こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

JASELE2015感想、殴り書き(英語教育学の発展を願いつつ)、その1

(感想と言ってもほとんど以前からの問題関心の繰り返しなので、以前に書いた文章のリサイクルでお送りしております)

テキストマイニング

学術研究でテキストマイニング・計量テキスト分析が輝くのは人間の意味処理能力では不可能なほど大量の文字情報から意義のある知見を取り出すこと(教科書にはみんなそう書いてある)。だから、たとえば計1万字にも満たないアンケートの自由記述欄を分析するなら人力のほうが圧倒的に性能が高いはず。

質的研究と量的研究の対立

英語教育学の人にはしばしば大きな勘違いをしている人がいるような気がするが、計量分析にすると人間の意味処理上のバイアスが軽減されるだけであって、自動的に科学性が向上するわけでもなければ、学術的になるわけでもない。全知全能の研究者を仮定するなら、この人は質的でやろうが量的でやろうが正しい知見に到達する。

量的研究の利点に「一般化できること」をあげる人がいるが、これも大変ミスリーディング。一般化可能性はランダム化に由来するものである(これも教科書に書いてある)。ランダム化をしてない計量分析(教室アンケート調査等)は、質的研究と一緒でケーススタディの一種と考えるべきだと思う。

じじつ、質的研究を専門にする英語教育研究者から「量的研究=一般化志向」という評価をよく聞く気がする。英語教育研究のほとんどの量的研究だって、その多くがランダム化をしていない以上、一般化は不可能なのだから、敵(?)に塩を送る必要などないと思うんだけど・・・。

英語教育学の質的研究の人はもっと「きちんと」研究すべきである


「量的は正しいけど面白くない vs. 質的は面白いけど正しくない」という過剰に対立を煽った図式がある。これはもちろんステレオタイプである。ただ、それを理解した上でそれでもなお英語教育学の質的研究にはこの図式をもっと意識して欲しいと感じた。質的研究なのに「みんなが知っていること≒面白くないこと」を述べてどうするんだ、という話である。

もっとフェアに言えば、アメリカ応用言語学会でも同様の印象を受けたので、日本の英語教育学固有の問題ではないように思う。


質的研究の「教科書」はもちろん読んでるだろうけど、その一方で質的研究による超有名文献は一体何冊読んでいるのかなと疑問符がつきまくった。有名文献は「一般化可能性」を犠牲にしたうえで、それでも余りある「(学術的)おもしろさ」を示したから、誰もが参照する有名文献になったわけで。


私はこう見えても(どう見えているかしらないが)質的研究愛好家なのだが、質的研究をやっている英語教育学者はほんとうに質的研究を愛好している人たちなのかと疑問に思ってしまった。引用文献を見ても、質的研究の教科書は載っていても、ザ・質的研究といった有名文献が載っていることは稀である。


もちろん教科書にも、表現の差はあれど「おもしろい発見を提示することは質的研究のレゾンデートルである」と書いてあるはずだ。なぜこの「教義」には注目が集まらないのだろうか。


質的研究の発表で分析手法を5分も説明するのも"選択的"教科書主義が災いしているのではないかと邪推している。どんなに権威ある質的データ分析法も「こうやるとうまくいきやすい」というレシピみたいなもので、別に科学性や論理学的正確さは担保しないわけである。

口頭発表は20分という限られた時間である。したがって、いかに正統な方法で分析したかなんて話よりも、私は実際の「できごと」についてもっと詳しく聞きたいのである。