こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

リサーチで「質的側面」という言葉は禁止したい

タイトルのとおり。質的側面という言葉はとても曖昧な言葉で、議論を噛み合わなくさせる元凶なので、積極的に禁止したほうが良いという話。要するに、知的言葉狩りのすすめである。

なお、英語で qualitative aspect(s) と言っても曖昧さはまったく解消されないので、日本語由来の問題ではない――ひょっとしたら、なまじっか英語ができる人は、 ... should shed light on this qualitative aspect ... 云々と言われたりすると、なんとなく納得してしまうかもしれないので余計危ういかもしれない。

 

学会・研究会の議論で、「質的側面」およびそれに類する言葉が飛び交うことがある。たとえば、次のようなもの。

  • 数値だけでなく質的側面も(略)
  • この現象は複雑なので、質的な部分をもっと(略)
  • 量だけでなく、質的にアプローチしたほうが(略)

「質的側面」という言葉は、メソドロジーに関してまあまあ敏感な人が使う(ただし、以下でわかるとおり、「とても敏感な人」というわけではない)。

しかし、この言葉は非常に曖昧であり、メソドロジー論議をむやみに混乱させる原因である。

というのも、「質的側面」には、最低でも次の5つの異なる意味があるからである。

  1. 質的変数
  2. 質的データ
  3. 質的分析
  4. 質的研究
  5. 標準的な単位が存在しない変数

この「質的」用法のいくつかは、インタビューや参与観察などのいわゆる「質的研究」を前提にする言葉である。しかし、ややこしいのは、典型的な量的研究(統計分析)でも「質的」という言葉が使われることだ。

以下の表がその整理である。


「質的側面」の含意

統計(実験・観察) 史資料の分析 インタビュー・参与観察等
1) 質的変数   ×  ×
2 質的データ  ○
3) 質的分析    ○
4) 質的研究   × ×  ○
5) 標準的な単位が存在しない変数 ×  ×

注)○:言葉が使われる ×:使われない


 

解説

以下、解説である。

1. 「質的変数」

統計分析において、量的変数(連続尺度・間隔尺度)の対概念である。順序尺度・名義尺度のこと。質的変数は、いわゆる「質的研究」ではまず使われない用語なので、曖昧さはほとんどない。

というわけで、正確性という点ではまったく問題ない用語だが、質的研究と誤解するひともいないとも限らない。議論のフールプルーフを重視するのなら、この手の地雷ワードはつかわず、順序尺度・名義尺度と言えばよい気がする。

2. 「質的データ」

数値データの対概念。要するに数値に置き換えられていないデータのこと。

典型的なものがテキストデータである。ナラティブや観察結果を書き起こしたものもテキストデータである。

「質的データ → 質的研究」と一対一対応で考えたくなる気持ちもわかるが、現実にはちがう。

質的研究においてもっとも重要なデータであることは間違いないが、質的データ=テキストデータを統計的に分析することは普通に行われる。また、歴史資料や政策文書のようなドキュメントも間違いなく質的データである。

重要な点は、質的データ(テキストデータ)は、何らかの操作化を行うことで、数値データに変換できるという点である。コーパス言語学テキストマイニング、談話分析(計量的アプローチ)などが典型である。

以上のように、「質的データ → 質的研究」という一対一対応で考えるべきではない。

3. 「質的分析」

非常に曲者の言葉。

質的研究においてよく使われる有名な分析手法(例、グラウンデッド・セオリー、KJ法)を指すのが正統的な用法だと個人的には思う。

しかし、「質的側面に注目した分析」という意味で使う人もいる。 「質的側面」がそもそも曖昧なので、この意味での「質的分析」も曖昧である。

極端な例としては、「統計で質的分析をする」ということも言えてしまう。たとえば、次の通り。

この場合の語彙力は、伝統的には、知っている語の数で測定されてきた。しかし、知っている語の難易度に注目した質的分析も必要である。

この言葉を使うと、議論がカオスになる。同時に、使っている人自身の思考もカオスになる(無意味なことをしゃべっているのに、もっともらしいことを言っている気になってしまう)。使わないほうが無難だと思う。

4. 「質的研究」

「質的研究」は意味が安定している。統計分析や史資料の分析を、質的研究ということはほとんどないと思う。

要するに、データの性質だけでなく、データの探索的収集、フィールドの重視、理論生成志向などの特徴を共有しているものを「質的研究」と呼び、それ以外は呼ばない。割とはっきり線が引けると思う。

5. 標準的な単位が存在しない変数

本来は「量的変数」であるにもかかわらず、質的側面という言葉で言及される場合があるカオスな例がこれ。

上述の例を再掲する。

この場合の語彙力は、伝統的には、知っている語の数で測定されてきた。しかし、知っている語の難易度に注目した質的分析も必要である。

「伝統的にわたしたちは 1個, 2個, 3個, ... i個 という具合に測定してましたけど、個数とかでは測れない面も大事だよね!」という話である。

要するに、標準的な単位がない側面にも注目しようということである。標準的な単位とは、個, ミリ秒, kg, mm, 円、ドル、そして自然科学の各領域で確立された諸単位。

「現象Pは伝統的に被験者の反応時間(ミリ秒)で評価されていたが、被験者の集中度も重要だ」というのが別の例。「集中度」という概念は、量的変数(連続尺度)で測定すると概念化することは可能である。もし、集中度のようなものを「質的側面」と呼んでしまうと、「質的側面を統計分析する」とか「質的分析のために t 検定を行った」というカオスな用法が生まれてくる。

そして、ここでも操作化がキーワードである。つまり、たとえ伝統的に数量だと考えられていないものでも、何らかの操作化をすれば、必ず数値に変換できる という点である。たとえば、例であげた「単語の難易度」や「被験者の集中度」はそのままでは漠然とした概念に過ぎないが、操作化をすれば数値に落とし込むことができる――ただし、「落とし込むことができる」というだけで「落とし込むべきだ」は意味しないので注意。

実際、難易度や集中度はおそらく業界において確立された操作化方法があるはずなので、それを参照すれば適切に数値に変換することができるだろう。

一方で、ある現象を数値に落とし込むこと(=操作化)が不適切だと考えられるならば、質的研究の枠組みで検討すべきだということになる。何が操作化に適してい何が適していないかは、研究者の立場および現象の性質にしたがってケースバイケースに判断するしかないが、一例をあげれば、個人の一回性・固有性の高い経験(例、被災体験、喪失体験)は、操作化が不適切になる場合も多いだろう。

結論として

「質的側面という言葉をきちんと定義して使いましょう」というのが優等生的な結論と思うが、はっきり言って、労多くして功少なしだと思う。

他で置き換えられる言葉があるのだから、曖昧な言葉は一律に禁止したほうが、建設的だと思う。