こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

加藤周一「再び英語教育について」(1956年)


昨日の記事で詳しく取り扱ったが加藤周一が1955年に著した「信州の旅から---英語の義務教育化に対する疑問---」は、大きな反響を呼んだ。学者や知識人は雑誌や新聞に反対の弁を寄せ、自説を展開する媒体を持たない一般の人々は、投書や加藤へ手紙を送るなどして、「英語義務教育化」廃止に対する賛否を表明した。ただし、加藤の立論は、正確に理解されなかった場合も多かったようである。過去の英語教育論争ではよく見られることだが、「必修化」への反対論は、しばしば英語教育「全廃」論であるかのように誤解されてしまう場合があった。加藤の場合も例外ではなかったようで、加藤もその点への不満を口にしている*1


さて、この反響、とりわけ批判に応えるかたちで発表されたのが、翌年1956年の『世界』2月号に発表された「再び英語教育について」である。この論文では、寄せられた批判を紹介し、それに逐一批判を加えていく、という体裁を取っている。加藤がとりあげたのは、大別すれば以下の3種類の批判である。



1. 義務教育化をやめることは、英語の教育機会の平等に反する
2. 国際交流面での有用性を考えると義務教育化が妥当
3. 実用的な面では役立たなくとも、それ以外の面で教育効果がある


以下では、こうした「批判」と加藤が、どのような「仮想的論争」を行っているのかを見ていきながら、《国民教育》としての英語科教育の正当性をめぐる論点を精緻化したい。


まず、ひとつめの批判---教育の機会の平等---を見ていこう。加藤が的確に要約しているので、その部分を引用する。

批判の第一は、教育の機会の平等ということである。ある子供には英語を教え他の子供には教えないというのは不公平である。中学校に英語の授業がなければ、家庭教師を傭うことのできる家庭の子供だけが英語を習うことになるだろう。また都会の子供だけが英語を習うことになるだろう。また「将来英語を必要とすると考えられる」子供にだけ英語を教えるとして、果してどの子供がそうなのかわからぬという。(川澄836)

つまり、英語の義務教育化は、教育機会の平等を維持するための重要な構成要素だということである。なお、上記の引用には、互いに異なる二つの「平等」観が示されていることに注意したい。ひとつめは、出身階層による差への問題視であり、家庭環境(例、経済力・親の職業)や社会環境(例、出身地域)によって、教育機会が左右されてはならないという主張である。


もうひとつは、生徒の将来的な必要性の予測が困難だという主張だが、この議論単独では、「教育機会の平等」とはあまり関係がない。将来必要となるかどうかが不透明な「知識・技能」は多数あるが、その「知識・技能」を学ぶ機会が保障されていないからといって、不公平感を生じさせるわけではないからである。例えば、人工呼吸・心臓マッサージなどの人命救助に関する知識・スキルは、将来的な必要性はかなり不明確であり、かつ、義務教育の標準的なカリキュラムには入っていないが、それだけで不公平感を抱く人はごく少数だろう。したがって、この議論はむしろ、「出身階層によって英語の必要性に差があること」を正当化するような議論へのアンチテーゼとして理解したほうがよい。すなわち、出身家庭や地域によって、英語が必要になる者とそうでない者が生じるとはいえ、その区別は決定的ではない、と批判しているのだと考えられる---つまり、「決定論の否定」である。


では、加藤はどのように反論を加えているか。加藤は、こうした主張に一応の共感は示しつつも、「しかしそこから、日本中のどこの学校でも同じように英語を教えたらよかろうという結論をひきだすのは、もっともでないと思う。もっともでないと思うばかりでなく、話がそもそも逆ではないか(川澄837)」と反論する。すなわち、地域によっては、中学や高校・大学を卒業後、英語を必要とする生徒はごくわずかであり(加藤の推算では「英語の知識を必要とする地方の中学生は、百人に一人あるかどうか(837)」)、この「一人」が誰になるかわからないから、残りの99人に英語を課して「平等」とするのは、事態が逆ではないか、進学機会や「文化享受の機会」が「階級や地域による障害のない」状態になってから英語教育の平等化を始めても遅くない、と述べる。「遅くはない」とする理由としては、「なぜならば、そういう社会が到来してはじめて、あらゆる子供が英語の必要に関しし、必要とするにしても、しないにしても平等だという事態が生じるだろうからである」と述べている。この根拠の真意はややわかりづらいが、進学機会や「文化享受の機会」の格差のほうがより深刻であり、また、こちらのほうが根源的なのだから、英語の教育機会だけを保障しても真の意味での「平等」にはつながらない、ということだろうか。


ふたつめに加藤が取り上げた批判は、国際交流の面での有用性を根拠に英語の義務教育化を擁護する主張である。ただ、前述の「教育機会の平等」論に比べると、以下のような、かなりあっさりとした反論で済ませている。

国際的交流がこれからさかんになるとか、国際会議で日本の代表が喋れないのは残念であるとかいう議論もあるが、そういうことは、直接義務教育とは関係がない。国際会議で話が通じるのはどこの国でも人口の例外的な少部分にすぎない。到底就学児童の百分の一はない。国際的交流にしても、どれほどさかんになり得るか、渡航審議会にでもきいてみてから、そういう話は考えた方がよいのではないか。(838)

要するに、ごく抽象的に述べられる「国際交流上の価値」を享受できる人々は、人口のごくわずかであり、そうである以上、義務教育化の根拠にはならない、という反論である。この反論に見られるとおり、加藤は、「日本人の英語使用者」の数をかなり少なく見積もっており、この直後にも、「日本の中学生の圧倒的多数は、仕事の上で将来英語を実用に供する機会をもたない(川澄838)」と述べているのである。「圧倒的多数」がどの程度の割合を示すかにもよるだろうが、少なくとも「多数派」だったことは想像に難くない。当時の英語使用者人口を推算できる統計はないが、2000年代の日本版総合的社会調査(JGSS)の結果によれば、仕事で英語を使っていると回答した人は全回答者の1割に満たない(http://jgss.daishodai.ac.jp/surveys/table/EUTOKI.html)。1950年代に2000年代よりも多くの英語使用者がいたとは考えにくいので、この加藤の認識は妥当である。


加藤の最初の論文は、英語の実用面の有用性を享受できる人々がごくわずかであるという根拠をもとに、義務教育化に反対したのだが、「実用面」以外の価値を重視すべきだ主張する論者もいた。これが、三点目の批判である。学校英語教育の意義は、実用面での有用性のみではかるべきではなく、合理的なものの考え方が身に付く、国際的な視野を得られる、自分以外の世界の存在を知ることができる、といった効果が説かれている。


これに対して加藤は、そうした根拠はごく抽象的であり、現実の英語教育実践とは必ずしも適合的ではない、と再反論している。

…私は中学校の英語の教科書を手にとってみながら、そのジャックやそのベッティに対し、合理的な思考に国際的な視野、加うるに自分以外の世界の存在と来ては、少し話が大げさすぎはしないかという気もしてくる。またこういう疑間もわく。合理的な思考を訓練するためには、ジャックとベッティが朝何時におきるなどと呟いているよりも、幾何をやった方が有効なのではないか。国際的な視野を獲得するためには、日本語で地理を勉強した方が早くはないか。自分以外の存在を知るためには、百間は一見に如かず、われらの国上の到るところにある外国の群体の基地を訪れた方がその国のことばを暗記するよりも少年の心に印象が強いのではないか。(川澄839)


なお、加藤は事実上の義務教育化廃止論を一歩進めて、どのような原理に基づいて履修者と非履修者をわけるかという点にも言及している。学習可能性(生徒の能力)にくわえ、「地域的な条件」も考慮すべきだという。つまり、地域による必要性の差異である。これは、当時の指導要領試案(特に第8章「地域の必要に対する学習指導要領の適応」)が示した認識とほぼ同じものである。加藤はしばしば学校英語教育を真っ向から否定した論者として描かれることがあるが、彼の認識は当時の指導要領(試案)と適合的であり、むしろ、「英語の義務教育化」が進行する当時の状況のほうが、指導要領(試案)が描いた理念(=地域の必要性に適合的な教育課程を整備する)から徐々に離れていっていたのである。

*1:「私の意見でないものに対する批判、たとえば英語教育無用論とか中学校における一切の英語教育廃止論とかに対する批判には、私は全く興味もなければ、責任もない。私はその点に開しては誤解の余地のないように日本語でかいた。(川澄836)」