こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

外国語教育学講座では決して紹介されない外国語教育学の必読書

すみません、タイトルの「決して紹介されない」は煽りです。紹介している人はいます。(たぶん)


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私は外国語教育研究に片足を突っ込んでいる ――大学院は「外国語教育講座」所属で、当時の指導教官はJACETの元副会長だったわけで「片足を突っ込んでいる」くらい言わせて欲しい――わけだが、もう一方の足は外に出ているので、スタンダードな文献紹介は他の人に任せて、ふつうは「必読」などとは言われないであろう「必読文献」を列挙してみたい。


初学者を惑わすことになるかもしれないので、「必読」と書いてあるけれど、「必読(笑)」くらいに理解してもらえればこれ幸い。


初学者を惑わさない文献リストはたとえばこちら。

「能力」とは何か

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (2) (河出文庫 ク 8-2)

外国語教育研究において、「外国語能力」の測定の厳密さ・科学性は飛躍的に発展しているが、一方で、能力測定の政治性はほとんど関心を引いていないように思う。


誤解してほしくないのは、「英語力じゃない、人間力だ!」と言いたいわけじゃないということだ。「人間力」を持ち上げる人間力あふれる人や、「コミュニケーション力」をもちあげるコミュニケーション力にあふれた人が跋扈する昨今だが、「人間力」「コミュ力」言説も同じ穴のムジナである。


英語力の話は、学習者の英語に関する特定の「個性」をとりあげて、それを様々な処理を加えて、高い/低いに変換する技法である。同様に、人間力も、学習者の特定の「個性」を、「人間力が高い ←―→ 人間力が低い」という数直線上にマッピングしているからだ。統計ソフトを使おうが、頭のなかで直感的に行おうが、そもそも「序列」とは無関係な単なる個性を、序列に読み替えているのである。


というように、「能力」およびその測定のキナ臭さがよくわかる本。


「日本人の民族性」って言うな!

日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫)

日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫)

Images Of Japanese Society

Images Of Japanese Society


外国語、特に英語をやっていると、心ない人たちから「英米かぶれ」などのように言われることがあるかもしれない。


こういう経験に対する反作用なんだろうか、「日本人らしく英語を使いたい」とか「日本民族としてのアイデンティティを忘れないようにしよう」などと言い出す、アブナイ意識の高い人に出会ったりする。こわいこわい!こういう意識の高い人と関わらないために、理論武装しておこう!


「日本人は××だ」と紋切り型で表現されるいわゆる「日本人論」を、文化人類学者たちが完膚なきまでに論破しているのがこの本。


なお、同様のテーマを非常に親しみやすく書き下しているのが、以下。小論文対策として高校生に勧めている先生もいるとか。そんなわけで学部1・2年向けだろうか。私自身、この本との出会いは衝撃的であり、そして、感動した。人生でもっとも影響を受けた3冊の1つである*1

民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)

民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)

 

「科学的な◯◯!」に対する抵抗力

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学


同様に、「科学的な指導法!」などと、アブナイ意識の高い発言をする人が多いのもこの業界。他教科よりもかなり多いと思う(外国語学力は他教科の学力に比してかなり測定がしやすいためだと思う ――経済学と数理的・量的な手法が親和的なように)。


そればかりか、教育業界の常ではあるが、人間力あふれた人たちが「科学で人間は語れない!人間力だ!味わいだ!」などと言い出すので一層カオスである。


教育現場には、疑似科学(水にありがとうと言うときれいな結晶をつくるとか)がはびこっているので、それらの傾向と対策を理解しながら、「科学とはなにか」が考えられるという一石二鳥の素晴らしい本。


ただし、疑似科学はあくまで素材で主題ではない。個々の疑似科学的教育/教育的疑似科学の問題点については別の文献を参照のこと。


教育欲を削ぎ落とせ!

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)

再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)


『教育欲を取り戻せ!』なる、書名からしアブナイ意識の高い本があったが、きちんと教育に向き合いたいのなら、むしろ教育欲をそぎ落として相対化する作業をオススメしたい。



教職課程のカリキュラムは、教師を育てるためのものではない、という話を以前聞いてなるほどと思ったことがある。たしかに「とりあえず教壇に立てる人」の養成にしては、ムダな科目が多すぎる。その人が言うには、教職課程は、指導に必要な知識・スキルを学ぶ場所というだけではなく、先生になりたい学生の「『教育したい!』という欲望」を解毒する場所でもある、ということだ。


教育は人作りだのなんだのとプラスのイメージで語られるが、第三者の目から見れば---たとえば「教育」という概念のない宇宙人が眺めれば---、強制・服従、そして広い意味での暴力である(もちろん、学習者が「強制されている」「暴力を振るわれている」と自覚しない場合もある)。


さきほどの発言をした人の意図は、教職課程には「教育の暴力性」を学ぶ経験が含まれているということだった。


とりあえず、この点の古典としては、ひとつめのイリイチ本をおすすめしたい。
個人的には2冊目のブルデュー本のほうが皮肉っぽくて爽快だが、難しいし、値段は高いし、そしてハードカバーのせいでバッグが傷むので読まなくても可。

 

「他者の言葉に介入する」という暴力

識字の社会言語学

識字の社会言語学


上記の話とも関連するが、言葉を教えるということは、他者のことばづかいを顕在的・潜在的な力で矯正するという、暴力性を秘めた営みである。学習者が望んでいるかどうかは、「暴力の不在」を必ずしも意味しない。最もうまい強制の仕方は、「“強制されている”と気付かせないように強制すること」だからだ。


こんな話は、植民地・旧植民地における言語教育に関する著作を読めばいくらでも書いてある。しかし、外国語教員、ことに西欧語の教員は、「非ネイティブである東洋人の私」という「弱者」としてのアイデンティティがあるからなのかなんなのか――もちろん、これはまっとうな認識だと思う――、「強者/強制者」の視点は持ちづらいのではないだろうか。


これは、西欧語を事例にするから理解が困難なのであって、身の回りにある素材を使えば、より実感がわく、というものだろう。前置きが長くなったが、この「身の回りにある素材」こそ、本書のテーマである「識字(読み書き)」である。


多くの人は「読み書き能力のない人にその力を身につけさせること=善」と疑わないが、本書はほんとうにそうなのかと厳しく問うている。「識字=善」と疑わずに識字能力をありがたがることこそ、「強制されているのに強制を自覚しない」、最高度の強制であるのだ。


 

「国際理解/異文化理解」に少しでも触れるなら必読


サブタイトルからある程度想像できると思うけれど、在日外国人と言っても、外国人語学教員やALT(外国語指導助手)――外国語教育関係者が最も接触する可能性の高い外国人グループのひとつ―― の話ではない*2


はるか昔から(親・祖父母の代から)日本にいた外国人、留学生、そして最近になってやってきた外国人労働者たちが主題である。要は、「内なる国際化/内なる国際理解」の話である。ただし、外国語教育における「国際化」のように、必ずしもポジティブなトーンではない。なぜなら、日本という国家が、いかに日本で暮らす外国人の権利を制限し、内なる国際化/国際理解を無視してきたか、その過去と現在を論じているからだ。


現在の初等中等教育における外国語教育は、公的に、国際理解を目的のひとつに含めている。したがって、学校教育における外国語教育を専攻しようとするならば、「内なる国際化/内なる国際理解」をきちんとおさえておく必要があるはずだ ――教員採用試験には出題されないかもしれないが。


学術的でありつつ、強い情念が込められていて、しかしそれでいてなお学術性を維持している名著。


なお、この本は、以前も別の角度から紹介した:「アジアの汗」 - 旧版こにしき(言葉、日本社会、教育)※2018年4月、新ブログに移行済み

*1:あとの2冊は、『完全自殺マニュアル』と『すごいよマサルさん』第1巻

*2:もしかしたら、多少触れていたかもしれないが(覚えていない)、少なくとも主題にしている部分はまったくなかったはず。