こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

研究しないのも研究倫理

友人からこんな文章を教えてもらった。

日本社会学会倫理綱領にもとづく研究指針
http://www.gakkai.ne.jp/jss/about/researchpolicy.php

全文引用したいくらい重要な内容だが*1、長くなるので、特に重要な部分だけを抜粋する。

(2)研究・調査に関する知識の確実な修得と正確な理解

研究対象の特質、問題関心、テーマや人的物的資源に照らして、どの方法が適切か、的確に判断するためには、調査方法の基礎を十分理解しておかなければなりません。自分がどのような情報を求めているのかを自覚するとともに、調査の意図やねらいを対象者に明確に伝えるためにも、先行研究など…の蓄積をふまえることが必要です。このような知識を確実に修得し、理解していることが、専門家としての、また調査者としての責任であることを認識しておきましょう。

(3)社会調査を実施する必要性についての自覚

社会調査はどのような方法であれ、対象者に負担をかけ…調査対象者の思想・心情や生活、社会関係等に影響を与え、また個人情報の漏洩の危険を含んでいます。そもそもその調査が必要なのか、調査設計の段階で先行研究を十分精査しておきましょう。
知りたいことが、二次データ・資料の活用によってかなりの程度明らかにできることは少なくありません。調査を実施しなければ知ることのできない事柄であるかどうか、また明らかにすることにどの程度社会学的意義があるかどうか、慎重に検討してください。


引用の中でも特に重要なのが最後の部分だと思う。

外国語教育研究の院生・研究者にもあてはまるように少し改変する。

  • 知りたいことが、既存の研究リソース(例、オープンソースの統計データ、コーパス、文献研究、メタ分析)の活用によって明らかにできることは少なくありません。実験・調査をしなければ知ることのできない事柄なのか、また明らかにすることにどの程度教育研究上の意義があるのか、慎重に検討して下さい。


どうもこの業界では「被験者をモルモット扱いしてはいけない」的な、ある種のマナー講話が、研究倫理として認識されているようである。要は、「ヒューマンな研究者のススメ」である。

もちろんそれも大事だが、そもそも「研究を諦めることが倫理的である」という状況の存在が無視されている気がする。もし既に十分な量の先行研究が存在し、先行研究の蓄積がその実証研究の無意味さを示唆しているとき、それでも実証研究を行うことは非倫理的である。このとき、その実証研究をやめることが唯一の倫理的な選択である。


また、この業界の大学教員のなかには「実証研究をさせることこそが院生の成長につながる」と考えている人がたまにいるように感じる。恐怖しか感じない。適性・覚悟のいずれも十分ではない院生に侵襲性の高い実証研究を「断念」させることが指導者の義務ではないだろうか。


果ては現職教員に対し「実証研究は怖くない!」とか「実証研究に馴染みを持ちましょう!」といったワークショップまで開かれる始末。

「実証研究は怖くないよ」というのは、一体どういう効果を期待したエンパワメントなんだろうか。皆目見当がつかない。

*1:ちなみに私は同学会の会員ではないので身内びいきとかそいういうことではない。