こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

批判するときは必ず根拠を述べる

後輩たちが修士論文提出で大詰めになっているのを(SNS上で)見守る。自分の出身研究科は、国内の大学院のなかでもおそらくかなり早い部類で、12月中旬が締め切り。


人生で3回、学位論文というのを書いた ---卒論、修論、そして、博論。


博論を提出した時、何人もの人に、「苦しかったでしょう、これで楽になるね」と労ってもらったんだけれど、実は全然そんなことはなかった。博論はもちろん大変ではあったけれども、苦しいとはほとんど感じず、むしろ楽しく書けた。そんなバカなと思う人もいるかもしれないが、実際、博士論文を提出した人にはけっこうよくあることだと聞く。博士課程にもなれば、世界中で自分の研究を一番面白がってくれるのは自分自身なのだから、不自然な話じゃないだろう。


むしろ、精神的に辛かったのは修論*1。文字通り苦行。


その最大の理由は、達成感というか自己効力感がまったくなかったからだ。


修論執筆のなかで、様々な「指導」があるわけだが、漠然と良いとか悪いという判定が下されるのみ。根拠がまったく述べられない。(それは、多くの場合、「時間的制約」という建前だったのだが、本音は、根拠がうまく言語化できなかったのではないかと邪推している)
運良く、結果的に「良い」という判定をもらったので、修論は提出できたわけだが、自分でも何がうまくいったかわからないので、まったく達成感がなかった。


登山で例えれば、修論は目隠しをしたまま高尾山を登らされるイメージ。一方、博論はちゃんと目を開けて穂高岳を登る感じ*2。大変さで言えば、圧倒的に穂高岳だろうが、精神的苦痛は、目隠しの高尾山。


結局、自分の修論は、学界や関係者にほんのささやかでも貢献するために書かれたわけではなく、ほとんどすべて修論の審査委員に向けて書いていた。そんな論文が楽しいはずもないし、やりがいも感るわけがない。


そんなこんなで、今後、学術的な批判をするときには、かならず根拠を述べよう、多少違和感を感じてもそれが「よくわからない」程度のものであれば安易に批判しないという当たり前のことを心に誓ったのだった。

*1:ちなみに、卒論はほとんど記憶にない、笑

*2:ここで、安易に「富士山」を出さないところが、人からしたらどうでもいいようなこだわりである。