こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「なんで英語を教えるの?」問題からの教科固有的/横断的価値について

最近、某英語科教育法の教科書(分担執筆)の原稿を書いていた。英語教育目的論も僕の担当箇所。そこで、「なんで英語を教えるの?」問題を取り上げ、それを「教科固有の価値 vs. 教科横断的な価値」という観点から整理しようとした。結局、少しマニアック過ぎると思い、章に含めるのはやめた。その際のメモ書きをこちらに転載する。


そういえば、次号(2月号)の『英語教育』も「英語をなぜ教えるのか?」(うろ覚え)みたいな特集らしい。まあ、執筆者を見るに、「僕はこう教えてるよ!」「私はこういう子どもを育てたいよ!」「みんな違ってみんないいよね!」という個人の信条レベルの英語教育目的論が展開されていることは想像に難くないが、まあそれはそれで需要があるだろう(そういうの楽しいもんね)。まあ、僕はそういうのは好きではないので、以下、信条レベルの話ではなくて、個人の信念を越えたメタレベルの話をしたい。

教科固有の価値 vs. 教科横断的な価値

「英語教育も教育である以上、人間教育でなければ無意味である」という主張を聞くこともある。反対に、そのアンチテーゼとして「そんなのは英語科じゃない。社会科だ」とか「英語教育の目的は英語力育成、それ以上でも以下でもない」という意見を聞くことも多い。これらはどちらも一見事実である言明――「〜である」論――だが、実のところは単なる「べき論」である。

まず、教育目的論は「べき論」の積み重ねであるというところを認識するのが第一歩であり、その次なるステップは、異なる「べき論」を擦り合わせて合意可能性を考えることである。それ以前の段階は、単なる感想文に過ぎない。たとえ指導経験ン十年のカリスマ大先生が言っていようが小学生の作文レベル。

上記の対照的な主張は、教科固有の価値を重視するか、教科横断的な価値を重視するかという対立で整理できる。


学校の教科教育の目的は、おおざっぱに言って教科固有の目的と、各教科に共通する教科横断的な目的に理論上分けられる。

図示すると以下の通り。

英語科を例にとると以下の図のとおりである。


英語科にしか提供できない目的、たとえば英語力の育成などが、教科固有の目的にあたる。
反対に、英語科だけでなく、他教科をいわば巻き込んで、学校教育全体で達成していく目的が教科横断的な目的である。たとえば、国際理解とか、異文化への寛容性を育てるとか、コミュニケーションへの態度育成とか、豊かな言語認識の育成とか――ただし、最後の「言語認識」については体育や数学だと少々難しそうなので、「全教科横断」というよりは「いくつかの教科横断」と形容するのがふさわしいだろう。

教科固有の価値をどれだけ重視するか

このうち戦前・戦後の英語教育者の多くは長い間前者と後者のバランスが大事だと述べていた。当時は(今もそうだが)英語使用ニーズがごくわずかだったので、前者=教科固有の目的だけを強弁できるほど、英語科の存在意義は周知されていなかったからである。この部分は、拙著『「なんで英語やるの?」の戦後史』で詳しく述べた。


「社会的ニーズが限定的/局所的なものを扱わなければいけない英語科は特殊なんだからしょうがない」と思うかもしれないが、そんなことはない。他の教科でも同様にバランスを重視せざるを得ない。

たとえば、以下のような例を想像できるだろうか。

  • 運動能力・身体能力 "だけ" を育成する体育科
  • 演奏能力・歌唱能力・音楽知識 "だけ" を育成する音楽科
  • 歴史的知識・歴史に関する推論能力 "だけ" を育成する社会科(歴史科)
  • 様々な文章・作品を的確に読む能力 "だけ" を育成する国語科

おそらくできないだろう。

公教育である以上、教科固有の価値を重視しつつも、それを教科横断的な価値と接続するロジックが必要になるのである。

教科固有の価値 "だけ" を重視できるか

一方、比較的最近になって、前者だけを強弁する英語教育者も増えてきた。たとえば、「英語は英語の授業だ。道徳や社会科の授業ではない」という主張である。


英語科固有の価値の重視は適度である限り重要である。たしかに教科固有の価値を完全に軽視すると、英語科の存在意義がなくなってしまう。

一方で、英語力育成だけを重視して、教科横断的な価値を完全に無視することも問題が多い。第一の理由が、そのような目的は、学校教育全体の理念と接続できなくなるという点である。これは、昔から多くの教養主義系 or 国際理解系の英語教育者が言ってきたことである――「英語力の育成しか頭にない英語教育など街の英会話学校と何が違うんだ」というのは随分昔から言われてきた決まり文句である。


第二の理由は、こちらはあまり言われていないことだが、個人的にはより重要であると思う。それは、教育目的構想のフェアネスである。つまり、「○○の育成は英語科の仕事ではない、他の教科でやればよい」という言明は、教科横断的な価値を他教科に恣意的に肩代わりさせているだけであり、アンフェアだということである。事実、たとえば「そんなことを英語科で教える必要はない。それでは社会科だ」と言う英語教育者が、社会科を含めた教科全体の教育目的を構想していることはまずない。つまり、この手の人達は単に英語科の守備範囲を恣意的に決めた上で、残余の部分を他教科がどう担っていくかは丸投げしているだけなのである。