こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

批判的応用言語学の「批判的」に関する誤解

私の半径数メートル以内では「批判的応用言語学」(Critical Applied Linguistics: CALx)というのが以前から話題になっている。以下、強調する必要がある場合を除き、CALxと書く。


日本ではけっこうマイナーだと思うんだけれど、最近ではついに岩波新書にも登場したりして(以下の記事参照)、個人的には勝手に盛り上がっている。
白井恭弘著『ことばの力学 ---応用言語学への招待』 - こにしき(言葉、日本社会、教育)


ただ、「批判的」 (critical) という言葉がけっこうくせ者である。多義語だし、かなり独特な使われ方もされているので、誤解された解釈を何度も見てきた。ただ、誤解してしまった人よりも、誤解させるような用語を喜んで使ってきた側に責任があると思うけれど。まあ、そんなわけで、CALxの「批判的」の用法を理解する助けになるようなヒントを書いておきたい。


なお、依拠しているのは以下のA. ペニクックの著書。タイトルがあらわしているとおり、CALxの「入門」の本である。

Critical Applied Linguistics: A Critical Introduction

Critical Applied Linguistics: A Critical Introduction

この「入門書」を読んで普通に理解できていれば、CALxにおける「批判的」の意味は理解しているも同然なので以下の記事を読む必要なし。ただしこの本、英語自体は平易・明晰なものの、議論の展開方法がぜんぜん入門書らしくない。というのも、重要な前提を構成するはずの理論的議論をすっとばしがちだからだ。たとえば、けっこう重要な話を「この問題についてはフーコー読めばわかる」みたくお茶を濁したりしている。なので、初めて読むにはけっこうしんどいかもしれない。


ちなみに、以下の「ヒント」は(それなりに確信はあるものの)個人的な考えであって上記の本の著者ペニクックの見解ではないのであしからず。


「批判」という用語は「批判理論」から来ていると理解すると都合がいい


「批判的」には様々な解釈があって、上記の本でも、著者は色々な定義を並べている。ただ、とりあえず最初は、「批判理論」(Critical Theory)の系譜にある研究群に由来しているから、「批判」という用語が使われているんだ、という点を理解しておくのは重要だと思う。


この理由は後述する。その理由を見る前に、まず、「批判」の駄目な解釈の例を見てみよう。

ダメな例1:批判=政府や権力者に対する批判

結論から言えば、CALxの「批判的」は、反骨精神とは関係ない。たしかに重複している部分はあるものの、学習の上では、別物と考えるのが有益である。


後述するが、CALxのキモは、「批判理論」が前提とする左派系・マルクス主義系の思想・社会観なので、政府に抗うとか、安易に権力に従わないとか、権威の言うことを鵜呑みにしないとか、上司や先生に逆らうとか、ロックしか聴かないとか、そういう「振るまい方」の話ではない。


そもそも政府や文科省が気に入らなければ、左派であれ、保守・右翼であれ、ノンポリであれ、権力への批判というのは普通に起きる。たとえば、以下の本が好例である。執筆者4名(+あと出版社の社長も)は、文部省や政府与党に対し、きわめて「批判的」な姿勢を鮮明にしている。

英語教育、迫り来る破綻

英語教育、迫り来る破綻

読んでみればわかるが、いかにも「反骨」という感じだが、だからといって、彼らの主張をたとえばペニクックが聞いても、CALxに分類することはないだろう。



ダメな例2:批判=既存の応用言語学に対する批判

つぎの誤解は、既存の応用言語学のアンチテーゼが批判的応用言語学だよ、という説。この種の誤解もたまに聞く。


結果的にはまちがっていないし、ペニクックも一部そういう言い方をしているけれど、あくまで結果的であるので、そう理解しないほうがよい。


批判的応用言語学者からすれば、既存の応用言語学の多くにかなり偏狭な中立主義的な科学観、過度に調和的な社会観があるから気に入らないのであって、別に権力争いをしているわけではない。


また、既存の応用言語学を批判する人のすべてが、CALx者ではないことも重要。というか、CALx者でないことのほうが多いだろう。


たとえば、ガチ保守の英語教師は「教育の本質は強制であり、地道な訓練でこそ英語は習得される。欧米の言語教育理論のコミュニケーション主義は日本人には合わない」と既存の応用言語学を批判するかもしれないが、こういうことを言う人は CALx者の対極である。そもそも、ペニクックはこの手の論者がまったく眼中にないようで、上記の本でも保守系言語観への批判は数頁くらいしか割かれていない。


こうした事情は、以下のような図式になるだろう。

  • CALx者 ⊂ 応用言語学に批判的な人

「批判理論」とは

では、CALxのキモとはなにか。


前述の通り「CALxは、批判理論の系譜にある研究群から影響を受けた応用言語学だよ」と理解しておくのがよいと思う。


問題は、「批判理論」とは何か、という点である。ちなみに、文学理論の「批評理論」のことと勘違いする人もたまにいたが、これとは別物である。


批判理論 - Wikipedia


「批判理論」は、上のウィキペディアの解説にもあるが、非常にざっくり言ってしまえば、「マルクス主義系の影響を受けた、社会批判を志向した哲学・社会学・経済学・心理学等の学際的領域」である。中心的な研究者がフランクフルトで活動していたこともあり、ドイツ/欧州の歴史的文脈(とくに第二次世界大戦前後の歴史的状況)を強く反映していることも重要である。


ただし、(いろいろ怒られそうだが)CALxを理解する上では「批判理論」の学説史的理解はそんなに必要ないと思う。重要なのは、CALxは、批判理論の系譜にある研究群と有機的な連関がある、ということだからだ。


ここで、批判理論の系譜にある研究群とは、批判理論(Critical Theory)を筆頭に、パウロフレイレをはじめとした批判的識字(Critical Literacy)や、ヘンリー・ジルーらの批判的教育学(Critical Pedagogy)などである。これらすべてに共通するものが、「コンフリクトを前提にした社会観」である。

社会を「コンフリクトの場」として見る

つまり、CALxの「批判的」の意味のキモは、以下のような「コンフリクト」をベースにした社会観である。

「調和的な社会」観からの離脱
言語と社会、言語と教育の関係を、調和的なものとしては基本的に考えない
闘争的社会観の採用
社会での言語使用や言語教育は、抑圧者(権力を持てる者)と被抑圧者(権力を持たざる者)との間の衝突、そして、闘争の場である


たとえば、「教師が生徒を教える」という状況を考えてみよう。調和的な指導観の代表格は、

教師は生徒を「善導」する存在で、生徒も喜んでそれを受け入れ、生徒はよりよい人間に成長する。結果、みんなハッピー!

みたいなのである。一方、コンフリクトとして見るのは、

教師は既得権益を持った人間なので、自分の利益になるような、都合の良い価値を生徒に押しつける。ただ、事態がより深刻なのは、教師も生徒も自分が「教えてあげる側」「教えてもらう側」だと深く思いこんでしまっているせいで、押しつけている・押しつけられている自覚がない


このようなコンフリクト的な社会観は、たいてい、一般の ―ナイーブな、というと怒られるんだが笑― 人々を困惑させ、ときに、不愉快にさせる。「なんでそんなに穿った見方しかできないの?」と。実際僕も言われたことがある。


ただし、調和的社会観もコンフリクト的社会観も、どちらも「モノの見方」であって、その点では同レベルである。したがって、調和的社会観が「穿っていなくて」、コンフリクト的社会観が「穿っている」などと安易に結論づけられる代物ではない。もちろん、調和的社会観は、現代社会の日常空間にかなり浸透しているので、「自然なものであるかのように誤認する」ということはむしろよくある。


なお、上記のような疑問をぶつけられたが、それに誠意ある返答をする余裕が時間的・精神的にないとき、あるいは、そもそも誠意ある返事をしてあげる義理が相手にない時は、次のように返している。

あなたは、コンフリクト的社会観を「穿った見方」だとたいして根拠もなく断じていますが、世界中の著名な学者は、ずっと昔から、こういう見方をベースにして研究を蓄積してきました。あなたが漠然と思うほど「異端」な考え方ではありません。

「学問」を利用した権威主義的な返答である。まあ、余裕や義理がないんだからしょうがないじゃないですか。

CALxは「権力が隠蔽している『真実』を明るみに出す」ための学問ではない

ここで注意すべきなのは、コンフリクト的社会観は、次のような社会観とは一線を画すという点である。

  • この社会には、政府や大企業、宗教結社など強力な権力組織が存在する。
  • 権力組織は、自分たちに都合のいいように世界を操り、「真実」を隠蔽する。
  • 「真実」を覆い隠しているのは悪意を持った権力であり、良識と科学的態度・合理的精神があれば、「真実」は明るみにだせる
  • そうした科学性が、学術的な「批判」のあるべき姿である


要は、悪意を持った「権力」がいるせいで、この社会には、言語差別や抑圧的な言語教育政策が存在する、そうした隠蔽を科学や合理性の力で暴けば解決、という考え方である。


ペニクックがこの立場の代表例としてあげている論者は、ノアム・チョムスキーである。たしかに、チョムスキーの(言語学ではなく)政治評論の本を読むと、そうした社会観を持っているんだろうなあということは納得できる。また、私見では、白井恭弘氏の『ことばの力学 ―応用言語学への招待』もこの立場を基調にしている。


一見すると、コンフリクト的な社会観と似ているものの、「悪者」を外部に仮定している点で大きく異なる。つまり、コンフリクト的な社会観においては、単に権力が「弱者」を直接的に抑圧するというよりも、権力が特定の社会構造(たとえば資本主義や封建制)を介して弱者を支配するという見方をとるからである。そして、社会構造のなかに支配のシステムが埋め込まれているからこそ、「弱者」には自身が「弱者」として抑圧されることを「正当なこと」として認めてしまう、虚偽意識(イデオロギー)が介在するのである。その点で、このアプローチの権力批判には、反省性(=他者への批判が自分にも返ってくること)が存在する。


一方、図式的に対比するなら、チョムスキー的な社会観には、反省性が乏しい。「真実」を隠し、不平等や差別を行う権力は悪であり、それを暴き出す「科学」や「合理性」、そして「批判的精神」は、善である。人は非科学的・非合理的だから言語差別をするのであり、現場の言語教師は科学的な知識を持っていないから間違った指導をし、権力に弄ばれる ――この社会観を言語の問題に適用すればこうなる。そこには、言語をめぐる良心・合理性・科学的知識の欠如が、不正義に直線的に結びつけられている。


こういう風に整理すると、この立場には、社会構造の意義を軽視ないしは無視しており、また、だからこそ、科学的正しさや合理性という概念に楽観的である。


その意味でかなりナイーブな考え方だが、ナイーブだから即悪いというわけではない。ナイーブ(=シンプル)な考え方のほうが分析概念として優れている例は少なくない。たとえば、物理の問題の「摩擦はないものとする」という注意書きについて、「摩擦が存在しないと仮定するなんてナイーブだなあ」とバカにするひとはあまりいないと思う*1。したがって、特定の社会の見方がシンプルであろうがなかろうが、分析概念としてどれだけ役立つかを比較検討すればいいわけだ。ただ、個人的に言わせてもらえば、「現場は科学について無知だから間違った指導をする」的な社会の見方に、実際の社会現象を分析する有用性はほとんどないと思う。その点で、ナイーブ過ぎて使える代物ではないと思う。


ネオマルクス主義系CALx と ポストモダンCALx の区別


ここまでで、CALxの「批判的」の用語解説は終わった。一言で再度まとめれば、「批判的=コンフリクト的社会観だ」ということだ。


しかしながら、さらにややこしいのは、ペニクックは、「コンフリクト的社会観」を有したCALxをさらに下位分類している点だ。それは、ネオマルクス主義系のものとポストモダン系のものである。ペニクック自身は後者の立場を推す。


両者の違いを強引に一言であらわすならば、複数の「正しさ」「正義」「科学」等が多層的に存在することをどれだけ許容できるか、という点である。許容できるほうが、ポストモダンCALxである。その意味で、ポストモダンをはじめとした現代思想の知識群にどれだけコミットできるか、とも言い換えられる。今回の記事の目的とはそれるので深入りはしないが、またいつか。