最近いろいろと論文を読んで(読まされて)考えたこと。
「クリティカル教科書分析」*1と呼べるような方法が、昔から一部で流行っているようだ。ここで言う「クリティカル教科書分析」とは、教科書の語彙とか語法を計測するタイプの「教科書分析」ではなくて、もっと教科書のメッセージに注目した分析。
最も有名な(しかし、結論はいたって凡庸な)例のひとつが、石原千秋の教科書分析。
- 作者: 石原千秋
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/10/04
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英語教育界隈でいえば、たとえば、教科書の登場人物のプロフィールを分析して、「その半数が英語ネイティブでした。これでは、国際語としての英語に対する正しい理解が生徒に生まれない」と結論付けるような。
このような分析作法は、児童・生徒の批判意識をほぼゼロに(おそらく暗黙のうちに)設定していると思う。
もしこの分析で上のような結論が導かれるのであれば、学習者を、教科書のメッセージを無批判に真に受けちゃう「白紙」として、概念化していることになる。このような「上から目線」は、クリティカルな研究が最も批判すべき立場のものではなかっただろうか。
教育研究からしばし離れて、メディア研究の状況をみた場合、もちろんメディアのメッセージの分析はとても重要な分析である(一般的に、「内容分析」と呼ばれる方法論である)。しかしながら、同程度に重要視されているのが、メディアを受け手がどう受けとっているかという視点である。「受けとる」といっても、もちろんただ無批判に信じこむだけではない。反発もするし、無視もする。さらに、ポスコロ・カルスタ的な視点にたてば、メディアのメッセージを表立って反発はせず、一見受け入れているように見えるけれど、自分たちの都合のいいように読み替えて(apropriation)、抵抗の足がかりとする、という反応もある。
これを英語教科書の分析にパラフレーズすれば、「学習者が英語教科書のメッセージをどう受容・反発・抵抗・読み替えしているか」となるはずだが、なぜかこれがぜんぜん流行らない。教科教育法で、教科書分析というのをやらされるからなのかどうかしらないが、「教科書分析は、教科書のメッセージを分析するものである」という思考枠組みがかなり強固だなあと思う。
教科書のメッセージを分析するというのは、たしかに楽だ。教科書さえ手に入れてしまえば、エアコンのきいた(きいてなくてもいいけど)部屋で、データがとれる。反対に、生徒が教科書のメッセージをどう受容しているか、というのは骨の折れる作業だ。そもそもフィールド(例、教室)に入れてもらうのが大変だし、一日ずっとフィールドに入っていても一度も「受容」している瞬間を観察できないかもしれない。その点で、インタビューであれば、多少負担は軽減されるかもしれない。インタビュイーを(適切な筋を通して)探す困難は一緒だろうが。
出羽守みたいだけど、北米のクリティカル系の応用言語学の院生にとって超基礎文献になっている(と思う)S. Canagarajah の Resisting Linguistic Imperialism in English Teaching には、学生が教科書をどう受容(そして抵抗)しているか、詳細な分析がある。
Resisting Linguistic Imperialism in English Teaching (Oxford Applied Linguistics)
- 作者: Suresh Canagarajah
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
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簡単に紹介すると、この本は、スリランカの大学の英語教室におけるエスノグラフィーである。学生は欧米中心主義・人種的バイアスが強い教科書を使っていた(使わざるを得なかった)*2。そのような教科書のメタ・メッセージに対し、学生はに完全に白けていて、ひどい落書きなんかをしている。それもそのはずで、フィールドのスリランカは当時内戦中。英語の授業中、爆撃機が頭の上を飛び回っていたからだ、みたいな話。
こういう、英語教科書受容過程の分析、やる人いませんか?
M1の方々、いかがですか?
修論がすぐ本になって、石原千秋先生の本みたいに、馬鹿売れしちゃうかもですよ?