とは言えないことがわかるはずである。

『解説』は200ページを超える大部の文書だが、改革根拠への言及はわずか1ページ程度である(中教審答申も同様)。 それ以外の部分に書かれているのはほとんどが howの議論、つまり、どのように外国語活動や教科の英語を実施すべきかについてである。 この点でも、改革をめぐるwhyの議論はないがしろにされていると言えよう。

では、「根拠らしきもの」の中身を見ていこう。 ところで、『解説』は控えめに言ってもかなりの悪文で、一文が非常に長く、きわめて読みづらい。 おそらく行政文書として内容を総花的にせざるをえなかったため、そして、多くの予防線を張ったためだと思われる。 読み物として決して面白い文章ではないが、行政文書のクセの強さを体感するのも一興なので、該当箇所をそのまま引用する。 ただ、引用後に筆者なりの「翻訳」を記すので、読むのが苦痛の場合には読み飛ばしてもらっても構わない。 なお、議論の都合上、原文にはない ① ~ ⑤ という番号を付した。

(1)中学年の外国語活動の導入の趣旨
今回の中学年の外国語活動の導入に当たっては,中央教育審議会答申を踏まえ,次のような,これまでの成果と課題等を踏まえた改善を図った。

グローバル化が急速に進展する中で,外国語によるコミュニケーション能力は,これまでのように一部の業種や職種だけでなく,生涯にわたる様々な場面で必要とされることが想定され,その能力の向上が課題となっている。

② 平成20年改訂の学習指導要領は,小・中・高等学校で一貫した外国語教育を実施することにより,外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度や,情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりする力を身に付けさせることを目標として掲げ,「聞くこと」,「話すこと」,「読むこと」,「書くこと」などを総合的に育成することをねらいとして改訂され,様々な取組を通じて指導の充実が図られてきた。

③ 小学校では,平成 23 年度から高学年において外国語活動が導入され,その充実により,児童の高い学習意欲,中学生の外国語教育に対する積極性の向上といった成果が認められている。一方で,(1) 音声中心で学んだことが,中学校の段階で音声から文字への学習に円滑に接続されていない,(2) 日本語と英語の音声の違いや英語の発音と綴りの関係,文構造の学習において課題がある,(3) 高学年は,児童の抽象的な思考力が高まる段階であり,より体系的な学習が求められることなどが課題として指摘されている。

④ また,小学校から各学校段階における指導改善による成果が認められるものの,学年が上がるにつれて児童生徒の学習意欲に課題が生じるといった状況や,学校種間の接続が十分とは言えず,進級や進学をした後に,それまでの学習内容や指導方法等を発展的に生かすことができないといった状況も見られている。

⑤ こうした成果と課題を踏まえ,今回の改訂では,小学校中学年から外国語活動を導入し,「聞くこと」,「話すこと」を中心とした活動を通じて外国語に慣れ親しみ外国語学習への動機付けを高めた上で,高学年から発達の段階に応じて段階的に文字を「読むこと」,「書くこと」を加えて総合的・系統的に扱う教科学習を行うとともに,中学校への接続を図ることを重視することとしている。

上記は、中学年(小3・4)から外国語活動を始める根拠である。 一方、高学年(小5・6)で教科としてのの「外国語」を始める根拠にもほぼ同一の文言が使われているので、こちらは省略する。

前述の通り、一文が恐ろしく長い悪文ばかりだが、率直に言って無駄な表現も多い。その部分を思い切って削ぎ落とすと、次のよう要約できるだろう。

  • 外国語教育の重要性、一般論 グローバル化が進んでいるので、外国語能力を身につける必要がある
  • これまでの経緯の説明、一般論 前学習指導要領(2011-2019)でも、小中高一丸となって外国語教育の充実が図られてきた
  • これまでの「外国語活動」の成果、および課題 前学習指導要領における外国語活動(小5・6で実施)にはある程度の成果があった。一方で、児童の学習面で課題もあった。
  • 課題(つづき) ③の学習面での課題に加えて、児童の学習意欲に関する課題や、小中間の連携にも課題が見られた
  • 提言(早期化および教科化) 上記③・④の課題を解決するため、小学校3・4年で体験重視の「外国語活動」を導入する。また、5・6年で体系的学習にも配慮した教科としての外国語を導入する。

要するに、まず一般論を述べた上で(①・ ②)、プログラムで成果があがっていることを指摘しつつ(③)、一方で課題があることを述べ(③・④)、その解決のために早期化・教科化を提言するという構成である(⑤)。 余談ながら、この文章が読みづらいのは、③と④の不自然な区切り方にある。なぜ③は成果と課題で項目を改めなかったのだろうか。

これまでの成果と課題

こう整理すると、改革の根拠のコアは③と④だけだということがわかる。 先程の引用部分を筆者なりに意訳すると、次の通りである。

『解説』は、1つの成果と3つの課題を示している。すなわち、

  • 成果1 現行の「外国語活動」で子どもは英語により親しむようになっている。成果と言って良い。
  • 課題1 現行の「外国語活動」では文字を扱っていないため、中学校の英語学習とうまく接続できていない。
  • 課題2 現行の「外国語活動」は「活動」に過ぎない。そのため、国語との違いや、綴り、文構造など体系性のある学習に限界がある。この結果、中学校との英語学習とうまく接続できていない。
  • 課題3 現行の「外国語活動」は体系性を欠いており、小学校5・6年生の知的レベル(抽象的思考力)に釣り合っていない。「教科」のような体系的な学習が必要である。

要するに、外国語活動では英語学習の一貫性(とくに中学との接続)の面で課題が多く、教科として体系性のある学習が必要であるから、小5・6から教科化すべきであるという理屈である。 一方で、外国語活動そのものの成果は認めている。丸ごと廃止という極論は導かず、むしろ小3・4での早期化を提言している。

読みほどくのに苦労する悪文だったが、その意図は単純明快で、要するに早期化・教科化の正当化である。 教科化するためには現状の外国語活動に課題があると指摘しなければならないが、課題を指摘するだけでは外国語活動の全否定になってしまう。だから、成果も述べなくてはならない。要するに、両者を立てるために、回りくどい書き方になったのである。

「成果」はあったのか?

建前としての改革理由についてはわかったが、では、上記の成果・課題はほんとうに成果・課題と言えるのだろうか。 言い換えれば、外国語活動には本当に成果があったのか、そして、現状の課題は教科化が必要なほど深刻なものなのか。

まず、成果面について検討しよう。 『解説』では、既に見たとおり、「児童の高い学習意欲,中学生の外国語教育に対する積極性の向上といった成果」が認められるとしていた。これはどれだけ信じてよいのだろうか。

「成果」を考えるには

この点を考える前に少し回り道をしたい。教育プログラムの成果を議論する際に注意すべきは、「どんな教育でも何かしらの成果がある」という点である。 これは小学校英語に限らず、プログラミングでも組体操でもそろばんでも習字でも同じで、やれば子どもは何かしらの成長をする。 したがって、「小学校英語を経験した子どもがこんな素晴らしく成長しました」と訴えるだけではあまり意味がない。小学校英語を経験した場合としなかった場合とを比較し、結果に差があったことを示して初めて成果と言えるからである。

非経験者との比較が決定的に重要な理由は、その「成長」が本当は他の要因による可能性があるからである。 つまり、一見すると小学校英語の効果を示したデータがあったとしても、実際には見かけ上のものに過ぎないことがある。この種の疑似効果の可能性を排除するために、比較に基づく調査設計は重要である。

特に、子どもが対象の教育効果を議論する時、必ず考慮しなくてはならないのが、子どもが本来備えている発達的な力である。 子どもは日々成長している。特別な教育プログラムを経験せずに放っておいても何かしら成長はする。 たとえば、小5から1年間、とある英会話プログラムを行ったクラスがあったとしよう。その結果、「1年後、クラスの平均身長が5センチ伸びました」と言われても、誰もそれを英会話の効果とは思わない。誰がどう見ても発達面での成長だからだ。 しかし、「1年後、コミュニケーションへの積極性が高まりました」と言われると、英会話の効果だと思いたくなってしまう。しかし、これも発達面での成長の可能性は依然としてある。 こうした可能性を排除するために、非経験者との比較が決定的に重要である。

親しむようになったのか

話を戻して、児童が英語に親しむようになったという成果について検討したい。 この成果とは、非経験者との比較から得られた、小学校英語プログラムの真の効果なのだろうか。

『解説』や答申には、本節冒頭で掲げた抽象的な「成果」しか言及されておらず、どのようなデータに基づいた主張なのか定かではないが、中教審での審議を踏まえればどのデータを指しているかわかる。 そのひとつが、文科省が2011年度から行っている小学校外国語活動実施状況調査の結果である。

たとえば、文科省教育課程部会教育課程企画特別部会の第6回(2015年4月28日)における「小学校外国語活動(5・6年生)の成果・効果について 」という資料において、同調査の「成果」が示されている。 以下に概要部分を引用する。 なお、説明の便宜上、原文にはない番号 1. - 3. を付した。

平成23年度より、小学校高学年(5・6年生)に外国語活動(週1コマ)を導入後、
1. 児童生徒:小学生の72%が「英語の授業が好き」。91.5%が「英語が使えるようになりたい」、中学1年生の約8割が「小学校外国語活動で行ったことが中学校で役立っている」と回答。
2. 小学校教員:導入前と比べ、小6の生徒に「成果や変容がみられた」と感じる教員が77%
3. 中学校教員:導入前と比べ、中1の生徒に「成果や変容がみられた」と感じる教員が78%
その変容として、外国語によるコミュニケーションへの積極的な関心・意欲・態度のみならず、英語を聞いたり話したりする力もついてきていると挙げている。
(出典:小学校外国語活動実施状況調査(H23~H24))

上記の 1. は要するに外国語活動がうまくいっている、少なくとも多くの子どもが否定的に捉えていないことを示すデータだと考えられるが、比較がなされていないため、効果と見なすことはできない。 たとえば、もし外国語活動導入の前の調査で9割が「英語が使えるようになりたい」と答えていたとしたら、小学生の大部分は英語の上達を望みやすいという一般傾向を示しているだけである。

上記の 2. と 3. は一見すると、導入前と導入後を比較しているように感じるが、実際は導入後のみの調査である。 調査対象の教員に導入前を振り返ってもらい、当時と比較して成果や変容に気づくかと尋ねたものである。 成果や変容が見られた子どもがそれなりにいることは疑いないわけで、8割近い教員が成果や変容があったと答えていることは驚くにあたらない。 しかし、重要なのは、成果が平均的に見て観察できるかどうかである。印象値で聞いていることも含めて、信頼に足るデータとは言えないだろう。

要するに、学習指導要領改訂の際に考慮された成果(のようなもの)は、いずれも信頼に足る調査ではなかったということである。 政策は科学的根拠に基づいて合理的に決まっているはずだと信じていた人にとっては衝撃的な事実かもしれないが、日本では往々にして教育政策が根拠に基づかずに決められる事が多い(もっとも、これは日本だけには限らないが)。

調査そのものがない

一般論として言えば、小学校英語の効果(たとえば、慣れ親しむようになったか否か)の検証に必要な調査は容易にデザイン可能である。 小学校英語の経験者と非経験者を比較して、前者のほうが学習への意欲・積極性が高いかどうか検証するだけだからである。 学習意欲・積極性は抽象的な概念ではあるものの、何らかの操作的定義を採用すれば問題なく測定できる (そもそも第二言語教育研究には外国語学習意欲に関して膨大な蓄積があり、測定方法の開発は進んでいる)。

にもかかわらず、文科省はそのような調査を実施していない。 もっとも、早期化・教科化について議論していた頃(2010年代半ば)はすでに外国語活動が必修であり、小学生の間で非経験者を探すのは難しかっただろうが、対象者を高校生以上に広げれば検証可能だった。

調査が行われなかった原因は複合的なものだと思われる。 第一に、教科化・早期化が官邸主導であり、文科省のイニシアチブで改革に向けた調査計画・調査予算を用意できなかった点。 第二に、万が一、施策が「成果なし」となった場合、事業縮小・予算削減を余儀なくされるため、そのようなリスクは冒しにくい点。 文科省にとって中立的・第三者的に検証するインセンティブがそもそも低いのである。 第三に、既存のいわゆる研究校には、あるプログラムが効果的かどうか、つまり、文字通りの意味での「実験」のをすることが期待されているわけではない点。 むしろ、今後の発展に向けたカリキュラム開発や情報収集が主たる役割である。

以上、文科省にとって、気の毒な事情もあるが、調査データを欠いているのはやはり問題である。 この点については、小学校英語の効果を理論的に論じるNNN章で、詳細に検討する。

指摘されている課題は本当に「課題」なのか

次に「課題」についてである。 繰り返しになるが、『解説』は、教科化の根拠として、外国語活動のままでは体系的な英語学習を行えず、中学校の学習にうまくつながらないという問題点を指摘していた。

ここで問うべきは、外国語活動には本当にそういう問題があったのかという点だが、結論から言えば、信頼に足るデータはない。 審議過程において、文科省事務局は、小学校段階でもっと読み書きを学びたかったという中学生の声を「データ」として紹介しているが、それはあくまで学習者のニーズの話であり、体系性に問題があることの証拠ではない。 これ以外には、この問題の明確な証左となるようなデータは示されていない。

また、調査研究一般を見回してみても、この種の問題を明らかにしたものはおそらく皆無である。 小学校英語の研究者は多数いるが、外国語活動によって体系性のある学習が阻害されたことを明らかにした研究者は寡聞にして知らない(そもそも研究テーマとして取り組んでいる研究者がいるかどうかも疑わしい)。

現状に問題があるからというのが改革の最も重要な根拠の一つだったにもかかわらず、その点について何らデータの裏付けがないばかりか、調査が行われている形跡すらないというのは、常識的に考えればきわめて奇妙である。 突然、官邸から教科化の方針が降ってきたために、苦肉の策として「課題」をひねり出したというのが実情だろう。

ところで、中学への接続に問題があることを実証した研究はないと述べたが、その逆に、どうすれば外国語活動をスムースに中学英語へつなげられるかについては多くの研究の蓄積がある。 つまり、研究者や教育現場は、以前から小中接続のあり方を必死で模索してきたのである。 しかし、その最中に文科省は「外国語活動のままでは接続は難しい」と確たる根拠もなく結論づけたことになる。 関係者にとっては、梯子を外されたようなものであり、同情を禁じえない。

以上見てきたとおり、教科化・早期化の根拠にはたいへんな粗さが目立つ。 現行の外国語活動の成果・課題をほとんどまともに点検せずに、新たな改革を行おうとしている。 奇しくも、文部科学省は2015年6月に策定した「生徒の英語力向上推進プラン」を通じて、各都道府県に「PDCAサイクル」の構築を促した。PDCAとはPlan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)という4段階を繰り返すことで、業務の着実な改善を図るという考え方である。

考え方は立派だが、教科化・早期化という結論ありきで理屈をひねり出す文科省の姿勢は、明らかに Check と Action を欠いている。 考えてみれば、2000年代半ば、小学校英語の必修化に関する審議のときも、先行実施校などの事例を詳細に検討すること(Check と Action)はほとんどなかった。 その意味で文科省が昔から回してきたのは「PDPDPD...」サイクルに過ぎなかったわけである。

現行断片の墓場――2010年代のJASTEC・JESの学会アピール

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ここまで、2010年代の政策過程を見てきたが、以下より政治の外の動きを見てみよう。 本節で学界の状況、次節で社会的な動向を見ていく。

学界動向

学術的な動きとしては、結論から言えば、2000年代のような激しい論争はもはや行われなくなった。 と言っても、英語教育関係者の多くが反対派も含めて小学校英語の意義に「目覚め」、ついに学界が一丸となって「小学校英語応援団」に転換したなどというわけでは決してない。 主たる原因は、推進派と慎重派の間で対話が停滞したためである。

推進側

まずは推進側の動きを見てみよう。 日本児童英語教育学会は、2012年に「小学校外国語活動の教科化への緊急提言」を発表した(第NNN章で見た1995年のアピール、および2006年のアピールの後継である)。 このアピール文はインターネット上でも確認できるが、お世辞にも読みやすい文章ではない。以下、筆者が要約したものを記す。

  1. 小学校低中学年は、外国語教育・異文化理解教育の適期である。中学・高校との一貫性のある外国語教育のため、小学校で外国語を必修教科にすべきである。
  2. 小学校3・4年で外国語活動型の英語教育を週1時間、小学校5・6年でスキル育成型の英語教育を週2時間の実施を提案する。
  3. 一貫性のある英語教育のため、中学高校と同様に、小学校修了時の到達度目標の設定を提案する。
  4. 指導内容等は以下を提案する。

    • a 指導内容:聞く・話すを中心に指導し、読む・書くは基本的な表現にとどめる
    • b 言語材料:現在の中学校第1学年程度
    • c 指導方法:コミュニケーション活動を通して学習させる
    • d 評価:態度面・知識技能面を多角的に評価する
  5. 指導者等の条件面については以下を提案する

    • a 各小学校に専科教員を配置し、カリキュラム管理や学級担任の支援、ティーティーチング、その他全体的な調整を行う
    • b 小学校教員養成課程に英語指導を前提としたプログラムを用意する
    • c 学級担任に十分な研修を課す
    • d 指導者不足への対応のため、資質・能力がある者が英語指導をできるよう教員免許制度を改革する
  6. 外国語教育推進のための予算措置を講じるべきである。

明らかに早期化・教科化推進の提言である。 2017年の学習指導要領改訂(および2013年の「グローバル化に対応した英語教育改善実施計画」)と類似した部分があり、後の改革を数年も前に先取りした内容だったと言える。 ただし、同学会のアピールが政府を動かしたという事実はなく、直接の因果関係はないだろう。

2014年夏には、小学校英語教育学会・全国英語教育学会が合同で「文部科学省で検討中の『小学校英語教育の改革』に対する提言」を出している。 以下、冒頭の趣旨説明を引用する。

[公立小は全国に約2万校あるが] これほど多い小学校で外国語(英語)教育の実施学年を早め,教科として教えるためには,例えば,担当できる教員の養成・研修のために莫大な予算と人員が必要である。まして,小学校では音声指導が中心になるが,これには高度な訓練が必要である。
このように,小学校における英語教育の改革には,小学校・中学校(英語)・高等学校(英語)免許の問題,教員養成,担当教員への研修,財政措置,指導(意味・音声・文字を含む指導方法),クラスサイズなど様々な課題や要因が絡んでいる。政府の「第2 期教育振興基本計画」や文部科学省の「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」に盛り込まれているような実施学年の低学年化,指導時間増,教科化,専任教員配置,地域人材や外部講師を採用するための特別免許の交付等を行うには,上記のような条件整備が不十分なままの見切り発車とならないような万全の準備が必要である。

このあと、提言の前提、そして、具体的提案が続くが、詳細は割愛する。 前述の日本児童英語教育学会のアピールと異なるのは、具体的な施策を、たとえば「小学校第何学年から教科の英語を何時間」などと提案しているわけではない点である。 むしろ、上記引用からも伺える通り、当時すでに既定路線になりつつあった(と少なくとも学会関係者には認識されていた)早期化・教科化に対し、一定の理解を示しつつ、慎重な配慮を求めている。

以上をまとめると、いずれの学会も、政府の小学校英語推進の方向性に一定の評価を示し、そのうえで条件整備等に一層の尽力を求めている。 いずれもかなり政府寄りの物言いであり、教育学系学会に馴染みのある読者には奇異に映るだろうが、英語教育系の学会には行政との「協力態勢」が慣習化しているところも多く、このような提言は特段珍しいことではない。

原稿断片の墓場―2013年の小学校英語政策過程

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2013年12月 グローバル化に対応した英語教育改善実施計画

ところで、早期化・教科化の提案は閣議決定である以上、非常に重いものである。 たしかに、前節でみたとおり、これまでも教育再生会議教育再生懇談会経済財政諮問会議などが早期化・教科化を提案していたが、いずれも私的諮問機関の提言止まりであり、閣議決定のような強い拘束力はなかった。

さて、その閣議決定を受けて、文科省はこの第二期教育振興基本計画を具体化することになる。 その英語教育版と言えるものが、2013年12月13日に出された「グローバル化に対応した英語教育改善実施計画」 である。

同計画の改革案は次の通り。 まず、小学校中学年から外国語活動のタイプの英語教育(計画書では「活動型」と表現されている)を週1~2コマ程度実施する。学級担任が中心に指導にあたるもので、「コミュニケーション能力の素地を養う」ことを目標とする。 一方、高学年では、「教科型」の英語教育を週3コマ程度実施する (毎日の帯学習(短時間学習)の時間帯を利用して授業時間を捻出することも可能)。 「初歩的な英語の運用能力を養う」のが目標で、主たる指導者は「英語指導力を備えた学級担任に加えて専科教員」とされた。

ついに文科省でも、早期化・教科化が、具体的に走り出したと言える。 そして、ここで示された雛形――つまり、中学年で外国語活動、高学年で教科――はそのまま次期学習指導要領改訂に反映されることになる。 もっとも授業時数などについてはこの計画のとおりにはならなかったが、そうしたマイナーチェンジに関しては、次節で検討していく。

教科化・早期化の閣議決定の謎

以上からわかるとおり、教科化・早期化について何ら言及がなかった中教審答申(2013年4月)から、第二期教育振興基本計画の閣議決定(2013年6月)へ、わずか2ヶ月の間に非常に大きな方向転換があったことがわかる。

教育再生実行会議

では、閣議決定の教科化・早期化というプランは一体どこから来たのだろうか。 当の閣議の議事録が公開されていないので実際のところはわからないが、素直に考えれば、教育再生実行会議(第二次安倍政権において内閣に設置された教育問題について議論する私的諮問機関。教育再生会議の事実上の後進)での審議を受けてのことだと考えられる。 実際、2013年5月28日に出された教育再生実行会議の第三次提言「これからの大学教育等の在り方について」では、「小学校の英語学習の抜本的拡充(実施学年の早期化、指導時間増、教科化、専任教員配置等)」という、上記の閣議決定とよく似た文言が登場している。

一方、教育再生実行会議のこの提言がどこから来たのかはきちんと明文化されていない。 そもそも、議事録を見る限り、審議の中で早期化・教科化が詳細に議論された形跡はないからである。 議題が非常に多岐にわたる(第三次提言のテーマはそもそも大学教育だった)にもかかわらず、審議期間がごく短かったこともあるが、小学校での英語教育に言及した委員はごくわずかであり、教科化・早期化を具体的に提案した委員は皆無だった。 にもかかわらず、5月8日の第7回会議の配布資料「大学教育・グローバル人材育成についての委員の主な意見」には、「小学校高学年において英語を教科化し、小学校における英語教育を充実すべき」と記される(ただし、早期化についての言及はない)。 そして、翌第8回の会議(5月22日)で第三次提言素案に、教科化・早期化が盛り込まれる。

産業競争力会議

他方、教育再生実行会議とは別組織である内閣の日本経済再生本部・産業競争力会議においても、教科化・早期化の提言がある。同会議第12回(6月12日)の「成長戦略」および、それをもとにした閣議決定「日本再興戦略」(6月14日)がそれである。 「日本再興戦略」の該当部分を引用する。

"小学校5、6年生における外国語活動の成果を今年度中に検証するとともに、小学校における英語教育実施学年の早期化、指導時間増、教科化、指導体制の在り方等や、中学校における英語による英語授業の実施について、今年度から検討を開始し、逐次必要な見直しを行う。"

同日に同じく閣議決定された第二次教育振興基本計画と似た表現が並んでいる。 産業競争力会議の早期化・教科化プランは、同会議の下位部会である「テーマ別会合・人材力強化・雇用制度改革」(2013年3月~4月)に端を発すると考えられる。 委員の意見をとりまとめた資料(第4回産業競争力会議配布資料「人材力強化・雇用制度改革について テーマ別会合主査長谷川閑史」)のなかに、「小学校 1 年生からの英語授業の実施検討開始」という提案がある。 ただ、これは3月6日の会議のまとめだと思われるが、同会議の議事要旨を見ても、該当する発言は見当たらない。

自民党の政策動向

政権与党自民党の文教政策論議の影響もよくわからない。 自民党教育再生実行本部の2013年4月8日の提言が、教育改革に大きな影響を与えたことはよく知られており、実際、大学英語入試への外部試験(TOEFL等)の導入は自民党の提案を反映したものと考えられる[BIBLIO]。 一方で、同提言には小学校英語の早期化・教科化は盛り込まれていない。

一方、自民党日本経済再生本部の中間提言(5月10日)には早期化の言及がある。 冒頭の概要説明で「若者の国際性を高め、英語コミュニケーション能力を向上させるため、小学校での英語教育開始学齢の引き下げ」を推進するとある。 ただし、概要にあった小学校英語改革プランは、本文には見当たらない。 この事実にも垣間見られるが、きちんとした推敲がないまま発表されてしまったという印象が強く、真剣に検討されたようには感じられない。

内閣・自民党の政策会議の影響は?

官邸および自民党の会議の状況を長々と見てきたが、結論として言えるのは、2013年6月に閣議決定された早期化・教科化プランがどこから出てきたのかよくわからないということである。 少なくともオープンな会議で詳しい審議は行われなかったことは確かだろう。

もう一点指摘できることは、財界人が具体的な政策形成に影響力を発揮し始めた点である。 これ以前にも、財界からの英語教育への要求は幾度となくあったが、それはあくまで一般的かつ象徴的なものにとどまっており、文科省に具体的な英語教育プログラムの施行を要求することはなかった。 事実、外国語活動は、財界が望んでいた「教科としての英語の早期化」とは異なる形で政策形成がなされたことは前章で見たとおりである。

一方、2013年の英語教育政策論議では、教育再生実行会議や産業競争力会議に委員として参加した財界人の存在感が非常に大きい。 たとえば、当時の教育再生実行会議の委員15名のうち、企業経営者は3名であり、しかもそのうちの2名は教育産業ですらない。 この割合は、これまでの中教審の英語教育関係の会議と比べると異様なほど高い。たとえば、前章で扱った外国語専門部会(2004-2007)には企業経営者は一人もいなかった。 議事録を見ても、ビジネスの視点から英語教育を論じる委員が非常に目立つ。 いかにグローバル化時代で日本が生き残るには英語教育が重要か、その点で「旧態依然」の英語教育が経済成長の足かせになっているかという訴えである。