こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

山岡(1997)第1章、コメント

SLA読書会(2009/12/05)において山岡(1997)の第一章を読んでのコメントです。
けっこう前のものですが、ファイルをなくしてしまったので。
レジメを発見したので、文字に直して今頃アップする次第です。


SLAの日本への受容

 70年代、 SLAが言語教授から離脱したとあるが、 こうした非教育系SLA(と便宜的に呼ぶ)は日本の外国語教育(特に英講教育)にどのように受容きれてきたのだろうか。
 たとえば、日本の英認教育の議論ではしぱしば非教育系のSLA研究が教育論の根拠ときれることがある(たとえば、早期英語教育の有効性の根拠として引かれる臨界期研究*1)。このような、学問領域を「越境」するような引用(=根拠付け)は、単に「引用者が引用元の研究上の文脈をよ<理解していない」という理由で説明可能かもしれないが、もう少し根源的な構造的条件があるように思う。すなわち、「非教育系SLAであっても、関係がないことはないのだから教育に応用してもいいのではないか」といった、「応用」 に対するオプティミステイックな感覚があるのではないか。そして、教育とSLAとの間にそれほど緊張関係が生じない原因のひとつに、SLAおよび関連諸学問(理論言語学第一言語習得研究、心理言語学)の日本での受容の窓口が、外国語教育関係者、 とりわけ英語教育関係者(大学英語教師含む)に占められていたことと無関係ではないと思う。

社会的アブ口―チはなぜ重視されないか

 山岡の通時的な概説を読む限り、SLA研究には、言語習得を社会的に見る視点は常に薄かつた。社会・文化的アプローチとして紹介されているシユーマンの研究でさえ、従属変数はあ<まで学習者の内的処理過程であり、独立変数として「社会的要因」のい<つかが(ともすると恣意的に)考慮されているに過ぎない。(そしてこうした問題は、日本の主流の英語教育研究にも通じる)
 第2言語習得は、人間(そしてその集合としての社会)が介在する以上、様々な要因が複雑に絡み合う現象である。こうした言わば「複雑系」の現象を、特に個体内処理という少数の要因に限定することは、実証の精度を上げる点では有効だが、一方、全体的理解を損なうという点で妥当性を低める恐れもある。「実証の精度」と「実証の包括性」はトレードオフの関係にあると言える。
 ここで疑問なのは、上記のトレードオフのうち、前者、つまり、変数統制によって実証の精度をあげる方向ばかりが重視されることになつたのは一体なぜなのかという点である。

引用文献

  • Bialystok, E., & Hakuta, K. 1994. In other words: The science and. psychology of second-language acquisition. New York: BasicBooks.
  • Johnson, J.S. & Newport, E.L. 1989. Critical period effects in second language learning: the influence of maturational state on the acquisition of English as a second language. Cognitive Psychology 21, 60-99.

*1:良く引かれるものとしてとして、ジョンソン・ニューポートの研究がある(Johnson & Newport 1989)。本研究が「早期英語教育」の根拠にならない最大の理由は、「本研究の被験者には、ひとりも英語ができない人がいない」という点である。(その他の批判として、「ESL環境と日本のEFL環境は違う」とか「分析の仕方次第では臨界期は確認できない」(e.g. Bialystok & Hakuta 1994)など様々なバリエーションがあるものの、この点、すなわち「被験者=流暢な英語使用者」という点がもっとも本質的な問題点である)