こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

語学の成功を「努力」で説明するのはスジが悪い

外国語(英語)の出来・不出来を、本人の「努力」「根性」「頑張り」に還元する話法が、外国語(英語)教育の話をしているとたまに聞かれる。しかし、これは、まったく間違いではないが、かなり説明力が低いという点で無意味な話である。また、「成功者」に都合がよすぎるという点では「非・倫理的」ですらある。以下、その理由。(※ちなみに、以下の話は語学だけには限らないはずですが、焦点化した方がわかりやすいかと思い、「語学」前提で書いてます)

「努力」は、行為者の「負担感」によって定義される


「努力」とは何か。「努力」は人の行動だけでは定義できない。むしろ、人の「負担感」に依存するものである。なぜなら、精神的・認知的・肉体的に「負荷」を感じずに行われる行動は、「努力」とは見なされないからだ。


たとえば、フツウの「健常者」が、健康のために、自宅から最寄り駅までの往復2キロを毎日歩いているとしよう。この人の徒歩通勤は、ふつう、「頑張っている」と評価されることはない。あるいは、ある老人が、趣味の散歩で毎日数キロ歩いているという事実は、その量や継続性が驚嘆されこそすれ、「努力」とは見なされない。一方で、事故などで歩くのが困難になった人が、リハビリとして、病院の廊下を毎日数往復することは、「努力」と見なされる(そして、場合によっては、美談として称賛される)。


語学もおなじである。生活言語として物心つくころから英語に触れていた人にとって(その点で、すでに「外国語」ではないのだが)、生活上必然的に伴う負荷以上の「痛み」はない。あるいは、英語好きの人や「試験マニア」であれば、毎日数時間「音読」したり、TOEICの問題を解いたりすること、それ自体が、「快」であり、「苦痛」は伴うはずがない。


一方で、英語が苦手な人、英語が嫌いな人の場合、英語使用や英語学習は、おおいに「苦痛」を伴うものである。

(嫌いな英語の)痛みに耐えてよく頑張った、感動した!


英語が好きで好きでしょうがない生徒がハツラツとしながら過ごす50分間と、英語が嫌で嫌でしょうがない生徒が、苦痛に耐えながら、ただじっと過ごす50分間は、はたして、どちらが「痛みに耐えてよく頑張った」と言えるのか。


明らかに後者である。前者・英語好きの生徒は、そもそも「痛み」を感じていないのだから、「頑張」れるわけがない。


以上のように、行為者の「負担感」から考えれば、後者の生徒のほうが断然努力をしている。であれば、努力原理主義者は、英語嫌いの生徒をより「よく頑張った!感動した!」と評価してもよさそうなはずだが、そんなことは、まあ、まずない。


なぜか。


努力原理主義者は、成功者が成功した原因として、「努力」という(無意味な)説明を、利用するからである。つまり、

  • 私・彼・彼女は成功した。成功したということは「努力」したからだろう ・・・ (1)


という具合に。


もちろん、人間生きていればそれなりにたいへんなことはあるわけで、「努力ゼロ」で成功した人はまずいない。しかし、ここでのポイントは、成功者が努力したかどうかというオール・オア・ナッシングの話ではなくて、「程度」の話である。つまり、成功者の「努力」の総量が、不成功者の「努力」の総量より、有意に大きいと言えるのか、という問いである。


努力のパラドクス ---できるようになればなるほど努力しなくなる!?


当然ながら、努力原理主義者は、この問いに「イエス」と答えるだろう。だが、いままでの議論を見ていれば、そんなことは決して言えないことがわかるはずだ。むしろ、逆の場合のほうが多いかもしれない。なぜなら、「英語が楽しい(快楽)」「自分は英語が得意だ(自己効能感)」「英語が上手くなりたい(動機づけ)」と感じていれば、学習がより継続しやすく、したがって学習成功につながりやすいと考えられるからだ。つまり、「成功者」のほうが、努力の総量が少ないとすら言えるのである。


あるいは、最初は苦手だと思っていっても、コツをつかんだりして、できるようになるにつれ、楽しくなってくることもある。そういう生徒を、上記の「努力」の基準で見れば、「次第に努力しなくなった」ということになる ---つまり、できるようになればなるほど努力しなくなる、のである。

結果(学習の成功)から逆算して、「努力」を推計する


これは、一見、おかしな話である。なぜおかしく感じるのか。


それは、(1) のような推論に端的に示されているとおり、「努力」の定義のなかに、学習成功という「結果」に関する価値判断を、密輸入しているからである。


成功者が歯を食いしばって「努力」している過去の美しい光景に思いをはせながら、不成功者の「痛みに耐えた過去」には思いがいたらない。なんと都合のいいはなしだろうか。

解決策 ---「学習量」という概念を使う


「努力」という言葉のかわりに、「学習量」をつかえば簡単に解決する。上記の (1) の文をパラフレーズすれば、

  • 私・彼・彼女は成功した。成功したということは「学習量」が多かったのだろう ・・・ (1')


となる。学習をどれだけしたかという「行動」の話はしているが、行動の際の意識に対しては価値判断していない。その点で、いたって穏当な表現になっている。当たり前すぎるといえば当たり前だが(笑)


なぜ、これほど穏当で常識的な説明要因である、「学習量」ではなく、わざわざ「努力」「根性」などという、ムダな意味を多く含んだ言葉を使いたがるのか。努力原理主義はいろいろ根が深い。