こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

修士1年での研究テーマの決め方

聞かれてもいないのにアドバイスを書くコーナー!

「役に立つ研究」はたしかに役立つが、「役立つ研究」をあなたができるとは限らない


「役に立つ研究」をやりたがる修士1年(M1)は多い。たとえば、「明日の指導ですぐ使える」とか「現場の先生方に使ってもらえる」とか。しかし、けっこう多くの人が誤解をしている。「Xが役立つ」のと「Xを研究すると他者の役に立つ」は大きく意味が異なる点だ。


「役に立つ」研究は、実際、とても役に立つ。これは間違いない。しかし、だからといって、「その研究をあなたがすることによって、他者のお役に立てる」ということまで意味しない。


なぜなら、一般的に「役立つ研究」は参入者が多いので、個々の貢献度は逓減するからである。数式で表すなら以下の感じだろうか(テキトーです)



「お役に立てる」度合い =
F ( トピックの有用性 ÷ そのトピックの研究者の規模 )


F () は任意の関数


この「役立つ」の主語が「私」だとしたら、研究の位置づけをきちんと考えたほうがよい。つまり、「自分の授業に役立たせたい」ということを最大の目的とするなら、「研究」よりは「勉強」のほうが断然、自己の成長にとって有益だ。ここで、「研究」とは、評価の定まっていないものを追求する行為の意味で、「勉強」は評価がある程度固定されているものを吸収する行為の意味。最先端の論文を読むのは前者、概説書は、後者。


極端な例だが、最先端のもの――評価の定まっていないもの―― を研究していたせいで、何年間・何十年間もムダな苦労をしてしまったということもある。パイオニア的な先行研究が、実は捏造だったという場合がこれにあたる(極端な例だが、実話)。

卒論という「貯金」はリセットすべし


M1だと、卒論の継続で研究をやりたがる人も多い。気持ちはよくわかる。卒論執筆で得た貯金は、非常に莫大なものに感じるもの。でも、5年後に振り返ってみれば、なんてちっぽけな貯金だったのかとわかるはず(その辺の博士課程の人に聞いてみてほしい、おそらくみな賛成してくれるはず)。だから、思い切って「貯金」を捨てる、というのは大事だ。


さらに、もっと下世話な話をさせて頂く。卒論を指導してくれた先生が、じつは研究能力がほとんどない人だったと後になってわかるなんてことも、よくあることだ。でも、卒論執筆時にそれを見抜けるのはよほど優れた人だけだろう。


テレビで活躍していたり、一見とてもわかりやすい講義をしていたり、常に忙しそうにしていたり、面倒見がとてもよく多くのアドバイスをくれる先生だったりすると、「研究できる人」だと誤解してしまうのは仕方ない。もちろん、上記の要因はみな「研究能力」と関連が深い(or 構成要素)だろうが、例外も多く、まったく決定的な要因ではない。


したがって、卒論で学んだことが、まったくあさっての方向を向いている可能性もあるのだ。


もし卒論執筆という初期条件がヘンテコなものでも、もちろん、修士課程で軌道修正は可能だ。というよりも、多角的な勉強・研究によって軌道修正をすることこそが、修士課程でのひとつの課題だとすら言える。


しかし、「貯金を頑固に守る」という態度で研究を続けていると、この初期条件は、どんどん増幅され、修士が終わるころには、修正不可能なところまで行ってしまうかもしれない。


これはたいへん不幸なことだ。だから、貯金がリセットされたと仮定してみて、それでもその研究テーマをやりたいのか、自問してみることは大事。さらに、博士後期課程に進学する予定のある人は、そのテーマを続けるのが、キャリア戦略上ほんとうに有効なのかもきちんと考えたほうがよいだろう。


難しいことだけれど、さきほども言ったように、修士課程1年時の「貯金」などたかがしれている。思い切ってリセットしてほしい。