こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

拙著『「日本人と英語」の社会学』が刊行(「まえがき」をアップ)

ツイッターなどではすでに告知していましたが、拙著が発売されました。

「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか

「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか


まえがき、目次、および本文からの抜粋は、以下のリンクから読めます(けっこうサイズの大きいPDFなのでご注意下さい)
http://www.kenkyusha.co.jp/uploads/samplebook/new/32737821.pdf


そんなでかいファイルを見るのはしんどい!という方もいるかもしれないので、「まえがき」(の謝辞を除いた部分)のテクストをアップします。(ただし、以下は寺沢が再編集したものなのでひょっとしたらミスがあるかもしれません。「正本」は書籍版です)


何かの参考になれば幸いです。

まえがき

「日本人は英語下手」「これからの社会人に英語は不可欠」「英語ができれば収入が増える」「日本人女性は英語が大好き」。このような主張を一度は耳にしたことがあると思う。本書は、こうした通説・俗説の多くが実は大いなる誤解に過ぎないことを統計データの分析によって明らかにする予定である。


これがそのまま本書の副題である「なぜ英語教育論は誤解だらけなのか」に対する答えである。つまり、英語教育のあり方が間違って論じられるのは、日本社会における英語の実態が正しく理解されていないためだというのが本書の答えである。具体的にどのように間違っているかは本書の各章で確認して頂きたい。


もちろん一方的に「そんな認識は間違いだ!」と叫ぶだけでは、独り善がりな主張に過ぎず、読者も呆れてしまうだろう。そこで本書では、誤解かどうかを判断する拠り所として、社会統計データを利用する。これにより客観的な基準に基づいて日本社会における英語の実態が検討できる。ついでに言うと、本書で用いるデータのほとんどが研究者向けに一般公開されているものなので、「他者による追試が可能」という意味の「客観性」も兼ね備えている。


本書は客観性を特に重視したため、大量の統計的情報を掲載せざるを得なかった。統計に不案内な読者も多いと思われるので、各章は基本的に以下の方針に従って執筆している。

  1. 統計的な議論は脚注に回し、本文では「分析結果が示していること」をシンプルに伝える。
  2. 複雑な統計表が直感的に理解できるようにグラフを多用する。
  3. 各章末に「まとめ」の節を用意し、知見をコンパクトに要約する。


数字に抵抗を覚える読者は、上記の点を中心に読み進めて頂ければと思う。


また、本書のメインタイトルにある「社会学」に対し、難解な学問分野というイメージを抱いている人もいるかもしれない。もちろんそのような「社会学」もあるが、実際には「社会学」と言っても様々である。本書の依拠する計量社会学の場合、その推論方法はいたってシンプルであり、常識的に理解できるものがほとんどだと思う。そこで、さしあたっては、(計量)社会学的な枠組みを「社会の実態を統計に基づいて正しく理解するための学問的ルール」と理解してもらって構わないだろう。もちろん「常識的」なのはあくまで推論方法であり、社会学が前提にする理論(社会観)は必ずしもシンプルではないこともあるが、その点については各章で詳しく説明するので安心して頂きたい。


本書の成り立ちについて簡単に述べておこう。各章は筆者が 2008 年頃から書きためていた論文に基づいているものが大半である。ただし、書籍刊行に際し、データ分析を新たにやり直し、また、文章も大幅に書き直している。詳細は初出一覧を参考にされたい。


筆者の前著(寺沢 2014a)との毛色の違いに戸惑う人もいるかもしれない。前著は史料を駆使して「過去」を分析したのに対し、本書は統計を武器に「現在」を検討しているので、たしかに表面的には著しい対照をなしている。


しかし、筆者のなかではもちろん前著と本書は密接につながっている。詳細は終章(特に 249-51 頁)で論じているので参照されたいが、前著と本書に共通するキーワードは「必要性」「国民教育」である。前著は、英語の必要性に疑いの目が向けられていたにもかかわらず、「国民」全員が英語を履修するようになったのはなぜかという謎を追ったものであり、一方本書は、必要性に対する疑いの眼差しはもはや過去のものになったのか、英語使用・英語学習は「国民」的な現象にまで一般化したのかという問いを検討している。つまり、同じような問いを「起源」の観点から検討したのか(=前著)、それとも「現状」の観点から検討したのか(=本書)という違いである。


もう一点、出版動機の点から本書の成り立ちについて述べたい。筆者が本書の刊行を急いだ背景には、近年の(英語)教育政策に対する大きな危機感がある。2000 年代以降、政府は既存の英語教育を「改革」すべく様々な政策を打ち出しているが、その中には日本社会の実態を無視した空想的な「改革」案も少なくない。本書がこうした状況への対抗言説の一助になればと考えている。


同時に筆者は学術コミュニティにも危機感を抱いている。それは、英語教育学の政策批判の「質」に対してである。英語教育関係者には周知の事実だろうが、政府を痛烈に批判する英語教育学者は実はそれなりに存在する。しかしながら、そのほとんどが理念的な批判や理論的な批判(特に言語習得理論の観点からの批判)であり、政府の認識に真っ向からノーを突きつける類のものではない*1


なぜこの手の批判が手薄になるかは、終章で述べるとおり、英語教育学の知的特徴――あえてネガティブな表現をするなら知的弱点――にあると思う。筆者は大学院時代、外国語教育学コースでトレーニングを積んだが、社会統計分析に関しては外部の学問――つまり社会学・経済学・政治学などの社会科学――に頼らなければならなかった。この時、政策を批判する学問として、英語教育学がいかに脆弱なものか痛感したのである。そのような事情もあり、英語教育学に社会科学的なアプローチが少しでも浸透して欲しいという願いを本書に込めている。そのため、現在の英語教育学のあり方に厳しい言葉をぶつけている箇所もあるが(特に終章)、それもひとえに、この学問分野を少しでも良くしたいという筆者の思いの表れである。だからといって大目に見てもらう必要はまったくないが、単なる「悪罵」などではないのでその点はご理解願いたい。


本書は序章、分析部分(全 13 章)、および終章から構成される。分析部分の各章の内容は基本的に相互に独立しているので、第 1 章から読み進めていく必要はなく、関心のある章から読み始めてもらって構わない。その関係で、複数の章に重複する記述がたびたび現れることがあるが、読者の便を考えてのことであるとご理解頂きたい。

*1:この点は研究者にも誤解が多い点だと思われるが、言語習得論などが提示する認知科学的な知見は、政策評価に資する「良質なエビデンス」とは必ずしも見なされていない(岩崎 2010)。なぜなら、認知科学は一般的に国際志向(つまり社会横断的な傾向)や基礎研究志向が強く、特定の社会や特定の政策を前提にしているわけではないからである。認知科学上の定説が、特殊な環境において「定説」でなくなることはしばしばあるが、日本の学校現場がその「特殊な環境」ではない保証はどこにもないのである。