こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「英語は日本人全員に必要か?」

しばらく前、ある「国民投票」がインターネット上で少し話題になった。

英語は日本人全員に必要だと思いますか?


経済のグローバル化が進展する現在、日本人が英語を話せるようになる必要性が年々高まっていると言われています。(中略)一方、多くの日本人にとって、無理をしてまで英語を学ぶ必要はないという意見も根強くあります。あなたは今後英語が日本人全員にとって必要なものになると思いますか?


これは、インターネット国民投票サイト「ゼゼヒヒ」上で行われたアンケートである。詳しい回答結果は、こちらにある。→http://zzhh.jp/questions/109?id=109


この結果が、個人的には大変びっくりするものだった。

約3割が「必要だ」

上記の問いに対し、2013年7月15日現在、825人の人が回答をよせ、そのうちの約28%(232人)が、「必要だ」と答えていたのだ。


「英語教育重視が3割程度か。それくらいが妥当な線じゃない?」と思う人もいるかもしれない。しかし、質問をあらためてよく読めば、3割近くの人が「Yes」と答えたことは驚くべきことだと気づくはずだ。


質問は「英語は日本人全員に必要か?」である。「全員」に必要というわけだから、論理的には、乳幼児や超高齢者にも「必要」だと言っているわけだ。ここまで、普遍性の高い必要性は、実際、英語に限らずほとんどないだろう。いや、「酸素が必要」「水が必要」「ビタミンが必要」といった類のものも考えれば色々な必要性が思い当たるわけだが。


そう考えるならば、3割の人にとって、英語は、「酸素が必要」と同レベルの高い普遍性を獲得していることになる。もちろんインターネット上の「声」は、(いくら「国民投票」とうたっているとはいえ)、国民全員の平均的な意見を保証しない。端的に言って、ネット上の「世論」はバイアスだらけなのだが、それを差し引いたとしても驚きである。少なくともひとりは「全員に必要だ」にYesをつけたのだから。


レトリックとしての「全員に必要」

ここまでは、「全員に必要だ」を文字通り解釈して、「驚いたー驚いたー」とおどけてみた。だが、実際には、「全員に必要だ」はレトリックだろう。Yesと回答した人のほとんどは、文字通り「全員」が必要だとはさすがに思っていないはずだ。「全員に必要」というのを、「大多数に必要」くらいに解釈しているのかもしれない。


その点で興味深いのは、「大多数」という概念を「全員」というレトリックに置き換えて平気な空気が、英語(英語学習)の議論にはある、という点である。そんなの当たり前じゃないか、と思うかも知れないが、「大多数」を「大多数」としか言えない文脈はけっこう多い。たとえば、「日本は全員が同じ民族で成る国だ」なんてことは、まともな人はまともな場所ではふつう言えない(し、言おうとしない)。

学校教育での必修英語

「実生活はともかく、学校では英語は必修なわけで、建前としては、英語は全員に必要なんじゃないの?」と思うひともいるかもしれない。たしかに、2013年現在、外国語は中学校の ---ということは義務教育課程の--- 必修教科である(ただし、制度上はあくまで「外国語科」であって、英語が必修というわけではない)。


ただし、この「建前」も、ちょっと歴史をさかのぼれば、まったく成立していないのである。戦前はもちろん中学校は義務教育ではなかったので、英語を学んでいたのは過半数に満たなかった(→戦前の英語履修者数の推計。江利川春雄著『近代日本の英語科教育史』(東信堂、2006)より)。そして、これは意外と知られていないが、戦後、中学校が義務教育化されて以降も、外国語科は長い間「選択科目」だった。いわば、学んでも学ばなくてもどちらでもよい科目だったのだ。中学校の外国語が必修教科に「格上げ」されたのは、実は、2002年からである。21世紀の初頭まで、「学んでも学ばなくてもいい科目」であった英語を、なぜ人々は、「学ぶのが当たり前」「とりあえず英語教育は全員(全中学生)に必要」と「誤解」し続けたのだろうか。


「誤解」の起源を探ることは、単なる謎解きゲーム以上の意味がある。誤解を誤解と自覚することは、「いまここ」の私たちのあり方を問い直す契機になるからだ。いま現在の英語教育のあり方が、少なくとも一部は「誤解」の上に成り立っているのだとすれば、それを直視することは、よりよい教育を構想するうえで不可欠だろう。というわけで、「誤解」をめぐる戦後の歴史を少しづつ追ってみたい。


(以下、つづかない)