こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

全国英語教育学会における質的研究。および振り返りシート分析の妥当性について。

2019年に刊行される『日本語教育はどこへ向かうのか―移民時代の政策を動かすために』(有田佳代子さん、庵功雄さん、牲川波都季さんとの共著)のなかで、英語教育学の動向を紹介した論文を執筆した。



論文では、データの総量(ボリューム)に無頓着な質的研究が多いということを述べた。つまり、少数事例から深い知見を得るためには時間をかけて丁寧に調査すべきなのに、そうした作業はなく、単に非量的データを使っているに過ぎず、それならそもそも質的研究である必要があるのかという批判である。

結論は上記のとおりだが、せっかくなので具体的なデータに基づいて議論しようと思い、全国英語教育学会の学会発表に基づいて学会/学界の傾向を検討した。

2016年大会(埼玉大会)、2017年大会(島根大会)、2018年大会(京都大会)の予稿集に目を通し、以下の定義に当てはまる質的研究をピックアップした。そのうえで予稿集の記述に従って、特定のカテゴリや単位に基づいて集計した。

質的研究の定義

  • 質的データ(非量的データ)を、頻度などの数値に変換せずに質的データのまま分析したもの。したがって、ナラティブデータ・文字データを事後的にコーディングし、集計したたものは除外する。
  • 教科書・書籍・新聞記事等の出版物を分析したものは広義の質的研究と見なせないこともないが、ここでは除外する。対話的データ収集が不可能であり、また、歴史研究・ドキュメント分析として概念化できるため。

概要

ピックアップした「質的研究」は以下の通り。毎年5%前後である。「5%」という具体的な数字はともかくとして、本学会だけではなく他国も含む外国語教育学界全体において質的研究は少数派である点はほぼすべての研究者が認めることだと思う。

質的研究件数 研究発表総数 (*)
2016 17件 279 件
2017 11 237
2018 15 238

(*) 自由研究発表(ポスター発表、企業発表含む)のみで、シンポジウム・ワークショップ等は含まない。

小分類

上記の計43件の「質的研究」を、予稿集の記述に従って分類したのが以下の表である。

     件数
インタビュー 29件
エスノグラフィ・参与観察 4
対話を録音・録画 5
自由産出された文章(振り返りシート、掲示板等) 11

注:2つ以上の収集法をカウントしたものもあるため(とくにインタビューと参与観察)、合計は総数と一致しない。

 

なお、冒頭で触れた拙論文では、上記にくわえて、調査人数・調査期間・調査総量等に関する集計も行っているが、この記事では省略する。以下、予稿集をひたすら読んでいて(これがなかなか苦行だった…)気づいたことを書く。

振り返りシート/掲示板の分析は質的研究なのか?

上記の分類の4番目、「自由産出された文章(振り返りシート、掲示板等)」のカテゴリは、今回の集計で一番悩んだところである。

質的研究に含めるべきかそれとも思い切って除外すべきか。最終的には「質的研究」に含めたのだが、以下のように、典型的な質的研究とかなり距離があったため、大いに悩んだ。

第一に、質的=非量的データを使っているとは一応言えるものの、書き言葉である。つまり、いわばセルフ文字起こしがなされたデータであり、話し言葉の場合よりもいっそう強く、被調査者の意識化が働いている。

第二に、データが対話的収集ではない。一回きりである。調査者が被調査者に働きかけたわけではない。

振り返りシートの質的研究に、方法論的意義はあるのか?

振り返りシート・掲示板を「質的研究する」という作法は、上記の集計には示していないが、2016年から2018年の間に徐々に増加している。2015年以前は調べていないので正確にはわからないが、印象としては近年になってはっきりと増加しているように思う。

とはいっても、このいわば「リフレクション・シート・アナリシス(RSA)」みたいな手法が近年発展したというわけではないだろう。単純に授業での振り返りシートや掲示板という「テクノロジー」が一般化したからに過ぎないと思う。要するに、指導現場での技術的トレンドが変わったことに伴って、副次的にこの種の研究が増えたのである。

つまり、理論的・方法論的検討がとくにないまま、指導現場に浸透したテクノロジーを利用するかたちで、この種の「質的研究」が増えていると考えられる。

もしそうであれば、早急に真剣な方法論的検討をすべきだろう。つまり、「なぜ(インタビューや参与観察ではなく)他でもなく振り返りシートを使ってデータを収集するのか」「なぜ他でもなく掲示板を使ってデータを収集するのか」である。

授業内テクノロジーに必然的につきまとう権力性

もう一点、理論的に考える必要があると思うのが、権力性をめぐる問題である。これは、授業で行った振り返りシート・掲示板を利用した質的研究に当てはまる問題である。

授業の一環として産出されたナラティブである以上、それは授業という文脈に強く影響を受ける。データ収集者が第三者(例、教室でデータをとらせてもらっている大学院生)だった場合でも当然この影響は大きいが、データ収集者が授業者(要するに教員)だった場合には、この影響は決定的である。

どんなに「本音で語って欲しい」「成績には影響しない」と強調しても、人間は授業内という文脈を思うがままにオン/オフできるはずはないので、影響は根強く残る。意識的にも無意識的にも「優等生的なコメント」あるいは「被調査者として期待されたコメント」を書いてしまう可能性が高い。「優等生的ではないコメント」「本音のコメント」が授業者から期待されている場合は、優等生っぽくないコメント、本音っぽいコメントを書く圧力が働くのでいっそうややこしくなる。

分析者は、このような何重にもねじれた文脈を考慮しながらデータを分析しなくてはならない。ある意味で、データのコンタミ(汚染)が起きているわけである。

もっとも、こうした権力性そのものを分析対象に含んでいるのであれば、上記の点は問題(コンタミ)というよりは特徴/特長である。教室の権力性の一事例として有意義な分析ができるだろう。

しかしながら、このような分析枠組みの研究は予稿集を見る限りほとんどなかった。こうした問題にまったく気づいていないように見える研究(少なくとも「気づいている」というサインを出していない研究)が大半で、多少「気づいている」感のある研究であっても、せいぜい「授業内という文脈や〈教員-学生〉という権力関係が影響しているから解釈には気をつけたい」と宣言している程度である。もしそうした問題性に気づいているのであれば、「気をつける必要があるデータをわざわざ分析しようと思ったのはなぜか。他の手法でデータを取ったほうがマシだったのではないか」という根本的な方法論的問題に行き着く。また、そもそも「気をつけたい」と宣言することで本当に気をつけた解釈ができるのなら学問は簡単なのだが、そんなはずはない。いずれにせよ、まじめに考えたほうがよいだろう。

学会の偉い人は、メソドロジー関係のシンポジウムなどで、この点にも問題提起して頂いてはいかがだろうか。