こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

原稿断片の墓場――学習指導要領解説(2017年発行)の改革根拠をめぐる記述に対する批判

みんなお待ちかね、原稿の墓場シリーズ!!!


第2節 教科化・早期化を批判的に考察する

第1章から前節までは、これまでの政策過程・歴史的経緯に注目し、いきおい政策の内容に関しては踏み込んだ価値判断を控えてきた。 一方、本節では、本書執筆時点で最新の小学校英語改革である2020年4月からの教科化・早期化をとりあげ、その政策内容の問題点を批判的に検討したい。

前章でみたとおり、2013年6月に閣議決定で教科化・早期化の方向性が打ち出された。 つまり、中教審で学習指導要領改訂に向けた議論が始まる2014年にはすでに既定路線になっていた。 要するに、教科化という結論先行の改訂論議である。 たしかに、文科省も研究調査や中教審の議論を通して独自の貢献を行っているものの、英語を教科に格上げするという方針を崩すことは困難だった。

こうした事情を頭の片隅に置きながら、『学習指導要領解説』(そして、そのもととなった中教審答申)を読むと、見事に根拠と結論の前後関係が逆転している様が読み取れる。 つまり、教科化という結論が先にあって、この結論に都合のいい根拠を様々なところからつまみ食い的に拾ってくるという論理展開になってしまっている。

以上の問題意識から、『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 外国語活動・外国語編』(以下『解説』)で述べられた改革の根拠を批判的に検討していく。

教科化の根拠

問題点の第一が、教科化が本当に有効なのか実はよくわかっていないまま政策決定がなされた点である。 少なくとも政府は明確な根拠を示していない。

ここで強調したいのが「明確な」の部分である。 なるほど、優秀な官僚が作った文章だけあって、『解説』はなかなかよくできている。実際、それなりに「根拠らしきもの」は書かれており、無根拠な空想論が垂れ流されているわけではない。 しかし、丁寧に読んでいけば、それが「明確な根拠」とは言えないことがわかるはずである。

『解説』は200ページを超える大部の文書だが、改革根拠への言及はわずか1ページ程度である(中教審答申も同様)。 それ以外の部分に書かれているのはほとんどが howの議論、つまり、どのように外国語活動や教科の英語を実施すべきかについてである。 この点でも、改革をめぐるwhyの議論はないがしろにされていると言えよう。

では、「根拠らしきもの」の中身を見ていこう。 ところで、『解説』は控えめに言ってもかなりの悪文で、一文が非常に長く、きわめて読みづらい。 おそらく行政文書として内容を総花的にせざるをえなかったため、そして、多くの予防線を張ったためだと思われる。 読み物として決して面白い文章ではないが、行政文書のクセの強さを体感するのも一興なので、該当箇所をそのまま引用する。 ただ、引用後に筆者なりの「翻訳」を記すので、読むのが苦痛の場合には読み飛ばしてもらっても構わない。 なお、議論の都合上、原文にはない ① ~ ⑤ という番号を付した。

(1)中学年の外国語活動の導入の趣旨
今回の中学年の外国語活動の導入に当たっては,中央教育審議会答申を踏まえ,次のような,これまでの成果と課題等を踏まえた改善を図った。

グローバル化が急速に進展する中で,外国語によるコミュニケーション能力は,これまでのように一部の業種や職種だけでなく,生涯にわたる様々な場面で必要とされることが想定され,その能力の向上が課題となっている。

② 平成20年改訂の学習指導要領は,小・中・高等学校で一貫した外国語教育を実施することにより,外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度や,情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりする力を身に付けさせることを目標として掲げ,「聞くこと」,「話すこと」,「読むこと」,「書くこと」などを総合的に育成することをねらいとして改訂され,様々な取組を通じて指導の充実が図られてきた。

③ 小学校では,平成 23 年度から高学年において外国語活動が導入され,その充実により,児童の高い学習意欲,中学生の外国語教育に対する積極性の向上といった成果が認められている。一方で,(1) 音声中心で学んだことが,中学校の段階で音声から文字への学習に円滑に接続されていない,(2) 日本語と英語の音声の違いや英語の発音と綴りの関係,文構造の学習において課題がある,(3) 高学年は,児童の抽象的な思考力が高まる段階であり,より体系的な学習が求められることなどが課題として指摘されている。

④ また,小学校から各学校段階における指導改善による成果が認められるものの,学年が上がるにつれて児童生徒の学習意欲に課題が生じるといった状況や,学校種間の接続が十分とは言えず,進級や進学をした後に,それまでの学習内容や指導方法等を発展的に生かすことができないといった状況も見られている。

⑤ こうした成果と課題を踏まえ,今回の改訂では,小学校中学年から外国語活動を導入し,「聞くこと」,「話すこと」を中心とした活動を通じて外国語に慣れ親しみ外国語学習への動機付けを高めた上で,高学年から発達の段階に応じて段階的に文字を「読むこと」,「書くこと」を加えて総合的・系統的に扱う教科学習を行うとともに,中学校への接続を図ることを重視することとしている。

上記は、中学年(小3・4)から外国語活動を始める根拠である。 一方、高学年(小5・6)で教科としてのの「外国語」を始める根拠にもほぼ同一の文言が使われているので、こちらは省略する。

前述の通り、一文が恐ろしく長い悪文ばかりだが、率直に言って無駄な表現も多い。その部分を思い切って削ぎ落とすと、次のよう要約できるだろう。

  • 外国語教育の重要性、一般論 グローバル化が進んでいるので、外国語能力を身につける必要がある
  • これまでの経緯の説明、一般論 前学習指導要領(2011-2019)でも、小中高一丸となって外国語教育の充実が図られてきた
  • これまでの「外国語活動」の成果、および課題 前学習指導要領における外国語活動(小5・6で実施)にはある程度の成果があった。一方で、児童の学習面で課題もあった。
  • 課題(つづき) ③の学習面での課題に加えて、児童の学習意欲に関する課題や、小中間の連携にも課題が見られた
  • 提言(早期化および教科化) 上記③・④の課題を解決するため、小学校3・4年で体験重視の「外国語活動」を導入する。また、5・6年で体系的学習にも配慮した教科としての外国語を導入する。

要するに、まず一般論を述べた上で(①・ ②)、プログラムで成果があがっていることを指摘しつつ(③)、一方で課題があることを述べ(③・④)、その解決のために早期化・教科化を提言するという構成である(⑤)。 余談ながら、この文章が読みづらいのは、③と④の不自然な区切り方にある。なぜ③は成果と課題で項目を改めなかったのだろうか。

これまでの成果と課題

こう整理すると、改革の根拠のコアは③と④だけだということがわかる。 先程の引用部分を筆者なりに意訳すると、次の通りである。

『解説』は、1つの成果と3つの課題を示している。すなわち、

  • 成果1 現行の「外国語活動」で子どもは英語により親しむようになっている。成果と言って良い。
  • 課題1 現行の「外国語活動」では文字を扱っていないため、中学校の英語学習とうまく接続できていない。
  • 課題2 現行の「外国語活動」は「活動」に過ぎない。そのため、国語との違いや、綴り、文構造など体系性のある学習に限界がある。この結果、中学校との英語学習とうまく接続できていない。
  • 課題3 現行の「外国語活動」は体系性を欠いており、小学校5・6年生の知的レベル(抽象的思考力)に釣り合っていない。「教科」のような体系的な学習が必要である。

要するに、外国語活動では英語学習の一貫性(とくに中学との接続)の面で課題が多く、教科として体系性のある学習が必要であるから、小5・6から教科化すべきであるという理屈である。 一方で、外国語活動そのものの成果は認めている。丸ごと廃止という極論は導かず、むしろ小3・4での早期化を提言している。

読みほどくのに苦労する悪文だったが、その意図は単純明快で、要するに早期化・教科化の正当化である。 教科化するためには現状の外国語活動に課題があると指摘しなければならないが、課題を指摘するだけでは外国語活動の全否定になってしまう。だから、成果も述べなくてはならない。要するに、両者を立てるために、回りくどい書き方になったのである。

「成果」はあったのか?

建前としての改革理由についてはわかったが、では、上記の成果・課題はほんとうに成果・課題と言えるのだろうか。 言い換えれば、外国語活動には本当に成果があったのか、そして、現状の課題は教科化が必要なほど深刻なものなのか。

まず、成果面について検討しよう。 『解説』では、既に見たとおり、「児童の高い学習意欲,中学生の外国語教育に対する積極性の向上といった成果」が認められるとしていた。これはどれだけ信じてよいのだろうか。

「成果」を考えるには

この点を考える前に少し回り道をしたい。教育プログラムの成果を議論する際に注意すべきは、「どんな教育でも何かしらの成果がある」という点である。 これは小学校英語に限らず、プログラミングでも組体操でもそろばんでも習字でも同じで、やれば子どもは何かしらの成長をする。 したがって、「小学校英語を経験した子どもがこんな素晴らしく成長しました」と訴えるだけではあまり意味がない。小学校英語を経験した場合としなかった場合とを比較し、結果に差があったことを示して初めて成果と言えるからである。

非経験者との比較が決定的に重要な理由は、その「成長」が本当は他の要因による可能性があるからである。 つまり、一見すると小学校英語の効果を示したデータがあったとしても、実際には見かけ上のものに過ぎないことがある。この種の疑似効果の可能性を排除するために、比較に基づく調査設計は重要である。

特に、子どもが対象の教育効果を議論する時、必ず考慮しなくてはならないのが、子どもが本来備えている発達的な力である。 子どもは日々成長している。特別な教育プログラムを経験せずに放っておいても何かしら成長はする。 たとえば、小5から1年間、とある英会話プログラムを行ったクラスがあったとしよう。その結果、「1年後、クラスの平均身長が5センチ伸びました」と言われても、誰もそれを英会話の効果とは思わない。誰がどう見ても発達面での成長だからだ。 しかし、「1年後、コミュニケーションへの積極性が高まりました」と言われると、英会話の効果だと思いたくなってしまう。しかし、これも発達面での成長の可能性は依然としてある。 こうした可能性を排除するために、非経験者との比較が決定的に重要である。

親しむようになったのか

話を戻して、児童が英語に親しむようになったという成果について検討したい。 この成果とは、非経験者との比較から得られた、小学校英語プログラムの真の効果なのだろうか。

『解説』や答申には、本節冒頭で掲げた抽象的な「成果」しか言及されておらず、どのようなデータに基づいた主張なのか定かではないが、中教審での審議を踏まえればどのデータを指しているかわかる。 そのひとつが、文科省が2011年度から行っている小学校外国語活動実施状況調査の結果である。

たとえば、文科省教育課程部会教育課程企画特別部会の第6回(2015年4月28日)における「小学校外国語活動(5・6年生)の成果・効果について 」という資料において、同調査の「成果」が示されている。 以下に概要部分を引用する。 なお、説明の便宜上、原文にはない番号 1. - 3. を付した。

平成23年度より、小学校高学年(5・6年生)に外国語活動(週1コマ)を導入後、
1. 児童生徒:小学生の72%が「英語の授業が好き」。91.5%が「英語が使えるようになりたい」、中学1年生の約8割が「小学校外国語活動で行ったことが中学校で役立っている」と回答。
2. 小学校教員:導入前と比べ、小6の生徒に「成果や変容がみられた」と感じる教員が77%
3. 中学校教員:導入前と比べ、中1の生徒に「成果や変容がみられた」と感じる教員が78%
その変容として、外国語によるコミュニケーションへの積極的な関心・意欲・態度のみならず、英語を聞いたり話したりする力もついてきていると挙げている。
(出典:小学校外国語活動実施状況調査(H23~H24))

上記の 1. は要するに外国語活動がうまくいっている、少なくとも多くの子どもが否定的に捉えていないことを示すデータだと考えられるが、比較がなされていないため、効果と見なすことはできない。 たとえば、もし外国語活動導入の前の調査で9割が「英語が使えるようになりたい」と答えていたとしたら、小学生の大部分は英語の上達を望みやすいという一般傾向を示しているだけである。

上記の 2. と 3. は一見すると、導入前と導入後を比較しているように感じるが、実際は導入後のみの調査である。 調査対象の教員に導入前を振り返ってもらい、当時と比較して成果や変容に気づくかと尋ねたものである。 成果や変容が見られた子どもがそれなりにいることは疑いないわけで、8割近い教員が成果や変容があったと答えていることは驚くにあたらない。 しかし、重要なのは、成果が平均的に見て観察できるかどうかである。印象値で聞いていることも含めて、信頼に足るデータとは言えないだろう。

要するに、学習指導要領改訂の際に考慮された成果(のようなもの)は、いずれも信頼に足る調査ではなかったということである。 政策は科学的根拠に基づいて合理的に決まっているはずだと信じていた人にとっては衝撃的な事実かもしれないが、日本では往々にして教育政策が根拠に基づかずに決められる事が多い(もっとも、これは日本だけには限らないが)。

調査そのものがない

一般論として言えば、小学校英語の効果(たとえば、慣れ親しむようになったか否か)の検証に必要な調査は容易にデザイン可能である。 小学校英語の経験者と非経験者を比較して、前者のほうが学習への意欲・積極性が高いかどうか検証するだけだからである。 学習意欲・積極性は抽象的な概念ではあるものの、何らかの操作的定義を採用すれば問題なく測定できる (そもそも第二言語教育研究には外国語学習意欲に関して膨大な蓄積があり、測定方法の開発は進んでいる)。

にもかかわらず、文科省はそのような調査を実施していない。 もっとも、早期化・教科化について議論していた頃(2010年代半ば)はすでに外国語活動が必修であり、小学生の間で非経験者を探すのは難しかっただろうが、対象者を高校生以上に広げれば検証可能だった。

調査が行われなかった原因は複合的なものだと思われる。 第一に、教科化・早期化が官邸主導であり、文科省のイニシアチブで改革に向けた調査計画・調査予算を用意できなかった点。 第二に、万が一、施策が「成果なし」となった場合、事業縮小・予算削減を余儀なくされるため、そのようなリスクは冒しにくい点。 文科省にとって中立的・第三者的に検証するインセンティブがそもそも低いのである。 第三に、既存のいわゆる研究校には、あるプログラムが効果的かどうか、つまり、文字通りの意味での「実験」のをすることが期待されているわけではない点。 むしろ、今後の発展に向けたカリキュラム開発や情報収集が主たる役割である。

以上、文科省にとって、気の毒な事情もあるが、調査データを欠いているのはやはり問題である。 この点については、小学校英語の効果を理論的に論じるNNN章で、詳細に検討する。

指摘されている課題は本当に「課題」なのか

次に「課題」についてである。 繰り返しになるが、『解説』は、教科化の根拠として、外国語活動のままでは体系的な英語学習を行えず、中学校の学習にうまくつながらないという問題点を指摘していた。

ここで問うべきは、外国語活動には本当にそういう問題があったのかという点だが、結論から言えば、信頼に足るデータはない。 審議過程において、文科省事務局は、小学校段階でもっと読み書きを学びたかったという中学生の声を「データ」として紹介しているが、それはあくまで学習者のニーズの話であり、体系性に問題があることの証拠ではない。 これ以外には、この問題の明確な証左となるようなデータは示されていない。

また、調査研究一般を見回してみても、この種の問題を明らかにしたものはおそらく皆無である。 小学校英語の研究者は多数いるが、外国語活動によって体系性のある学習が阻害されたことを明らかにした研究者は寡聞にして知らない(そもそも研究テーマとして取り組んでいる研究者がいるかどうかも疑わしい)。

現状に問題があるからというのが改革の最も重要な根拠の一つだったにもかかわらず、その点について何らデータの裏付けがないばかりか、調査が行われている形跡すらないというのは、常識的に考えればきわめて奇妙である。 突然、官邸から教科化の方針が降ってきたために、苦肉の策として「課題」をひねり出したというのが実情だろう。

ところで、中学への接続に問題があることを実証した研究はないと述べたが、その逆に、どうすれば外国語活動をスムースに中学英語へつなげられるかについては多くの研究の蓄積がある。 つまり、研究者や教育現場は、以前から小中接続のあり方を必死で模索してきたのである。 しかし、その最中に文科省は「外国語活動のままでは接続は難しい」と確たる根拠もなく結論づけたことになる。 関係者にとっては、梯子を外されたようなものであり、同情を禁じえない。

以上見てきたとおり、教科化・早期化の根拠にはたいへんな粗さが目立つ。 現行の外国語活動の成果・課題をほとんどまともに点検せずに、新たな改革を行おうとしている。 奇しくも、文部科学省は2015年6月に策定した「生徒の英語力向上推進プラン」を通じて、各都道府県に「PDCAサイクル」の構築を促した。PDCAとはPlan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)という4段階を繰り返すことで、業務の着実な改善を図るという考え方である。

考え方は立派だが、教科化・早期化という結論ありきで理屈をひねり出す文科省の姿勢は、明らかに Check と Action を欠いている。 考えてみれば、2000年代半ば、小学校英語の必修化に関する審議のときも、先行実施校などの事例を詳細に検討すること(Check と Action)はほとんどなかった。 その意味で文科省が昔から回してきたのは「PDPDPD...」サイクルに過ぎなかったわけである。