こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

英語力の有無を「格差」と呼ぶならば押さえておくべき点

以下の記事を枕に

「英語格差」を乗り越えるための新常識〜植えつけられた苦手意識はこう取り除け!(鳥飼 玖美子) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

国際共通語である英語が分からないと重要な情報を理解できず情報弱者になる。東北大震災の時も、英語でインターネットを検索し海外の情報を理解できる人は原発事故の情報をすぐに入手できたが、英語が苦手な人は政府の発表だけで判断することを余儀なくされ不利益を被った。

英語が話せないと、自分を守るために発信できず、結果として社会的弱者になる。たとえば海外で何か起きた際に英語が話せるのと話せないのとではトラブル対応に大きな格差が生まれる。

英語格差をめぐって

僕はイングリッシュディバイドについてそれなりに研究してきたと思う(その割に誰からも引用されないけれど)。そういう自負があるので言わせていただくと、「英語格差=英語へのアクセスで情報強者・弱者が生まれる」というのはかなり危うい議論だと思う。

なぜならば、英語力不足に起因する情報弱者は、意外と簡単に解消できるからだ。この手の「情報弱者」が本当に放っておけない存在であれば、英語ができる人が訳してあげればよい。真っ先に思いつくのはボランティアだろうが、現在の日本の状況を見ればマーケットとしても十分成立するはずである。事実、ウェブメディアのなかには海外で人気のウェブ記事を翻訳・紹介することで成り立っているものも多い。もちろん、公共政策として行政がマーケットを後押しするような形も十分考えられる。

社会モデル vs. 医療モデル

「英語リテラシーに起因する情報格差」は、大雑把に言って次の二つのモデルで考えることができる。

ひとつ目は障害学で言うところの「社会モデル」。情報格差の責任を社会制度に求めるもの。この立場にたてば、たとえば翻訳サービス/産業を充実させることで、情報格差の縮小を目指す。

もう一つが障害学で言うところの「医療モデル」。英語力がないこと(およびそこから生じる不利益)を個人の責任に求めるもの。この立場にたつと、個人個人が自助努力によって英語を身につけることで格差を乗り越えようとなる。


本当に情報格差が「真の敵」であれば「英語格差の社会モデル」のほうが断然効率がよい。


英語習得にどれだけの量の努力が必要か、あるいは政府が英語を身につけさせるためにどれだけ「公共投資」が必要かを考えてみればよい。情報格差が本丸であれば、その情報欠如を事後的に解消するほうがずっと安上がりだし、即効的でもある。

たとえば「フランス語格差」を考えて見れば良い(ほんとうは何語でも構わない)。フランス語ができないことによる情報格差と言う人は誰もいない。もちろんフランス語による情報は英語のそれにくらべればはるかに少ないが、国内におけるフランス語の専門家もずっと少ない。そうした小規模の専門家の「通訳/翻訳」のおかげで「フランス語不足による情報弱者」なる人々は生まれていないのである(少なくとも社会問題化はしていない)。

手段が目的化した「英語格差」の縮小

その一方で、英語格差を煽る多くの英語の先生は社会モデルを選び取らず、医療モデル、つまり個人主義的な解決策を好む。


このような論理構成を目の当たりにすると、僕は次のように感じてしまう。「情報格差」というのは単なる建前であって、結局は英語格差そのものが「根絶・縮小すべきもの」と考えられているからではないか、と。

単なる「差」ではなく「格差」と言うとき、理論的には何らかの不平等・不公平を前提にしていなければない。しかし、「英語力の格差は縮小すべきだ。なぜなら英語力に格差があるのは良くないからだ」という根無し草的なロジックは、結局のところ、「英語ができない人間が多いのは寂しいなあ」程度のことではないのだろうか。

英語格差を論じるのであれば、いかなる「不平等・不公平」を含意しているのかを明確にしておかなければならない。