先日の読書会でつかったレジュメ(要約)をアップします。 (→PDF版はこのリンクから)
Chap. 1. 序
概念としての言語
本書の目的は、言語---特に、グローバル化という文脈における英語---の概念化の位相を検討することである。主な課題は次の2点である。
日本の状況
日本における英語は、その特殊な位置づけによって特徴づけられる。それは、英語は日本社会において公的な地位を得ていないにもかかわらず、人々を魅了する象徴的な存在である点である。
本書の構成とアプローチ
(省略)
Chap. 2. 世界語としての英語という概念
基底の「論証」に見られる欠陥
英語に関する代表的な議論として次のようなものがある。
- 前提1:英語は世界中に広がっている
- 前提2:世界の人々の意思疎通を可能にする単一言語は有益である
- 結論:英語は有益である
この論証に見られる欠陥は、「英語」「言語」の定義にある。
英語と普遍語概念
どこまでを「英語(の変種)」に含めるのか明確に線を引くのはきわめて困難である。そして、想像上の「単一」言語で、世界を結束させることは、論理的に不可能である。
英語の今日
世界語としての英語に関する議論を、クワークとカチルの論争から見てみたい。前者は単一中心的、後者は複数中心的な議論を展開している。しかし、実際のところ、両者は、似たような民主的価値観を持っている。つまり、クワークは、英語の有益性が人々を(非母語話者をも)解放すると考えているのに対し、カチルは、そのような考え方は、非母語話者のアイデンティティを無視しており、むしろ一体化を損なうと考えている。
「リンガフランカ」アプローチ
カチルの複数中心的アプローチの代表例が、英語のリンガフランカ性を重視するアプローチである。これをクワークの単一中心的なアプローチと対比すると、「英語」についての解釈/定義が根本的に異なることがわかる。つまり、クワークは、英語を「母語話者の直感に基づいた標準化された変種」と捉えているのに対し、リンガフランカ・アプローチ(e.g. ジェンキンス)は、「ダイナミックで多彩な形態」と捉えている。
公理としての英語
従来の言語研究/英語研究において、言語/英語とは何かはきちんと精査されることはなく、「公理」として扱われてきた。上述の二つのアプローチも同様で、「英語=国際コミュニケーションに資するもの」というように前提化している。しかしながら、本書はそのようなアプローチはとらず、言語学/応用言語学の支配的なアプローチとは異なったやりかたで問題を検討する*1。
英語対日本語
ここで、英語は言語的分析だけで捉えられないことを、日本の事例から確認しよう。伊吹元文部大臣は、小学校英語教育政策にふれ、英語と日本語を対立的に提示し、後者を前者より優先すると述べた。ここに、両言語が相互排他的に捉えられている意味づけが見て取れる。政策に言語の象徴性が影響した一例である。
「英語を、見て、聞いて、そして食べて」
一方、実践に関する事例として、McPalをとりあげる。これは、マクドナルドと幼児英語教育が結合した教育実践だが、これは、一般的なTESOLでは正当化されない、言わば「逸脱した」教育方法である。この種の教育実践が、日本社会で、許容/正当化されるのは、教育効果とは別の次元の作用---たとえば、アメリカ文化への憧憬---が働いているからである。以上のように、日本社会における英語を検討するうえでは、言語学的/応用言語学的分析だけではなく、社会学的分析が必要である。
結論
本書の基本的立場は、以上の2事例に象徴されるような英語と文化の関連が、日本社会のあらゆる実践に見られるというものである。
以上から、本書は、以下のような分析課題を検討する。
- 日本社会における英語の概念化はいかなるものか
- この事例分析が、「世界語としての英語」理論にどのような示唆をもたらすか
*1:なお、その「代替的アプローチ」の詳細は、第3章。