ここの第12章。
- 作者: 中澤栄輔,鈴木貴之,立花幸司,植原亮,永岑光恵,信原幸弘,原塑,山本愛実
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2010/10/08
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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脳神経科学に基づく教育がいかなる可能性とリスクを持つのかを論じた論稿。神経科学の教育的貢献がまだコンセンサスが得られていない現状を考えれば驚くことではないが、大部分が後者の「リスク」に関する議論に割かれている。
神経神話
日本にも以前から「俗流脳科学をベースにした教育論」が蔓延っていて、そのうちのいくつかは実際の神経科学を誇張あるいは誤解しているものも多いことは周知の通り。こうした神経科学に対する誤解・デマは欧米にもあって、「神経神話」 (neuromyth) と呼ばれているそうだ。OECDが警鐘を発しているほどである。
以下のページが、OECD教育研究革新センターによる「神経神話」の解説
三歳児神話と脳の発達
本稿で中心的に検討されているのが、三歳児神話である。三歳児神話には逸話ベースのものも少なくないが、脳の発達に関する知見もしばしば援用される。たとえば、 (1) シナプス数の変化、 (2) 臨界期、 (3) 早期学習環境とシナプス形成の相互作用。
外国語教育研究・応用言語学も「臨界期」を盛んに引用・援用・流用してきた分野なのでこの問題は無縁ではない。とくに、日本の英語教育学者の一部には早期英語推進の根拠として脳科学を引いていた「黒歴史」がある以上、この点は非常にアクチュアルな問題である。
ここで複雑なのは、言語使用や言語能力も広義の「こころ」の領域に属すものであるという点、そして、脳神経科学とは大雑把に言えば「こころ」を(表出レベルではなく)物質的基盤の観点から検討する学問であるという点である。
つまり、ある種の応用言語学においては、当然ながら、言語を脳にまで遡る必然性は確かに存在するのである。
逆に言えば、もしわざわざ脳神経という物質的基盤まで遡って理解する必要などないような言語現象の場合、つまり、表出レベルのデータだけで十分目的が達成される対象(たとえば教育政策や教室での指導実践)の場合、そこで神経科学的エビデンスを求めるのは明らかに「冗長」ということになるだろう。
冗長さはリソースの浪費
必然性のない脳科学的エビデンスの使用/流用は単に無駄なだけでそれ自体は善悪とは無関係である。しかし、著者は、こうした冗長さが教育研究リソースの配分という問題に結びつく場合には、大きな弊害を引き起こしかねないと指摘している。以下、引用。
教育にかんする科学的な情報源として脳神経科学だけが注目されることで、教育や発達についてすでに長い研究の歴史がある、心理学や認知科学などの知見が軽視されてしまう危険がある。現状では、発達や学習の脳神経科学的なメカニズムにはまだわかっていない点が多い。したがって、脳神経科学から教育政策にかんする実質的な教訓を引き出すことは期待できない。科学的な見地から教育方法を改善しようと考えるならば、脳神経科学よりもむしろ、心理学や認知科学の知見にまず目を向けることが必要だろう。(p. 235)