こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

大学院に入ったら「日本人の民族性」の話はとりあえず疑うべき

前口上

まず大前提として。以下の記事を便宜的に引用していますが、「晒しあげてやろう」という意図はありません。

これを書いた意図は、「日本人性/国民性/日本文化」に関する言説が、英語教育界やグローバル人材育成業界において、安易に再生産されていることへの危機感ゆえです。したがって、「嗤う」ために引用したものではないことをお断りしておきます。

ただ、結果的に「晒しあげ」の形になってしまいました。そこはあらかじめ謝っておきます。(まあ、「プロ」になってから間違えるより、修士のうちに間違っておいたほうが長期的に見れば収穫が多いはずなので、あまり気にせずに今後もポストを続けてください)


日本人性?

日本英語教育学会での発表と参会記 - 明海大学大学院応用言語学研究科

英語教材作成の方々など、様々な方が集まり、発表なさった中、誰しもが課題にしていたのは教育における何らかの「日本人性」でした。その日本人性をどのように伸ばせばこれからのグローバル社会の中でやっていけるのかということについて様々な観点から論じられました。外国人で日本に滞在させていただいている私ですが、その中で聞いていると、今までの日本国民との出会いについて深く考えさせられました。


これはとくに、外国語教育系の学会の「知的現況」にまだあまり耐性のない、学部生・修士の方へのアドバイスです。

英語教育・外国語教育系の学会において、「日本人はこういう民族だから、教育政策はこうすべき」とか「国民性がこうだからこういう指導法がよい」といった発言が、しばしば飛び出します。体感では、研究発表よりもシンポジウムが多い気がします。

ここで私が切に願うのは、この「民族性/国民性」云々をあまり真に受けないで欲しいということです。「日本人」の文化的行動という意味での「日本文化」も同様です。

英語教育・外国語教育の専門家は、たとえ研究者であっても、ほとんどが日本研究や地域比較研究、人類学や社会学の専門家ではありません。外国語教育の学会で「日本人性/国民性」という言葉がでたら、話半分に、いや1割程度に聞いておいたほうがよいと思います。

「日本人の民族性」を疑っておくべき理由

なぜなら、日本人の民族性・国民性というのは、人文社会科学系の標準としては、「とりあえず疑っておくべきもの」とされているからです。

実は、1970年代後半以降に「日本人論」批判は、ある種のブームになりました。批判の要点は、おおざっぱにいえば、

  • (1)日本人に共通の性質があるなどという話は、じつは実証的根拠がない
  • (2)(悪いタイプの)ナショナリズムに侵されている
  • (3)同質性を偽装して、本来対立している人々に「協調」を強いるイデオロギーである
  • (4)日本人は「ヤマト民族」だけではないし、そもそも「ヤマト民族」は人種的にきわめて多様(北方系、南方系、渡来人など色々)

といった感じです。

参考文献を以下のURLの最後に載せておきました。
http://d.hatena.ne.jp/TerasawaT/20120902/1346580444



一方で、どういうわけか外国語教育だと、「日本人の民族性」は素朴に信じられている印象があります。たとえば、「日本人はシャイな民族だから外国語が話せない」とか「日本は儒教の国で、上下関係にとらわれすぎ。 I/you という対等な関係で話し合える英語を通して、民主的な態度育成をすべきだ」みたいな話は一度は聞いたことがあると思います。シャイじゃない人や上下関係にとらわれない人はいくらでもいますし、ちょっと考えてもらえばすぐに反例が見つかる話です。だいたい、日本人の民族性なんてものは、世界の色々な人々の民族性と比較してはじめて論じることができる「比較に基づく概念」なのに、これを主張するひとは、果たしてどれだけの民族の「民族性」を知っているのでしょうか。


この「世界との比較」という点を真剣に受け止め、実証的に検証した研究もすでにあります。

  • 間淵領吾 2002 「二次分析による日本人同質論の検証」『理論と方法』17(1) http://ow.ly/wn0UZ

この研究では、ランダムサンプリング調査による国際比較データを分析した結果、日本人の同質性は他国民よりも必ずしも高くないと結論づけられています。つまり、日本人同質論は実証的に否定されたわけです。

もちろん「民族性を否定しなけりゃダメだ」ということではありません。「数多の疑義に対して真摯に向き合い、批判者を納得させるような証拠をかき集めて、民族性の存在を立証する」というのは、たいへん学術的な態度です。ただまあ、まず望み薄なので、期末レポートや修論のテーマには選ばないほうがいいでしょう。

以前、大学院のゼミで、「日本人の国民性」を主題に含む論文の報告を担当することがありました。もともと「日本人論」の胡散臭さにうんざりしていたので、プレゼンでは、論文の要約はそこそこに、いかに日本人論が、人類学やら社会学やら歴史学やらなんやらで論破されてきたか、熱弁をふるいました。しかし、それを聞いた先生はひと言、「だとしても、私は日本人に固有の特性があることを信じています」。


私はもうこんなところで勉強したくないと思ってしまいました。