こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

3日で書いた論文と3年以上かかった論文

2012年度に出た以下の拙論文2本は、それぞれ執筆スタイルがかなり対照的だった。


ひとつは、日本教育社会学会の『教育社会学研究』第91集に掲載された論文で、掲載まで非常に長い時間がかかった。審査自体はスムースだったのだけれど、投稿するまでに3年間以上かかったのだ。というか、書き始めるまでの「下準備」に3年以上かかった、というのが正確か。


もうひとつは、『関東甲信越英語教育学会学会誌』第27号に載せてもらった論文で、こちらは3日間で書いた。誇張でなく、ほんとうに3日間である。


ただ、「短時間で論文が書けた」ことを自慢したいというのがこの記事の意図ではない。そうではなく、論文のタイプによって、短期間で書けてしまうものと、それは事実上ムリなものがあるんじゃないか、というのが真の意図。

なぜ3日で書けたのか

なぜ後者の論文は3日で書けたのか。


この理由は簡単な話で、「オチが既に決まっていたから」である。どういう分析結果になるかだいたい予想できていて、したがって、結論がもう決まっているので、それに向けて一直線に書けばいいから、短時間で書けるという仕組みなのである。


一方、前者の論文は、分析しながら書き、書きながら分析した。途中で意図しない分析結果が出てしまったため、それ以前に書いた部分をばっさり削除した、ということもあった。なので、論文の執筆は、2歩進んで1歩下がったり、それならまだいいほうで、1歩進んで2歩下がるような状況もしばしばあった。


「結論が自明」の研究はつまらない?

というわけで、私の後者の論文は、結論が自明なものだった。論文に限らず、一般的に、結論が最初からわかっている作品は、たいていつまらないものだと思う。そんなわけで、ある論文が3日で書けたからと言って、それだけでたいした自慢にはならないだろう(もちろんその逆もしかりだが)。


短時間で書ければよいというならば、分析課題のハードルをできる限り下げていけばよいからだ。たとえば、「地球は自転しているか?」という問いなんて簡単そうだ。また、「語学に努力・根性はまったく必要ないか?」なんていうのも「志の低い」問いである。人間生きていれば大変なことは色々とあるわけで、まったく「努力」をしない人など想像上の世界にしか存在しないからである。


これを図式的に整理してみたい。以下の図をご覧頂きたい。

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これは、合意可能性(縦軸)と新規性(横軸)という空間のなかで、ある研究がどのように位置づけられるかを示したものである。各軸をもう少し説明すると、以下の通り。

【縦軸】手続きの合意可能性
多くの人(専門家)にとって納得できる結論の導き方か?
【横軸】知見の新規性
新らしい発見・興味深い知見が示されているか?


この二つの軸は、一般的にトレードオフの関係がある。つまり、多数の人が納得できる証拠が提示できるような「事実」は、たいてい多数の人が既に知っているということである。逆に、多くの人にとって驚くべき「事実」は、そう簡単には証拠が集まらないため納得しない人も多くなる、ということである。


もちろん、例外は存在する。そのような例外こそが、研究者が理想とするもので、右上の「堅実な分析でなおかつ面白い論文」にあたる。とはいえ、例外である以上、何もせずにそこに至るというのはほぼ不可能である。


というわけで、右下の「分析がおおざっぱで突っ込み所が多いけれど面白い研究」は、下図のとおり、上昇移動するようにして「理想」に近づいていくことが必要である。その一方、左上の「結論は当たり前で面白くないけれど手堅い研究」は、右側に移動することで「理想」に近づく必要があるということになる。



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「結論は自明」なものから、新規性を上げるには?

前述のとおり、たとえば「地球は自転している」のように、手続き面で多くの人が合意できるタイプの知識には、たいした「新しさ」がないことが多く、「おもしろい」とは思ってもらえない。では、これをどう解決すればいいか。「3日で書いた論文」で私は、以下の2つの方法を使った。

方法1. 「新しい」と思ってもらえる分野を探す

ある分野の「常識」が別の分野の「常識」とは限らない。「これのどこがおもしろいの?」と言い続けられた論文でも、別の分野のジャーナルに投稿すれば面白いと思ってもらえるかもしれない。


私の論文が明らかにしたのは、「日本社会で日常的な英語使用者は多くても数パーセント」という日本社会研究者にしてみれば当たり前な事実だった。いや、冷静に日本社会を観察できる一般人であっても、この事実は驚くほどのことではないだろう。しかし、これは英語教育研究では「当たり前」ではなかった。英語教育関係者のほとんどは、英語使用者に囲まれて生活しているため、バイアスがかかりやすい、ということだろう。

方法2. レトリックを駆使して「おもしろさ」の底上げをする

もうひとつは、情報の提示の仕方・文章の書き方、つまりレトリックの次元の工夫である。「これは当たり前かもしれないが・・・」ということを最初から馬鹿正直に言わず、「謎」としての面を強調していくのである。


ある意味で「マッチポンプ」的なレトリックになる。


つまり、

  1. みんな知ってるとおり、Xである
  2. しかし、実は、Xじゃないこともある
  3. これは矛盾じゃないだろうか?どうしてこんな不思議なことがあるのか?
  4. 分析の結果、YのときにはX、YじゃないときにはXじゃなくなるという法則がわかった
  5. 謎が解けた!

といったレトリックである。やりすぎると、まさに「マッチポンプ」という印象を与えてしまうので、やりすぎは良くないだろう。