こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

【要約】P. サージェント著『日本の英語観--- 世界語のイデオロギーと進化』(Multilingual Matters, 2009)


この記事の加筆修正版です。
以下で「私」は、すべて紹介者(=寺沢)です。
本文は基本的に本書の概要を記し、寺沢による批判・コメントは脚注に落としています。


asin:184769201X

序章

本書の目的は、第一章「序」において端的に述べられている。すなわち、言語 ---特に、グローバル化という文脈における英語--- という概念が、特定の社会環境でいかに形成し、また、機能しているかを検討することである。主な課題は次の2点である。


1) 英語が、日本という社会言語学的に見て特殊なコンテクストにおいて、どのような社会記号論的作用をもっているか
2) 言語の象徴的意味作用が、「世界語としての英語」概念にどのような理論的示唆を与えるか


上記の検討課題を私なりにまとめるならば、前者は地域研究(日本研究)、後者は応用言語学の学説/理論研究と位置づけられるだろう。これらは有機的に結合している。つまり、単なる「日本における英語」という事例研究にとどまらず、この事例分析が、応用言語学における「世界英語」理論の批判的検討につながる視座を提供するのである。この点の連関のロジックは次の通り ---筆者の前提によれば、日本社会において英語は公的な地位を得ていないが、それにもかかわらず、人々を魅了する象徴的な存在となっているという。この認識が妥当だとすれば、従来の「世界英語」理論では説明がつかない。したがって、特定のコンテクストを考慮した事例分析により「世界英語」理論の「普遍的な」理論の修正を行う必要がある。

理論・方法(第2章・第3章)

続くふたつの章は、分析に先立つ準備として先行研究のサーベイおよび理論的な整理である。第2章「世界語としての英語という概念」では、英語の世界的拡散に関する諸理論が整理されている。特に、クワークに代表される「単一/標準英語志向」のアプローチと、カチルやジェンキンスに代表される「多数/複数英語志向」のアプローチが対比的に論じられている。


両者の議論において問題となっているのは、言語/英語の定義・概念化であるという。つまり、「English vs. Englishes」の論争において、両者の言語観/英語観は大きく異なる。その一方で、両者は、言語/英語を「コミュニケーション手段」と見なしているという点では同一であるという。著者は、そのような道具主義的な定義をあらかじめ設定せず、むしろ日本社会において「日本人」がどのように英語/言語を定義・概念化しているのかを検討していくと述べている。このように定義を「宙づり」にしておくことは、英語の象徴化を描き出す社会分析にとって重要なことであるだろう。


この概念を「宙づり」にするアプローチの詳細は、第3章「言語イデオロギー・世界英語」において理論的に論じられている。分析ツールとして採用されるものが、言語人類学(特に Silverstein ら)における「言語イデオロギー」概念である。これは、「言語について、および言語使用についての人々の感情・考え・態度」であり、英語および英語使用に関する「言語イデオロギー」を、社会構造、歴史的コンテクスト、文化的コンテクストと関連づけた分析が本書のアプローチである。


なお、分析対象・分析手法に関していくつか注記しておく。本書は対象として様々な媒体に現れている「英語言説」群をとりあつかう―公的文書から学術的文献、ポップカルチャー、広告など多岐にわたる。したがって、例えば学校英語や英語教育だけに限定された分析が展開されているわけではない。基本的に、Written data(文献、広告、メディア)を中心に分析し、インタビューデータ等を補完的に用いている。

分析編(4章-8章)

第4章より、実際の事例分析に入る。4章「日本における英語:議論の現況」では、英語をめぐる種々の議論・論争が検討されている。特に、英語教育に焦点があてられ、またアカデミックな文献を中心に分析が展開されている*1


著者は、日本における英語教育/教育政策の議論には、「問題点のフレーム」(problem frame)があると述べる。つまり、現状の問題点を前景化したうえで、改革が論じられるというものである*2。また、現在の英語を取り巻く諸関係が、歴史的な文脈を参照しながら説明されるという点も特徴的であるという。その代表例が「鎖国/出島」や「明治初期の急速な近代化」という歴史的エピソードを援用した語りである。これらはいずれも、現在の(英語)コミュニケーションに関する言説に接続される。つまり、前者は「日本人」のメンタリティを説明する者として(詳細は5章)、後者は、訳読的な実践を歴史的に説明するものとして象徴化されるのだという*3


また、「コミュニケーション手段としての言語」という、応用言語学において支配的な言語観は、日本においても同様に浸透した言語観であるものの、特徴的な屈折が示されているという。たとえば、試験制度との衝突、ネイティブスピーカー神話、「コミュニケーション」の概念化のされ方に違いがみられる。また、エスノセントリズムナショナリズムと国際化/英語志向が接続されるという点も日本の特徴として描かれている(ときに二項対立として、ときに同根のものとして)。以上のような事例分析により、英語/英語教育をめぐる議論が日本というコンテクストと密接に連関していることを―逆に言えば、応用言語学理論が演繹的に適用された説明図式では限界があることを―著者は例証している。


続く5章から7章までは、特定の「概念」に焦点化した分析 ---筆者の用語によれば、「概念の事例分析」(Conceptual case study*4) ---が行われる。5章「グローバリゼーション」では、日本社会における「英語とグローバリゼーション/国際化」を結びつける言説群が検討されている。日本は西洋との距離が常に問題とされ、その過程で「国際化」も論じられてきていることを紹介し、日本社会に固有の「国際化」概念の分析につなげている。その特徴は、著者の論述に従えば、「出島メンタリティ」「和魂洋才」「世界のテーマパーク化」である。いずれのキーワードも、日本社会が、外部(≒外国)との接触に際し、内部(≒「日本」)に適合可能なもののみを選択的に取り込んできたとする考え方である。著者は、こうした現象を、「グローカリゼーション」理論を援用しながら説明する。


この日本的グローカリゼーションの、英語使用におけるレベルでの発現は、「英語の借用語」および「英語の装飾的使用」に見られるという。すなわち、いずれも内部(≒日本社会/日本文化)に適合的なかたちで、英語を取り入れたものであるということである。これらはいわば消極的な「土着化」であるが、その一方で、積極的な「土着化」の事例も紹介されている。それは、「日本/日本社会を英語で発信する」という言説群である*5


こうして土着化された「日本英語」は、特にポップカルチャーにおいてしばしばよく見られ、応用言語学/世界英語論においてこれはしばしば「バイリンガルによる創造的な土着化プロセス」(あるいは、A. Pennycook の言うところの「押しつけられた英語の逆照射」*6)と称揚されている。しかしながら、著者はこうした見方を日本英語に適用することに反対している。というのも、日本英語は総じて、世界英語論が含意するメタ言語的批判意識や批判的/再帰的実践を欠いているからである。(ただし、著者は、現代芸術の分野において、こうした実践がみられることも付け加えている)


第6章「真正性」では、日本社会においてAuthenticな英語/英語文化がどのように概念化されているかを検討している。まず、「真正性」概念を理論的に整理したうえで、「真正性」には「本物のように見える」こと、および「(本物たらしめる)権威」によって構成されていると論じている。つまり、あるものが真正であるかは、受け手の知覚に左右されるということである。そして、その「真正性」知覚が、近年、母語話者モデル(「母語話者の言語使用が真正である」)から、リンガフランカモデル(「実際のコミュニケーションに資する言語使用が真正である」)へと変化していると述べられている。


しかし、日本社会における「真正性」は、そのいずれの極にも属さない、日本特有な概念である。この点を著者は、英語教育機関・英会話学校の宣伝・広告や、外国を模したテーマパークの分析から明らかにしている。つまり、日本社会の「真の英語」は、前者「母語話者モデル」に基づく「英語」と、母語話者の「実際の」言語使用を性格に反映していないという点で大きく乖離しているという。また、後者「リンガフランカモデル」のように、「コミュニケーション重視が必ずしも常に成立するわけではないという点でも、日本の「真の英語」概念は異質である。両者をまとめると、日本社会においては、理念モデルとして日本独特の「英語/英語国/西洋」イメージが成立しており、そのイメージとの距離に応じて「真正か否か」が測られているということである。


7章では「熱望(aspiration)」概念がとりあげられ、日本社会における英語熱の様態とその背景が検討されている。英語学校の広告、留学情報誌、および留学経験者に対するインタビュー(電子メールによる)を素材に分析が行われている。著者の分析によれば、英語は多くの場合、「社会的な地位向上(social mobility)」および「日本(的なもの)から西洋(的なもの)への離脱」と結びついており、そうした点が英語熱の源泉となっているという。その「文脈」として重要なもののひとつが、ジェンダー(女性の英語志向)である。つまり、日本社会の女性差別的な社会構造・就業構造により、「遅れた日本・進んだ西洋」という表象が、英語/英語学習/留学に投影されるという*7


以上の「熱望」の分析が示唆するものは、日本社会における「熱望」を、英語学習/習得そのものではなく、英語学習によるアイデンティティ形成の過程として捉える必要性である。


第8章「未知の言語」では、日本における「英語観」を取り扱っている。ここで「英語観」とは、「何を英語と見なすか/見なさないか」に関する判断/信念体系である。


日本社会には街角や広告など至る所に「エイゴ」があふれているが、それらがそのまま「英語」と見なされているわけではない。この点を著者は、日本人インフォーマントによる「英語との接触」報告の分析により、エイゴの「非・英語/英語」の象徴的境界が鮮やかに示している。つまり、日本人による日本人向けのエイゴは英語とは見なされず、一方、英語国由来と同定されるエイゴだけが「英語」と見なされるのである。ここには、言語的メッセージ・デノテーションのやりとりに資するものだけが「言語」と見なされる「標示イデオロギー」(referential ideology)という言語イデオロギーが機能しているという。一方で、その他の言語機能(例:詩的機能、美的機能)に基づきコミュニケーションを成立させているエイゴは、英語と見なされない。そして、現代の日本社会においては、こうした「言語の象徴的境界の設定」と、種々の英語言説・グローバリゼーション言説が交錯し、次の様な言語イデオロギーが認められるという。


最後の「日本人=英語下手」言説は、ほとんどの日本人に支持されていると考えられるものだが、著者は、言語の定義を変えれば、そうは言えなくなると指摘する。著者は、街角英会話バラエティ番組(「からくりファニエストEnglish」)の分析から、同番組の「作り手-視聴者」関係には、<日本人が、日本人による英語の「愉快な間違い」を見て笑う> という、高度なメタ言語的実践が見られるという(誤用が「愉快」であるためには、「誤用」のメカニズムを理解していなければならない)。以上から、著者は、応用言語学理論の「言語観」に再考を促している。すなわち、「『日本英語』は今までも存在しなかったし、これからも存在しない」という言明はカチルらの言語観に則れば確かにそうだが、じっさいのところ、その定義を採用しなければならない合理的理由などなく、別の視角で日本を見れば、英語は日本社会に深く根付き、そして重要な文化的シンボルとなっているということである。

*1:なお、分析対象のデータは、「英語」で書かれた「学術的な」文献に限定されている。著者は、その限定化に関する正当化を行っているが、英語教育の「学的」根拠の曖昧さ ---実践と学問の未分化(いい意味でも悪い意味でも)----、(英語教育に限らず)学校教育に関する文献は日本語が支配的であるという「日本というコンテクスト」を考慮すると、こうしたアプローチには限界があると思われる。

*2:ただし、これは「英語教育」に限ったことでもなければ、「日本社会」に特有の現象でもないと思う。教育言説は、中立的/記述的というよりは未来を志向した言説であるからである。

*3:なお、「出島/鎖国」は、「日本」という国民国家が成立する以前の江戸時代の話なので、そうしたエピソードを現在に接続するのは、日本人エッセンシャリズムの危険性が大きい。特に、「出島」は、江戸という日本列島のごく一部を実効支配していた一藩の直轄地に過ぎず、それを日本列島住民全体を覆うシンボルだったと見なすのは、かなり困難である。

*4:これは、教育学や教育心理学がよくやるように、ある特定の concept をあらかじめ定義せず、むしろ、教育社会学や教育哲学(概念分析)に見られる、まずはその concept を宙づりにしておいて、その concept が成立する文脈を記述するといったアプローチという感じだろうか?
ただ、正直なところ、この conceptual case study という用語法にはずっと違和感があった(今もある)。「英語/英語教育の知識社会学」でよいのではないだろうか。ただし、知識社会学であるならば、教科書的には、分析に用いた文献・コーパスを明らかにしたうえで、対象となる言説空間(テキスト空間)を明示的に設定すべきであるとされる(いや、したほうがベター、くらいだろうか)。文献として英語資料のみを使っている本研究においては、かなり大きな負荷だろうか。

*5:著者は引用していないが(日本語文献だからだろうか)、この言説に関する最も重要な文献の一つが、山口誠著『英語講座の誕生』(講談社メチエ、2001)である。

*6:Pennycook, A. 1994. The Cultural Politics of English as an International Language. London: Longman.

*7:ただし、この論理でいくならば、重要なのは、「女性」という変数ではなく、「特定の社会階層の女性」であるはずである。差別的な就業構造・社会構造からの離脱を志向することに「意味がある」階層の女性が問題になるからである。実際、サージェントが依拠している Kelsky, K. Women on the verge (1999, Duke Univ. Press) では、高学歴・都市在住・若年・独身の就業女性に焦点化していることを何度も強調している。サージェントは、この文脈を明示的に書いておらず、読み方によっては、女性全般の英語志向を論じているようにも読める

*8:本文では、the 'global language' ideology となっていたが、それ以前の文脈を明記できない概要においては「リンガフランカ」のほうがわかりやすいと思う。