こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

加藤周一「信州の旅から---英語の義務教育化に対する疑問---」(1955年)


戦後、英語は必修にすべきか部分的履修が相当かという問題が初めて大きくクローズアップされたのは、1955年の評論家・加藤周一による問題提起による。加藤は、雑誌『世界』に、「信州の旅から---英語の義務教育化に対する疑問---」という論文を寄せ、中学校の英語教育が必修されつつある当時の現状に疑義を表明している。加藤は同論文を次のように締めくくっている。

義務教育にちかい形で、日本中の大部分の子供に英語を教えることは、全く無益有害であって、一日もはやくやめるべきだと考えている。(146)

大きな注目を集めた「英語の義務教育化」廃止論としては、戦後初めてのものだったのである。


この論争は次のように展開した。まず、加藤が上掲論文を『世界』1955年12月号に発表したところ、大きな反響を呼び、様々な人々が賛否を表明した。こうした反応を受けて、その翌年、1956年2月号『世界』において、「再び英語教育の問題について」を発表し、特に批判的な意見に対して詳細な再反論をくわえた。加藤が体系的に反論をおこなったのはこの1回のみであり、その後、具体的な反対者との間で論争に発展することはなかった。また、加藤の2番目の論文では、特定の批判者を名指ししたうえで、再反論が展開されいるわけではないので、論者間の具体的な対立構図は定かではない。それでもなお、この記事を「論争」として分析可能なのは、加藤の上記の論文はいずれも「仮想的な論争」のスタイルで書かれているからである。すなわち、加藤は自説を展開し、それに予想される反論を紹介し、さらにそれに反駁する、という構成である。したがって、加藤の二つの論文を詳細に見ていくことで、この論点をめぐる対立構図をある程度描き出すことができるだろう。


まず、この記事では、上記のひとつめの記事を詳細に見ていきたい。



全体の構成

まず、「信州の旅から」は、加藤が、長野県の旅の途中で出会った人々との対話をきっかけに、英語教育の義務化に疑問を抱いたという趣旨で書かれている。下記のような3部構成で、県内のそれぞれ違った場所の違った人々との対話をもとにしている。

  • 戸倉温泉:小中学校の先生との対話
  • 軽井沢:フランスの少女との対話
  • 沓掛:法学者との対話


概略的に言えば、小中学校の先生との対話から、中学英語が義務教育化しつつある現状を知り疑問を抱く第一部、フランスでは英語必修化は妥当だとする少女に日本特有の事情を説明する第二部、そして、日本で英語教育を必修化することの意義を強調し加藤に反論する法学者と議論をする第三部となっている。以下、以上の構成の順序で、《国民教育》をめぐる論点に焦点をあてながら議論をおっていきたい。

英語の義務教育化に対する疑問

同論文の第一部は、戸倉温泉(長野県東信地方)で小中学校の先生と語り合ったというエピソードからはじまる。加藤は、長野県でも高校入学時のアチーブメントテスト(事実上の入学試験、通称「アチーブ」)に英語が導入されつつあることを知る。中学校卒業生の多くが高校に進むという現状を考えると、「もしいわゆるアチーヴメント・テストが英語を含むときには、中学校で英語が選択課目であるということの意味はほとんどなくなり、事実上の義務教育となる(141)」と危機感を表明している。


加藤の---そして「長野県の小・中学校の先生たち」の---以上のような懸念は、英語科が提供する教育内容を普遍的なものと考えていないことに由来している。すなわち、加藤にとって、英語科の教育内容は、多くの国民にとって役に立つものではなく、義務的に課すほどの内容に値しないという論理である。そして、これは、とりわけ、長野県のような「地方」においてよく当てはまるという。

千曲川[=長野県東信地方の河川]のほとりに住む沢山の人々、千曲川のほとりと同じような日本の田舎に住んではたらく、日本の全労働人口のおよそ半分は、たとえ外国に関する知識をもとめるにしても、外国語の知識を必要としないだろう。(142)

一体長野県下の人口の何割が、一生のうちに一度でも英語の知識を役だてることのできる機会に出合うだろうか。軽井沢町の夏の二ヵ月を除けば、長野県下のどこの町に西洋人がいるか、どこの本屋に教科書以外の英語の本があるか、かりに西洋人がいて、西洋の本があるとしても、何人が西洋人と話し、西洋語で手紙をかき、西洋の本をよむ、多少なりとも重大な必要を感じるのか。一年に百人や二百人の長野県人が何かの理由で英語の知識を必要とするために、県下の全部、またはほとんど全部の児童に英語教育を事実上強制するということは、私には正気の沙汰と思えない。他に教えなければならないことはいくらでもある。(142)

以上のように、加藤は、「必要性」という根拠から、英語科の《国民教育》としての正当性を否定しているが、これは、戦後初期の学習指導要領試案(すなわち1947年版と1951年版)のロジックと相似的なものだということがわかるだろう。ただし、指導要領では、「必要性に差がある」ことが述べられているだけであり、加藤のように、「必要な人間は少数である」とまでは言っていない。


加藤には、教育内容の必要性という観点から、各教科に優先順位をつけている。加藤にとって、全生徒が学ぶのに相応しいものは、英語ではなく、社会科や日本語である。これは、現代でもしばしば見られる「英語の前に国語」といった日本語ナショナリズム論(安田敏朗『「国語」の近代史』、pp. 259-261)の亜種にも見える(たとえば、2006年9月の伊吹文明文部科学大臣(当時)の小学校英語批判)。しかし、当時の時代状況および加藤の思想的背景を考えると(cf. 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』、pp. 130-131)、加藤の日本語・社会科優先論を、この種の議論と単純に同一視することはできない。加藤の力点は、日本の「伝統」の復興などではなく、終戦直後の「民主的」で「平和」な社会の建設のための日本語教育・社会科教育だったからである。

殊に義務教育を終わった生徒は、もっと自由に日本語でよみ、日本語で表現できなければならない。また社会科教育を通じて、もっと徹底的に無条件降伏後の社会情勢を理解し、民主主義のしくみと運営の実際とを心得なければならない。(p. 142)

そして、なぜ加藤が英語の義務教育化を批判したかといえば、人々の日本語や社会科の知識水準に対し、以下のようなペシミスティックな見通しを持っていたからである。

もし一週四時間中学校の三年間に英語を教える暇があれば、それだけの時間を社会科に投じたらよかろう。一週四時間三年間の社会科の結果は、多分将来の総選挙が少しでもましな形で行われるということである。一週四時間三年間の英語教育の結果は、多分日本の子供が「ありがとう」というかわりに「サンキュー」ということである。(そうでなければ、罐詰のレッテルをよめる程度であって、それ以上のことではない)。少しでもましな総選挙と外国語の片言とをすりかえる教育は、意図において必ずしもそうではないかもしれぬが、少くとも結果においては、愚民政策のあらわれとしか考えられないだろう。(pp. 142-143)

つまり、「全国民」に対する日本語・社会科の教育を充実させなくては、よりよい社会は到来しない、そのためには、英語教育などに時間を割かれる暇などはない、という論理である。

「英語の知識」の位置づけの日仏比較

第二部から、舞台は軽井沢に移る。軽井沢の別荘地で出会ったフランス人少女との、英語教育の義務教育化をめぐる対話である。少女は、自身が経験したフランスの状況から類推し、日本でも英語教育を必修化すべきだと主張するのだが、それに対して、加藤が、日本においては「選択科目」扱いが妥当であると応じている。加藤は、日本に特有な事情を説明する、いわば「外交官」のような役割を果たしている。


ここで加藤が用いている対立構図は、フランス語と日本語で、各国の「古典」への距離が大きく異なるという点である。つまり、フランス「古文」と現代フランス語にはある程度の連続性があり、英語教育を必修化しても、国民の「古文」のリテラシーには影響がないが、日本では、日本「古文」と現代日本語の間には著しい断絶があり、英語教育を必修化するよりも、日本語の教育のほうが先であるという論理である。少女のいうように、フランスにおける英語教育ならば、フランス「古文」の理解力を損なわずに、英語力を高めることができるだろう、しかし日本では、と加藤は言う。

しかし日本で普及すれば、西鶴は到底わからないし、漱石でさえもどれだけよめるか怪しい、その代償として輸入した缶詰のレッテルがよめるということになる。私は超国家主義者ではありません、しかし江戸文学にしても明治文学にしても、日本人の精神生活を養うために、アメリカ製の缶詰のレッテルよりも役にたたないものだとは考えない……(144)

近世・近代の「日本人」との連続性を保つことが、すなわち「日本人の精神生活を養う」ことであり、だからこそ、日本語の教育を《国民教育》において正当な教育内容として強調したのである。なお、前節で、加藤の主張は現代的な日本語ナショナリズム論には回収できないと述べたが、上記引用から明らかなとおり、ナショナリスティックでないわけではない。むしろ、「日本人」---およびその連続性---をナイーブに仮構し、民族的連帯を目指している点で、当時の典型的なナショナリズムのひとつであったと言えよう。戦後初期、戦争からの復興そして民主的社会の建設の理念として、「日本人」という概念が重宝されたのである。

英語義務教育化支持者との論争


第三部は、「東京の某大学に職を奉じる新進気鋭の法学者」との論争に関するものである。この法学者は、加藤の主張に真っ向から反論しているが、その根拠は、加藤の要約上の話ではあるが、要領を得ないところが多く、一貫性がない主張も散見される。法学者の必修化支持の理由のうち、検討に値すると考えられるのは、大まかに言えば3点である。概要を以下に箇条書きで示す。

  • 1 外国語を習得するためには若いうちに始めなければならない
  • 2 英語教育は、「反動」的な心性が育まれるのを防ぐ
  • 3 必修にしないと、非履修者の劣等感が強まる


法学者が必修化を支持するひとつめの根拠は、若い頃---文脈上、中学校段階が念頭にあると思われる---から英語学習を開始する必要があるからというものである。また、ふたつめの根拠は、英語教育は「世界的視野」育成に役立ち、「世界的視野」を持てば「反動」化に陥らないというものである。そして、三点目は、「農民」のように、英語の知識に有用性をあまり認めない人たちであっても、英語を知らないことによって劣等感を抱く人が増えてしまうので、必修化が妥当、という主張である。


加藤はそのひとつひとつに反論をくわえている。ひとつめの根拠に対しては、英語の知識を必要としない人が多い以上、「若いうちにやらないとものにならない」というのは必修化の根拠にはならない、と反論している。また、ふたつめの反動化防止論についても、「英語教育によって中学生の頭が国際的・世界的視野の中でものを考えるようになるというところが、余りにも空想的である(145)」と、退けている。そして、三点目の劣等感の防止については、英語の知識の有無によって劣等感が生じるような状況こそ変革すべきであり、必修化によって事態を温存するべきではないと反論している。


加藤と法学者の間で行われた三つの「論争」のうち、英語科の《国民教育》上の位置づけを考える上でもっとも重要なのは、ふたつめの「国際的・世界的視野」という論点である。この考え方は、この加藤の論文への「反響」として、頻繁に登場してくるだけでなく、戦後初期の英語教育関係者が「選択科目」に過ぎなかった英語科の地位向上を訴える際に、もっとも重宝されたレトリックのひとつだからである。


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前述したとおり、この論文は、発表後、大きな反響を巻き起こした。こうした声にこたえて、2ヶ月後に「再び英語教育の問題について」で、さらに詳細な議論を展開している。この論文についてはつづきの記事で(→加藤周一「再び英語教育について」(1956年) - こにしき(言葉、日本社会、教育))。