こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

英語とナショナリズム:誰が「日本人論」を流通させているのか、の話(Yoshino 2002)


Yoshino, Kosaku. 2002. English and Nationalism in Japan: the Role of the Intercultural-communication Industry. Wilson, S. (Ed.). Nation and nationalism in Japan. Routledge.


「英語とナショナリズム」というように二つの語が並べられているのを見ると、両者は対立概念のように思う人もひょっとするといるかもしれない ---英語はアメリカの言語だから日本人は受け入れてはいかーん!みたいな---。しかし、実際のところそんなことはぜんぜんなくて、しょっちゅう両立することはよく知られている。


英語/外国語のような「他者」と接していると、必然的に「自己」を強烈に意識せざるを得なくなる、というような話はよく聞く。もっと下世話な話だと、ノンポリの人が駐在や留学に行って数年後、ものすごいナショナリストになって帰ってくる、というような。もっとマジメな話だと、近年の(正確にはオイルショック前後ぐらいからあるが)グローバル人材言説とか。「日本人も英語を身につけて、世界に飛び立って、日本の経済的・政治的プレゼンスを高めよう!」というはなし。


こういうメカニズムはすでに多くの研究で、「日本人論」という戦後の知的ブームの観点から説明されている。このブログの論文ログでも何度も紹介しているとおり、日本人論・日本文化論は、「英語とナショナリズム」というテーマを論じるにあたって、もはや絶対に欠かせないキーワードになっていると思う。このテーマの論文ではほぼ必ず出てくると言っていいくらい。(「日本人論」の検索結果一覧 - こにしき(言葉、日本社会、教育)


ただし、著者による一連の研究の独自性は、流通過程を分析していることにある。『菊と刀』とか『縦社会の人間関係』などをイメージしてもらうといいが、「日本人論」の第一次テクストと呼ぶべきものは、比較的抽象度が高く、たとえば政治・世界史・日本史・人類学・国際関係論等の知識がないと理解が難しい場面もある。このような高度な知識が、「大衆」に「日本人って、(××人に比べて)○○だよねー」という形でそのまま流れこむとは考えにくい。必ずそこには、「日本人論」を受容し、大衆向けに再生産する、「流通業者」がいるはずである。著者の分析の焦点はそこにある。


重要な「流通業者」は、「異文化(コミュニケーション)マニュアル」の作成者と語学教師である。どちらも、「他者」である外国と日本を比較する必要に迫られる機会を多く持つため、「日本人/日本文化」をパッケージ化して伝えやすい。しかも、学校の検定教科書のようにイデオロギーの顕在的な「押しつけ」とはちがって、受け手側も「異文化への対処法」を欲するために、潜在的ではあるが、それゆえ強力なイデオロギーとして働くという。


著者の同テーマの全体的なプロジェクトは以下の本で読める:

文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方

文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方

Cultural Nationalism in Contemporary Japan: A Sociological Enquiry

Cultural Nationalism in Contemporary Japan: A Sociological Enquiry