こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「良識派」英語教師とナショナリズム、その3(先行研究の問題)

書いている途中の論文(非査読)を、コピペするコーナー、第3弾!

先行研究の問題

以上、3タイプの先行研究を検討した。このなかで本稿の読者に有益な知見を最も提供できると考えられるのが、第3のタイプである。


その理由は、得られる知見の新規性である。3番目のタイプの先行研究と違い、第1と第2のタイプが明らかにしていることは、現代日本の言語教育関係者にとって、既知である場合が少なくない。


これは、第1・第2の研究の分析事例が、同時代的な事項に限られる、という原因が大きい。たとえば、現代日本で、「強い日本」への期待と英語学習志向に密接な関係があることは、近年隆盛をきわめる「グローバル人材」言説などに詳しい人であれば、必ずしも不思議なことではないだろう。また、こうした構造が、政府・文部(科学)省の政策の根幹に横たわっていることは、ここ十数年程度の外国語教育政策史を表面的にであれ振り返れば、自ずとわかることであると思われる。逆に言えば、国内の関係者にとっては「当たり前」の事項にもかかわらず研究が成立しているのは、「ソト」の人間が「ソト」に向けて書いているからである。つまり、想定読者を、日本の言語教育関係者ではない人(たとえば、日本以外を主たるフィールドにする言語社会学者)に設定しているからである*1


対照的に、第3のタイプの歴史的研究が、内側の関係者に新たな知見を提示できる可能性は高い。
戦前を同時代人として生きた関係者はごくわずかであり、そればかりか戦後の1950年代・60年代の状況も、関係者の間では「遠い昔」になりつつある。
こうした点から、第3のアプローチのように、「英語とナショナリズム」に関する過去の重要事例を掘り起こし、歴史を跡づけるタイプの研究は貴重であり、現代の言語教育関係者にとって有益であるだろう。

その点で、Hino (1988) は貴重な先駆的研究だが、無視できない問題もある。それは大別して叙述上の問題と、枠組みの問題、そして、内容上の問題に分けられる。


第1の問題は、各時代の事例について、情報量がかなり少ないことである。Hino (1988)は、日本の近代約150年を10ページに満たない論文で概観している。その点で、ラフスケッチという面は否めない。同論文は国際ジャーナルでもあり、日本について不案内なな読者には十分かも知れないが、日本の教育関係者にとってはかなり物足りないはずである。


第2は、分析方針に関わる問題である。前述のとおり、教科書の分析に焦点化しているが、これだけで各時代のナショナリズムの様相を論ずるのは、かなり心許ない。たしかに制度的な面を主軸とすることは重要だが、制度面からある程度自律的に機能する、英語教育関係者の思想も同程度に重要である。いや、思想面のほうが、ナショナリズムをより直接的に表現し得る点で、それ以上に重要であり得る。


第3は、Hino (1988)の歴史記述---特に「第4期」の記述---に関する問題である。第4期は、終戦後の約20年間に相当するが、彼の評価はひと言で言えば「英語教育の英米化・非日本化の時代」である。たしかに教科書の分析に限れば、戦時中の「鬼畜米英」の時代からの落差によって、非日本化が際だつのもうなずける。また学問的潮流の面から見ても、戦後の約20年間は、英米言語学・言語習得理論の知見が日本の英語教育界に一気に押し寄せた時期である。また、英語教員にもフルブライト奨学生など「アメリカ帰り」の者が多数誕生した。


一方で、戦後初期から十数年は、戦時中とは異なるタイプのナショナリズムが日本中を覆っていた時代だった。教育界も例外ではない。敗戦・占領により大転換を果たした教育制度とは対照的に、太平洋戦争中とほとんど顔ぶれが変わることのなかった学校教員は、依然として「愛国心」を生徒に説いていた。つまり、「言葉が『鬼畜米英』から『民主主義』に変わっても、心情や行動様式のほうは、戦中から連続していた(小熊2002: 356)」のである。


こうした事実を踏まえるならば、Hino (1988) の言う「第4期」を、「英語教育の英米化・非日本化」の時代と描いてしまうのは、過度の単純化につながりかねない。じじつ、本稿で明らかにするとおり、終戦直後であっても---むしろ終戦直後だからこそ---、英語教育関係者は常にナショナリズムと無縁ではなかったのである。

*1:念のため注記すると、先行研究の知見が「内側」の人間にとって真新しいものでないからといって、その質の低さを意味するわけではない。内側の人々の「常識」を外部の人にとっての「非常識」と対峙させることで、その論文自体の新規性を獲得しているからである。上記の論文の多くに非常に強い理論志向が見られるのもその理由である。読者に特定の事例に関する前提知識が期待できない場合(たとえば、国際ジャーナル)、事例のディテールよりも、理論による文脈化が重要な役割を果たすからである。