こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

原稿の墓場。超長文。小学校英語論争


みんなお待ちかね、原稿の墓場シリーズ!!!

今回は某書を執筆していて章を丸ごと削りました。

暫定で墓場にはいってますけど、受け入れてくれる媒体を絶賛募集中です。でも、まあ、所属先の紀要が無難かな。文体が学術さに欠けるのにはちょっと不安があるけれど。


2021-01-14 追記 こちらの記事を論文にしました。→ http://hdl.handle.net/10236/00029131 より構造的に、より読みやすく、そして正確に書いてあるつもりです(英語ですが)。


第NNN章 導入の是非――小学校英語論争

そもそも小学校に英語を導入することは果たしてほんとうに効果があるのか。 大衆的にも注目度の高い問いであるが、前章まではこれまでの経緯を中心にしていたこともあり、意図的に避けてきた。 いよいよ本章と次章で本格的に扱うことにする。

本章では、とくに論争に焦点をあてる。 小学校英語の効果と一口に言っても、賛成派は一枚岩ではなく、多様な観点からその意義を主張してきた。しがたって、賛成派の各主張を丁寧に読み解きながら効果を考える必要がある。 そのうえで、賛成論と対をなす反対論にも目配りが必要である。 論争の検討から始めるのは、以上の理由である。

第1節 小学校英語論争の分析

論争の中身を検討する前に、分析方法について説明しておきたい。

論争全体像の理解

基本方針は、賛成論・反対論の包括的な検討である。 そのため、各論点をできるだけ取りこぼしがないように拾っていく。 たとえ一見荒唐無稽な論点であっても安易に切り捨てず、論争の一つのピースとして拾っていく。

分析方法はごくシンプルで、「たくさん読んできれいに整理する」である。 関係文献(論文・書籍から新聞・雑誌、はてはインターネット記事に至るまで)を渉猟し、小学校英語を推進する主張および反対する主張をピックアップする。その上で、同様の主張をまとめて論点化し、それぞれを全体の構図に位置づけるという作業である。

関係文献はほぼ無限にあるので包括的検討など無理ではないかと思えるかもしれない。ただ、骨が折れることは毎違いないものの、不可能ではない。 小学校英語の是非について論じた記事を何でもよいので思い出してほしい。 既にどこかで聞いたことのある主張の「再演」だったのではないだろうか。 実際、筆者の分析でも、ある程度の量をカバーし終えた後に新規な主張に出会うことはほぼまったくなかった。

この点は、小学校英語論争の特徴の一つでもある。 賛成・反対双方が白熱した舌戦を繰り広げたように見えても、実は以前に他の人々がした主張のクリシェ(言い換え)に過ぎないことが多い。 ある意味で、みな自分の意見を言いたいという思いが先行し、今までになされた論争の把握が不十分とも言える。

論争の構造への注目

以下の分析では、主張者よりも主張内容に注目する。 つまり、論争の構造の把握を最優先し、論争におけるキーパーソンの発言を追うわけではない(そもそもキーパーソンがいたかどうかも定かではない)。 要するに、何が主張されたかに注目し、誰が主張したかは問わないということである。

論争・論争史の分析としては少し異質かもしれないが、それには次のような理由がある。 第一に、論争に参加するメンバーが非常に多いため、主張者に焦点化した分析では収集がつかなくなるためである。 第二に、主張のほとんどが(失礼ながら)あまり深いものではないため、そもそも属人的な分析を行う必要性がないためである。

たしかに、主張内容のみへの注目は一見すると人間味に欠け、「分析のための分析」に感じるかもしれないが、 議論を包括的に見通すことができ、だからこそ、争点の空白地帯を特定することができるという利点がある。 論争の構造を把握することで、理論的には争点になるはずなのに、実際には議論が起きていない部分が明確化される。こうした箇所は、反対派ですら問題として取り上げない部分であり、だからこそ議論の盲点として重要である。

第2節 賛成論

NNN章で論じたとおり、小学校英語は論争として参加しやすいテーマであり、その分、大きな盛り上がりを見せてきた。 教育行政や英語教育の関係者だけでなく、英語教育を専門としない知識人や政治家が発言することも珍しくないし、ニュース番組などや新聞記事で取り上げられることも多い。はては、一般人が読者投稿欄やインターネットなどで意見を戦わせることさえある。

多種多様な意見を目の当たりにすると、その膨大な量に圧倒され、きわめて複雑な論争のように感じてしまうことは無理もないが、実際には、論点が途方もないほど拡散しているわけではない。 人々が「ここぞ」とばかりに披瀝した持論は、ほとんどの場合、誰かがすでに言ったことの繰り返しである。 言った本人にとっては残念な話だが、論争を包括的に理解したい読者にはむしろ朗報である。 同工異曲に思える主張は思い切って一括りにし、「論争の見取り図」を頭に描けば、今後どんな主張を耳にしても、その主張にどのような前提があり、どのような問題点がああるかすぐにわかるようになるだろう。

なかでも、賛成論は比較的容易に理解できる。 なぜなら、小学校英語の目標は大別して次の4つであり、それらを軸に整理可能だからである。 図1は、NNN章で用いたものの再掲(一部修正)である。 小学校英語において教育目標とされてきたものを「英語科固有の内容 vs. 他教科横断的な内容」という横軸と「知識重視 vs. 情意面重視」という縦軸をもとに整理している。


図1 小学校英語の4つの目的

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小学校英語賛成論とは、要するに、「[英語スキル OR 英語学習態度 OR 異文化理解 OR 会話への積極性]を育成するために、小学校英語を導入すべきである」という主張である。

この「導入すべし」という「べき論」(規範的言明)は、複数の論拠で構成される。 これらの論拠は、「である論」(記述的言明)の形をとることが多い。 「である論」は事実に対する言明であり、価値判断をめぐる言明である「べき論」に比ると検証がしやすい。データがあれば決着がつきやすいからである。

「英語スキルを育成するために小学校英語を導入すべきである」(以下、賛①と表記する)という「べき論」を例に説明しよう。 この主張は、図2のように、複数の「である論」に解きほぐすことができる。


図2 賛成論1 英語力を育成すべし

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図式化の上で、「診断→処方箋→効能」という医療のアナロジーを利用している。 つまり、現状に対する何らかの危機意識(=病理の診断)があるからこそ、その問題を是正するために小学校英語という「処方箋」が提案されているわけである。そして、処方箋は、当初の問題を改善するという「効能」を発揮しなければならない。 また、診断=現状認識にも、効能=期待される効果にも何らかの証拠を伴うのが通常である。

このように構造化した場合、賛成論は大別して6パタンに整理できる。 たった6つだけと聞くと乱暴に感じるかもしれないが、実際に以下の6パタン以外は見つからない。この理由は、賛成派は提案を出す側であり、ある程度意見が共有されているためだろう。

賛①「英語力を育成すべし」

以下、順番に説明する。 なお、一般の読者にとって馴染みがない主張については実例を含めて詳述するが、どこかで聞いたことがあるような容易に理解可能な主張については紙幅の都合上表面的な記述に留める。

前述の図2を再度見てほしい。 第1のパタンは、国際化・グローバル化が進んでおり、英語力の必要性が高まっているという現状認識を元に、だから、早くから英語を学んで英語を身につけるべきだという主張である。 小学校英語論で最も一般的な主張であり、英語教育に詳しくない人でも一度は耳にしたことがあると思われる。

このように人口に膾炙した小学校英語論だが、それゆえに意識されにくい点がある。 それは、この「診断」の背後に、ナショナリスティックな前提がある点である。 上記の主張は、日本人は一般的に英語ができず、それではグローバル化に対応できないという現状認識があってはじめて意味を成すのである。 逆に、もし国民の多くが英語に堪能であればこのような提案をする必要がないし、また、一部の英語使用者だけでもグローバル化へ対応可能であればやはりこの主張は無意味である。 要するに、「日本人は英語ができない」ことが何らかの国益に反するというナショナリスティックな危機意識が根底にあるのである。

賛②・賛③「国際化に対応すべく、異文化理解・会話への積極性を育成すべし」

第 2 および第 3 のパタンは、グローバル化が進んでいるという現状認識から、国際理解・国際交流の重要性を訴える主張である。(図3参照)。


図3 賛成論2 国際化への対応(情意面)

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賛①の場合と同様、日本人は国際コミュニケーション・異文化コミュニケーションの面で問題があり、これではグローバル化に対応できないという暗黙の前提がある。 具体的には、日本人は内向き・同質的で、異文化に対して排他的であり、こうした特徴が国際化を阻害しているという。

こうした問題は、英会話体験で解決されるという。 推進者によれば、英会話を通して異文化に触れることによって、国際理解・異文化理解が養われ(→賛②)、また、言語コミュニケーションへの積極性が身につく(→賛③)。

英語教育を英語習得のためだけにあると思っている人からするとかなり奇異に聞こえる主張だろうが、日本の小学校英語はもともと国際理解教育の枠組みから進展してきた経緯がある点を思い出したい。 ついでに言えば、国際理解という目標は中学高校の学習指導要領(英語)にも明記されており、日本の学校英語教育の文脈ではそれほど珍しい主張ではない。

賛④「会話への積極性を育成すべし」

第4は、これまでの賛①・賛②・賛③に比べ、かなり異質である。(図4)


図4 賛成論4 会話への積極性を育成すべし f:id:TerasawaT:20191012224208j:plain


現代の子ども(や日本人)に、母語でのコミュニケーションに問題を抱えた人が増加している。したがって、英会話活動を通して、会話への積極性を育成すべきだという主張である。

英語教育関係者ではない人には荒唐無稽に聞こえるだろうが、NNN章で見たとおり、『小学校学習指導要領解説 外国語活動編』 (2008年8月発行)にも明記されており、「公式見解」としての性格が強いものである。 『解説』では、現代の子どもは会話での問題があるので「コミュニケーションを図ろうとする態度の育成が必要」だと抽象的に述べるのみだったが、もっと具体的かつストレートに説明しているものを2点紹介しよう。

ひとつが、2000年代半ば(外国語活動必修化を審議していた頃)、文科省の教科調査官を務めていた菅正隆へのインタビューである(『総合教育技術』2009年5月号)。

記事のタイトル→「コミュニケーション能力の欠如」による、学校での暴力事件の増加が、「小学校外国語活動」の背景にある

1980年代後半からは学校での暴力事件が増加し、いじめも増えてきていました。その大きな理由としてコミュニケーション能力の欠如があげられるのです。言葉を介して他者とコミュニケーションをとる能力が欠如しているから暴力に訴える、あるいは隠れていじめをする。その背後には、子どもたちの遊びがコミュニケーションの必要のないテレビゲームとなり、少子化が進んで異年齢の子どもとの交流もなくなってきたこと等が考えられます。そのため、他者と関わる機会が少なく、他者との距離感がとれないという課題が現れてきました。(中略)それらの課題を解決するためにも、小学校から英語活動が導入されることになりました。

もうひとり、やはり教科調査官の主張を紹介しよう。 直山木綿子による2006年の論考である。 なお、 出版当時の直山の肩書は京都市指導主事である。 (「小学校英語の必要性の主張のあとに必要なこと」大津由紀雄編 2006 『日本の英語教育に必要なこと』(pp. 229-230)慶應義塾大学出版会)。

私たちの生活を振り返ってみると、ますます言葉がなくても不便なく生活できる場面が増えてきました。コンビニエンスストアに行けば、何も言わずに商品をレジに差し出せば、買うことができます。電車に乗るには、言葉を使わずとも券売機で目的地までの切符を買うこともできます。このように人と言葉でかかわらなくても、生活ができる場面が増えてきています。子どもたちの生活を見ていても、うまく自分の思いが言葉で表せない場面が教室で多く見受けられます。このように、人と言葉でかかわることがだんだん少なくなるということは、生きていく力が弱くなっていくことだと考えます。(中略)そこで、子どもたちにあえて言葉で人とかかわる楽しさを体験させることが大切になってきます。

いずれも、英会話活動を通じて、コミュニケーションへの肯定的態度、とりわけ会話への積極性が育まれるという主張で、一見すると、心理カウンセリングのアサーション・トレーニングに類似している。

賛⑤ 英語学習への肯定的態度の育成

第 5は、英語学習への肯定的な態度の育成を強調するタイプである (図5)。


図5 賛成論5 英語学習への肯定的態度 f:id:TerasawaT:20191012224213j:plain


要するに、「英語に慣れ親しむため」や「英語が好きになるため」など、早くから始めることで英語学習への抵抗感を軽減すべきだとする主張である。

図に示されている通り、この主張には診断に当たる部分がない。 つまり、現状に対する何らかの危機意識をベースにしているわけではない。 なぜその態度が重要かは述べずに、その育成を主張しているわけで、「必要だから必要なんだ」と言っているのと同義である。その意味で実は稚拙な主張だが、この点はあまり認識されていないようである。

英語に慣れ親しむことが必要な理由は、常識的に考えれば、「英語学習に役立つから」しかあり得ないだろう。 この理由は、総合学習における英語活動や外国語活動の文脈では、実は相応の不協和を引き起こしている。 つまり、「慣れ親しむ」論が英語スキルの育成を前提とした目的である以上、英語活動等の趣旨に反しかねないのである。

この不協和を言語化している論者は、筆者の知る限り、皆無である。 曖昧に濁したほうが賢明だという判断があるからとも思うが、教育目的を構想するうえでは、きちんと言語化したうえで議論するべき点だろう。

賛⑥ 機会均等のために導入すべし

第 6 は、賛①~賛⑤とはかなり異質であり、特定の能力・態度の育成を目指す主張ではなく、英語教育の機会均等を訴えた主張である(図6)


図6 賛成論5 機会均等のために導入すべし

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英語を学ぶことができる児童とそうでない児童がいるという状況を不公平と捉え、この格差を是正するために、小学校に英語を導入すべきだと提案する立場である。

ただし、この主張の効能である平等状態が具体的にどういう状態を意味するのか明言されることはほぼない。 普通の格差論議では、機会均等が達成された暁にはどういった平等が実現されるのか、具体的に論じるのが普通である。 たとえば、家庭の経済力に起因する進学格差を緩和するため、給付型奨学金が提案されているが、この政策がもたらす平等とは、低所得世帯の子どもの進学率が(少なくとも平均並みに)上昇することである。その有効性はともかくとして、きわめて具体的でわかりやすい平等化目標である。

一方、小学校英語における機会均等論では、この手の議論がほとんどない。 低所得世帯の英語力が上昇することが平等なのか。それとも、こうした子どもの間で異文化理解が進むことが機会均等なのか。あるいは、また別の面の平等なのか。こうしたことが議論されることはほとんどない。

機会均等のために導入を訴える論者はそれなりに多いが、この点を分析的に議論できているとは言い難い。 「隣の街では既に英語を始めていてずるい気がする」といった心情的な機会均等論がほとんどである。

反面、他国の機会均等論は単純明快である。 たとえば、「小学校英語先進国」というだけでなく英語格差(「イングリッシュ・ディバイド」とも呼ばれている)の先進国でもある韓国において、問題視されてきたのは他でもなく英語力の差である。 つまり、裕福でない子どもや農村部の子どもの英語習得の機会が、富裕層・都市部の子どもと比較しても遜色ない状態になることが達成されるべき平等である。

教育社会学に、ペアレントクラシー(親の教育観・教育投資等で子どもの教育達成が左右されること)という用語がある。 小学校英語政策について国際比較を行ったジャネット・エネヴァー[BIBLIO]によれば、多くの国で韓国のような「言語的ペアレントクラシー」が社会問題化しつつあるという。 ひるがえって、日本の英語教育をめぐる機会均等論議はまだこの水準まで行っていないようである(もっとも、これは英語格差が深刻化していないことの証左である可能性もあり、喜ぶべきことかもしれない)。

第3節 反対論「効果がない」

次に、上記の賛成論と対をなす反対論を見ていこう。

反対論を整理するうえでも医療のアナロジーが便利である。 処方箋に対する「効果がない」という批判と、「副作用が大きい」という批判に区別できるからである。 前者は、小学校英語を導入しても賛成派が言うような成果は出ないという批判で、 後者は、小学校英語が(賛成派が言及していないような)意図せざる悪影響を引き起こすという批判である。

本節では「効果がない」タイプの批判を、次節で「副作用が大きい」タイプの批判をそれぞれ検討する。

「効き目がない」

「効かない」という批判は、「診断(=現状認識)が間違っているから効かない」と「効能(=期待される成果)が間違っているから効かない」とに分けられる。 反対論の主流は、「副作用が大きい」論である。「効き目がない」論ももちろん存在するが、賛成論者の多様な主張に対し包括的に反論しているわけではなく、いくつかの「必修化論」批判に集中している。包括的に批判がなされていないということは、「反論しやすい部分だけが反論されている」ことを意味し、いわゆる「わら人形論法」( straw man argument )の典型である。これが、「論争」を不毛なものにした要因でもある。

賛成論を整理した図2~図5を見ると、診断(現状認識)は全部で4種類、効能(期待される成果)は5種類ある。ということは、理論上、反論は9種類ある。表1に、反①~反⑨として整理した。


表1 効果がない型反論、9通り

診断への疑義 効能への疑義
反① 「日本人の低い英語力が国際化への障害になっている」という認識はおかしい 反⑤ 小学校に英語を導入しても、英語力育成は期待できない
反② 「日本人は国際交流での態度に問題があり、それが国際化の障害になっている」という認識はおかしい 反⑥ 同上、国際理解・異文化理解への積極的態度の育成は期待できない
反③ 「現代の子どもにコミュニケーション上の問題がある」という認識はおかしい 反⑦ 同上、言語コミュニケーションへの積極的態度の育成は期待できない
反④ 「子どもの英語学習の機会に差がある」という認識はおかしい 反⑧ 同上、英語学習への肯定的態度の育成は期待できない
反⑨ 同上、英語力の差がなくなり、平等になることは期待できない

英語力育成は期待できるのか

このうち最大の争点が、反⑤、つまり、小学校英語によって日本人の英語力が向上するという主張をめぐる賛否である。 両者の対立を一言で要約すれば、英語の運用能力育成に大きな効果があると考える賛成派に対して、そのような効果は期待できないか、あったとしても現行の公立小学校の教育環境(授業時数やカリキュラム、教員の質・量など)では大した効果を見込めないと主張する反対派という構図である。

早期開始のメリットは、量の問題と質の問題に分解できる。早くから始めればそれだけ学習時間が長くなるから効果が上がるというのが量の観点であり、一方、早い時期のほうが何らかの発達的理由から学習効果が高いというのが質の観点である。

一般論としては両者とも重要だが、日本の小学校英語論議で前提にされるのが、ほとんどの場合、質の観点である。 それは当然である。日本の小学校教育課程では、現実的に週1-2時間程度しか授業時間を捻出できない(どんなに頑張っても3時間が限度だろう)。 微々たる学習量増加で量の利点を主張しようにも、土台無理な話である。

早期開始の質的な利点に関する推進派の主張は、大別して、 (a) 「早期から英語を始めたらペラペラになった知人の(あるいは自分の)子ども」というような逸話的なもの、 (b) 脳神経科学や発達心理学等の知見をもとにした類推、そして、 (c) 早期英語学習経験者と非経験者を比較した実証研究の成果である。

このうち、(a) は、根拠が不確かな「都市伝説」のようなものばかりで、真剣な検討に値しない (もっとも、この手の主張は、審議会でも頻繁に飛び出しており、早期英語への幻想を増幅する働きをしている点は否めないが)。 (b) は、たとえば「○○歳以降は脳の柔軟性が失われるから早くから始めたほうがよい」とか「発達心理学的に見て○○歳ごろまでが言語習得に適した時期である」という主張である。 こちらも詳細に検討する必要はあまりない。 NNN章で見たとおり、小学校英語論議において引用される脳神経科学や発達心理学はほとんどが不適切な引用だからである(原典で言ってもいないことを、さも言っているかのように引用する我田引水のオンパレードである)。

経験者・非経験者を比較した実証研究

そもそも、早期英語学習プログラムの成否は実社会の文脈で検討されるべきものであり、脳の血流量や神経伝達物質、あるいは発達段階などに抽象化する必要はない。先行プログラムや実験プログラムに効果があったかどうか実証研究に基づいて判断すべきである。

こうした問題意識に基づくのが (c) である。 1980年代から、早期英語教育プログラムの有効性を学術的に明らかにしようという機運が高まり、多くの実証研究――早期英語経験者と非経験者の比較研究――が行われた。 このうちのいくつかには確かに早期英語の有効性を示したものもあり、推進論の拠り所となった。

しかし、有効性を証明したとする実証研究には問題も多い。とりわけ、重要なのが次の二点である。

第一に、対象者選択の問題である。 調査対象の早期英語経験者が、多くの場合、私立小学校や研究開発学校に通っていた特殊な児童であり、公立小全体に一般化することは難しい。

第二に、そもそも実証研究の中には、効果に関して否定的な結果を示したものも多い。 つまり、結果はばらばらで、効果について白黒ついているわけではないのである。 心情的に推進論に共感しがちな人は、効果を実証した研究ばかりに目が行き、他方、心情的に慎重論に共感しがちな人は効果を実証できなかった研究に注目してしまう。 したがって、フェアな比較を行うために何らかの枠組みが必要になる。 NNN章では、この問題を、エビデンスベースト教育政策の枠組みを使いながら検討する。

実証研究による英語熱の冷却

なお、ここで急いで付け加えれば、実証研究の結果を恣意的に引用する「不作法」は推進論者のごく一部に見られるだけである。 多くの推進者は、対象者選択の問題や否定的な研究結果に真摯に向き合ってきた。

それだけに、否定的な結果を示した研究の存在は衝撃だったはずである。 1980年代・90年代までは効果があると素朴に信じられきたがゆえに大きな高揚を見せていた早期英語熱が、実証研究の蓄積によって適切に冷まされたと言える。 実際、2010年代、研究者や教育関係者による文献には、小学校から英語を始めれば英語力が向上すると強弁する主張は姿を消すことになる。

教育条件

そうした背景から、とくに近年は、小学校から始めさえすれば英語力が身につくといった素朴な楽観論はなりを潜めている。 とりわけ研究者は、一般論として早期英語の効果を肯定しつつも、それには授業時間数、指導方法、そして指導者が理想的な環境であればという条件を付す者がほとんどである。

もっとも、この3つの要因の重要性は疑いないが、これらが整っている環境であれば小学校であれ中学高校であれ英語力は伸びるはずである。 そう考えると、正論には違いないが、実質的にはあまり意味のある主張ではないだろう。

論争の空白地帯である「診断」

英語力が向上するか否かという論点について白熱した議論が展開されたのとは対照的に、その他の論点については目立った反論・反反論が見られない。

診断、すなわち現状認識に対する批判は総じて低調である。

グローバル化

第一に、グローバル化・国際化が進んでいるという認識に疑義を差し挟む主張はほとんど見られない。 グローバル化の進行など当然ではないかと思うかもしれないが、必ずしもそうとは言い切れない(詳細はNNN章で議論する)。 にもかかわらず、反対派を含めて疑義を呈する人がほとんどいない。 小学校英語論を特徴づけるキーワードの一つが「グローバル化」ではあるが、論争の参加者は表面的な理解のままでこのキーワードを使っているだけではないかとさえ思えてくる。

日本人のメンタリティ

第二に、日本人の国際交流上の態度に問題があるという認識(賛②・賛③)は、ほとんど争点化していないが、実際には批判的な検討が必要である。 日本人は内向きである、同質的である、腹芸に頼り言葉で意見を伝えるのが苦手である等々、国際交流における問題とされるものはいずれも日本人論・日本文化論として、日本研究者や文化人類学者に厳しく批判されてきた(杉本良夫・ロス=マオア『日本人論の方程式』。ベフ=ハルミ『イデオロギーとしての日本文化論』[BIBLIO])。

そもそも上記の「問題点」のほとんどが、「みながそう言うからそう思えてくる」といった占いの類であり、詳細な調査・研究によって明らかにされたものではない。 むしろ、日本人同質論については、計量社会学者の間淵領吾による国際比較分析[BIBLIO]で反証されている。間淵の分析によれば、日本人は他国??に比べて、意見の同質性がむしろ低いのである。

機会均等

第三に、「英語学習の機会に差があるから導入すべし」という主張(賛⑥)に対しても反論はほとんど行われていない。 この主張はある種の平等化要求なので、異を唱えづらいのもわかるが、どのような学習経験を平等化すべきかについては実は難しい問題をはらむ。

極端な例だと、バイオリンの学習経験については明らかにばらつきがある。しかも、裕福な家庭の子どものほうが経験しているのも明らかである。しかしながら、このような状況を不平等だという声は聞かれない。 英語学習経験のばらつきを問題だとみなす考え方の背後には、将来的に英語力に差を生み出し、ひいては進学や就職、あるいは人生設計を左右してしまうという前提があるだろう。 ということは、これは、小学校英語は英語力育成に効果的であるという前提があって初めて成り立つ主張である。 前述のとおり、反対派ばかりでなく賛成派にも英語力育成という効能に対し懐疑的な論者は少なくないが、これは機会均等論の前提と大きく矛盾するのである。 「小学校英語は効果がない。でも、学習経験に格差があるのは問題だ」という主張は基本的に成り立たないのである。

「コミュニケーション能力が低い」

第四に、「現代の子どもはコミュニケーション能力が低い」という現状認識(賛④)も、実はかなり怪しい代物であるが、ほとんど誰も問題にせず、争点とはならなかった。

この主張は、典型的な若者言説(「最近の若者は…」といった愚痴)である。 ただし、主張が行われた時代状況(主に2000年代)を加味して理解する必要があるので、少々脱線するが当時の社会状況について説明する。

90年代後半から2000年代にかけて子どもや若者のコミュニケーションのあり方が大きな社会問題になった。 「(キレる)十七歳」が2000年の流行語大賞にノミネートされたように、対話なしでいきなり暴力に訴える子どものイメージが形成された。 この頃に一般化した「引きこもり」や「ニート」という言葉にも、コミュニケーションに問題を抱えた人たちというレッテルが貼られている。

その一方で、社会や仕事の流動化・高度化に伴い、若者に求められる能力は、抽象的でしかも複雑になった。 その代表格が「コミュニケーション能力」である。 この状況を教育社会学者の本田由紀は、(従来のメリトクラシー[=能力主義]の徹底化という意味で)「ハイパーメリトクラシー」と呼んでいる[BIBLIO]。

要するに、伝統的な若者言説、そして、大人にとって理解不可能な事件や社会現象、さらには、社会の流動化・高度化に伴うハイパーメリトクラシーによって、若者や子どものコミュニケーションのあり方に注目が集まったのが1990年代以降だったと言える。 このような価値観が充満する空間では、以前であれば「おとなしい子」や「ちょっと変わった子」という評価で済んでいた子どもが「コミュニケーションに課題を抱えた子」と見なされるようになる。

しかし、問題は、子どものコミュニケーション能力が低下したという調査結果は一切存在しない点である。 つまり、小学校英語推進論には、若者言説を真に受けた根拠不確かな主張が生産され、大した反論も受けずに流通し続けているということである(しかも『学習指導要領解説』にまで記載された)。

効能をめぐる論争

反⑤「英語力育成」以外の効能について、やはり反対論は低調である。

まず、反⑥と反⑦について。 小学校英語を導入すれば子どもの国際性・異文化理解や会話への積極性が向上するという主張は、あくまで机上の推論である。 一方で、たとえわずかであってもこうした体験は決定的に効果的である気もするが、他方で、週に1-2時間程度の英語学習経験では大して影響がない気もする。

要するに、実証データが決定的に不足しているが、この点について反対派からの指摘はほとんどない。 日本の小学校英語の出自は国際理解教育であり、この目的論は常に重要な位置を占めていたわけで、もう少し争点になってもよかったのではないかと思う。

反⑧の英語学習への肯定的態度育成については、一応、争点にはなっている。 代表的な反対論が、早くから始めると、英語に慣れ親しむどころか、むしろ嫌いな子どもが増えるというものである。 もっとも、小学校で英語をやれば即英語嫌いが増えるという話ではなく、教育条件の未整備と相まって問題が生じるという理屈である。

この点は賛成派にも共有されている。実際、小学校で英語を始めれば無条件で英語好きが増えるなどという過度な楽観論はほとんど見られない。 もっとも、楽しく充実した授業が例外なく毎日行われている理想的な条件であるならば、小学校であろうが中学・高校であろうが、英語嫌いが増えるはずもなく、このような理想的な条件を前提にした議論にはあまり実りがない。 むしろ、現実的な条件を出発点にして、そうした条件でも英語への肯定的態度は育まれるのか、あるいは英語嫌いを増やしてしまうのかを論じるのが生産的だろう。 しかしながら、このような論争は筆者の知る限り、なされている形跡はない。

まとめると、反⑥・反⑦、そして反⑧も、効果の有無について見通しが異なることに起因した争点である。 つまり、「英語力育成を優先するか、国際理解育成を優先するか」といった価値観の対立ではない。 その点で、実証的な解決を見やすい論点であるが、残念ながら、実証研究は圧倒的に不足している。 それが災いして、賛成派は観念的な主張に終止し、反対論者も争点としないため深まらない。 なお、この「効果をめぐる問い」の検討のあり方については、NNN章で検討する。

「効果がない型反対論」のまとめ

以上見たとおり、推進派が掲げる主張のうち、英語力育成および英語学習への態度の育成を除き、多くの主張に反論がなされてこなかった。 上記で見たとおり、推進派の認識には根拠が不確かなものも多かったにもかかわらず、そこに批判が集まらなかったことは奇妙でもあり、そして建設的な論争のうえでは不幸なことでもあった。

こうした議論の偏りは、論争参加者の関心がいかに「英語力育成のための小学校英語」に集中しているかを物語っていると言えよう。 文科省は、1990年代後半から2010年代まで一貫して、総合学習や外国語活動の目標は英語習得ではないと強調してきた。 しかし、その訴えも虚しく、英語習得が可能かどうかという論点に回収されがちだったのである。

そして、スキル育成論の影にかくれて、「日本人の国際感覚を向上させるため」とか「子どものコミュニケーション能力低下を解決するため」という根拠も効能も不確かな主張が、反論の洗礼も受けずにそのまま流通し、ひいては文科省の公式見解にまで成長していったと言える。

第4節 反対論「副作用が大きい」型

次に、「副作用が大きい」型、つまり小学校英語導入はむしろ有害な面が多いという反対論を見ていく。 多種多様な観点から小学校英語のリスクが主張されており、システマティックな分析が難しいので、各主張を順番に議論していく方式をとる。

まず、表2に反対論の全体像を示す(害①~害⑩)。


表2「副作用が大きい」型の反対論

主張
英語力・英語学習へ悪影響 害① 英語指導の 訓練を受けていない小学校教員が指導することで、間違った英語の発音を身につける
害② 同上、英語嫌いが増える
認知能力へ悪影響 害③ 母語が混乱する
害④ 国語の時間が減り、国語力が低下する
害⑤ 学力が全般的に低下する
英語重視の弊害 害⑥ 英語だけを特別視し、言語は平等であると考えなくなる
害⑦. 日本人としてのアイデンティティを喪失する
教員の負担 害⑧ 教員の負担が増える
子どもの負担 害⑨. 英語学習は子どもにとって負担になる
害⑩. 中学入試に英語が課されることになると、受験勉強の負担が増える

害①・害② 英語力・英語学習への悪影響

小学校への英語の導入は様々な観点から批判されてきたが、その代表選手のひとつが、教育環境が整っていない小学校で教え始めるのは、むしろ英語力・英語学習に害があるのではないかという批判である(害①・害②)。

既に見たとおり、日本では基本的に、既存の小学校教員に英語指導を新たに担当させるという形態で導入が進められてきており、こうした状況への懸念である。

そうした懸念は、 第一に、小学校教員の英語力、第二に英語指導能力(外国語教授法や英語学・音声学等の知識)に向けられている。 とりわけ、子どもたちに間違った発音や文法を教えかねないのではという懸念の声は大きい。

反対論に対する応答

反対論者の主張に対する賛成側の反論は二通りある。 1つ目は、小学校教員に英語指導経験が不足していたとしても、初歩の学習では大きな問題にならない、あるいは、外部から指導者を確保してくればよいという主張――要するに懸念は杞憂だという楽観論である。 2つ目の反論は、小学校教員の英語指導力をことさらあげつらうのは、小学校英語の目指すものを理解しそこなっているというものである。

第二の反論はもう少し説明すべきだろう。 日本の小学校英語は、スキル主義の伝統的な英語教育と一線を画す形で発展したこともあり、推進者には、英語力育成の側面よりも国際理解やコミュニケーションへの態度など情意面に大きな優先順位をつける論者が多かったことは前章までで見てきたとおりである。 この手の論者からすれば、小学校教員の英語力・英語指導力に対する非難は、あまりにもスキル主義的であり、旧来的な英語教育観に偏りすぎているということになる。

この種の「新しい小学校英語」の主唱者の一人である松川禮子は、英語ができる教師が教えるべきであるという主張を「正論」と認めつつも、そうした「正論」を超えて、英語が必ずしも得意ではない「普通の日本人」としての学級担任にこそ、豊かな英語活動を創っていく可能性があるのではないかと反論する。

筆者[=松川]はこの「総合的な学習の時間」という新しい器に、「英語活動」という新しい教育内容を盛り込む上で、小学校の普通の先生の果たす役割は重要だと考えています。 <改行>
英語に限らず教師の果たすべき機能はいろいろであり、[正しい英語を示すという]モデル提示機能はそのひとつに過ぎません。モデル提示機能にしても先生は英語そのもののモデルではなくて、むしろ「外国語をう日本人」というロールモデルを果たすべきだと思うのです。子どもの興味にそって英語を使う場をどう設定するかというマネジメント機能や子どもの反応を捉えて適切に反応する反応・評価機能に関しては、小学校の先生はALTや英語専科の日本人教師よりも優れていると思われます。さらに、全教科を教えているということを生かした授業設計の能力は、…多彩な英語のカリキュラムを生み出すもとになっています。
(松川 2004 大津本 p.36-7.[BIBLIO])

小学校英語は、スキル主義の伝統的な英語教育ではなく、情意面を重視した「新しい小学校英語」なのだから、英語指導経験の不足は大きな問題にはならない。そもそも小学校教員には英語指導経験の不足を補ってあまりある豊かな資質があるという主張である。

2つの反反論に関する考察

小学校教員には英語指導者としての経験が不足しているという点は、賛成派・反対派双方に共通した現状認識である。 したがって、争点は、 この現状は大いに問題があると考える反対派と、 問題であることは事実だが外部の人材等で対応可能だとする推進派その1、そして、 そもそも小学校教員の英語指導経験を問題視するのは論点がずれているとする推進派その2 という三つ巴の論争である。 同じ推進派であっても小学校英語に期待するものによって、反応が異なるわけである。

推進派その1の応答――人材確保で対応すべきだ――は、一般論としてであれば文句のつけようのない主張だが、重要なのはその実現可能性である。 つまり、どのような方策を使えば小学校教員の指導経験不足がカバーできるのか、そして、それはどれだけ実現の見込みがあるのかである。 しかし、こうした点についてほとんど議論はなされなかった(情報やデータの不足により、議論したくてもできなかったというのが実情だろう)。 カバーできると述べた論者も、外部人材確保に関する財政試算や成功事例を紹介することはほとんどなかったため、観念的な議論に終始せざるを得なかった。

なお、近年の状況は、この反論があまりに楽観的だったことを証明したように思える。 結局、外部の人材を教壇に立たせる解決策には法制度上の壁が幾重にも立ちふさがっていたため、結局、そのような「難事業」は回避され、抜本的な人材確保は困難になった。また、英語指導経験が豊富な有資格者を採用するための財政措置もなされなかった。要するに、絵に描いた餅だったわけである。

推進派その2の応答――小学校教員の指導力を評価すべきだ――は、少なくとも2000年代頃までは説得力のある主張だったと考えられる。 もし仮に政府が「新しい小学校英語」を採用するのであれば(実際、2013年に教科化が既定路線になる前までは、相応の現実味があった)、小学校教員の指導経験不足をむやみにあげつらう主張は批判されて然るべきだっただろう。

しかしながら、その後、とりわけ2010年代に、政府が「新しい小学校英語」からスキル主義に明確に舵を切ったことはNNN章で見たとおりである。 この反論は、90年代から2000年代には相応の一貫性・説得力を備えていたが、2010年代後半にはもはや時代遅れになった感がある。実際、2010年代の教育界・学界は、小学校教員の英語力向上・英語指導力向上が急務だとする主張で溢れかえることになる。

害③・害④・害⑤ 日本語力や学力など認知能力に悪影響がある

反対論の中でも最も有名なものが、日本語力低下論である。 この主張は、文字通りあらゆる媒体で目にする。 インターネットの匿名掲示板や情報番組のコメンテーターの発言だけでなく、新聞の社説や識者(作家や学者)の論考まで非常に多岐にわたる。 なかでも、文句なくナンバーワンの影響力だったのが、 2006 年 9 月の伊吹文明文部科学大臣(当時)による「美しい日本語が大事、必修化の必要なし」という発言である。 同じ年にベストセラーになった藤原正彦著『国家の品格』でも、国語重視論の観点から小学校英語が辛辣に批判されていたが、これも偶然ではない。 2000年代は、「日本語がだめになる」論が溢れかえっていた時期だったのである。

もっとも、この手の主張は近年に限ったものではなく、小学校英語が議論され始めるはるか以前から、早期教育を批判する文脈で数多くなされている。 日本語が大人の水準に発達していない子どもに別の言語を習わせるという光景は、ある種の人々の神経を逆撫でするものだったのだろう。

なお、日本語力低下論には次の区別が必要である。

ひとつは害③で、早期に外国語に接触することによって母語が混乱したり、どちらの言語も中途半端になる(「セミリンガル」などと呼ばれる)という主張である。 もう一つが害④で、小学校に英語が導入されると、国語の授業時数が減り、国語力が低下するという主張である。

後者は教育課程内での授業時数のやりくりに関する懸念である。 それに対し、前者は言語習得に伴う認知発達面への悪影響を問題にしており、小学校英語だけでなくあらゆる早期第二言語学習・年少バイリンガリズム(2つ以上の言語を同時に習得すること)へも矛先が向かう主張である。

結論から言えば、母語が混乱するという主張は、研究者、とくに言語学者・心理学者の間でほぼ否定し尽くされているし、セミリンガルなどとまことしやかに論じられる現象にも実は根拠がない。要するに、都市伝説の一種である。 たしかに、日本語という母語の軸ができる前に別の言語に接触するのは一見不安だが、そもそも「母語の軸」なる考え方が第二言語習得の実態に合わないのである(詳細は、バトラー後藤裕子『英語学習は早いほど良いのか』[BIBLIO]を参照)。

この点で、母語が混乱するという批判は明らかに悪手である。 悪手だからこそ反論しやすい論点であり、賛成派はこぞって「反撃」する。 実例をひとつひとつ紹介することは避けるが、「母語が混乱するはずがない」「バイリンガルの言語能力が中途半端などというのは著しい偏見」などといった反論が多数なされてきた。

同時に、筋の悪い批判であるがゆえ、反対派の専門家からの評判も必ずしも良くない。 反対派の代表的人物である言語学者大津由紀雄も、自身の主張が「日本語がダメになる」のような素朴な主張に回収されがちであることに不満を吐露している。

小学校英語を行うよりも、まずは言語教育をきちんとすべきだという提言もさまざまなところで述べたり、書いたりしています。これも、時として、《英語などやると母語である日本語がだめになる》という主張にすりかえられてしまう。子どもたちの心の奥底に根ざした母語は外国語を週に一時間や二時間やった程度のことでぐらついてしまうほど柔なものではありません。
大津由紀雄 (2006e)「公立小学校における英語教育―議論の現状と今後の課題」(大津由紀雄編). 『日本の英語教育に必要なこと―小学校英語と英語教育政策』 東京:慶応大学出版会)[BIBLIO]

大津の最後の指摘も重要である。 もし反対派の多くが言うように週に1・2時間程度の英語学習では英語が身につかないならば、国語力にもおそらく影響は出ないはずである。 つまり、英語は身につかないという主張と国語がダメになるという主張は両立し得ない――とはいえ、両者を同時に述べる人はままいるのだが。

もっとも、害④の「英語が導入される → 国語の授業時数が減る → 国語力が低下する」という理屈にはこうした矛盾はない。 実際、英語と引き換えに国語の授業時数が減ることへの懸念はしばしば聞かれた。 しかしながら、実際にこのような事態は生じなかった。2011年の外国語活動の必修化でも、2020年の教科化でも、授業時数減の憂き目に遭ったのは総合学習だったからである。 そもそも、政府(官邸・文科省)の英語教育政策は、昔から、日本人の欧米化などでは決してなく、日本人としてのアイデンティティを堅持しつつグローバル社会で戦える「強い日本人」の創出をしようとしてきた(久保田竜子『グローバル化社会と言語教育』参照)。 したがって、そう簡単に国語の時間を減らすとは考えにくい。

害⑥・害⑦ 英語への特別視を助長

害⑥「言語は平等であると考えなくなる」と害⑦「日本人としてのアイデンティティを喪失する」は、いずれも児童が英語を特別視してしまうことへの懸念であるが、拠って立つ前提はかなり異なる。

前者は文化相対主義的な観点からの懸念である。 曰く、本来、あらゆる言語・あらゆる文化は平等であるはずなのに、早期から英語に接すると英語だけが特別な言語であるという信念が刷り込まれる、と。

一方、後者は、英語や英米文化の特別視によって、日本文化のコアである日本語を軽視するようになったり、日本人としてのアイデンティティに迷いを感じてしまうという批判である。要するに、日本文化ナショナリズムである。

以上のように、一見似た⑥と⑦は前提がまったく異なる。 後者の日本語・日本文化ナショナリズム型の主張は、要するに、日本国民の教育である以上、日本語・日本文化をまずは優先せよ(英語・英米文化を特別視すべきではない)と暗に述べている点で、文化・言語に対する相対主義的な見方をとる前者とは矛盾すらしている。

反論

英語への特別視が助長されるという批判はかなり観念的であるが(実際、実証的根拠はほぼ述べられない)、それに対する応答も観念的である。

反論の第一のタイプが、特別視につながるなどという懸念は杞憂であるとか、適切な指導があれば問題は生じないという、要するに楽観論である。

その主張はたとえば次のようなものである。 異文化理解という名目でALTの出身国(多くは米英加豪NZ)の文化だけを紹介したり、日本語使用を理不尽な形で禁止したりすれば、たしかに英語・英米文化を特別視させかねない。しかし、そうした点を注意し、真の意味での異文化理解・他者理解をカリキュラムの核に据えれば問題は生じない。

一般論としては異論を挟む余地のない正論だが、問題はその特別視が指導上の工夫程度のことで乗り越えられるのかどうかという点である。 英語を重視する風潮は日本社会の社会構造に深く埋め込まれているわけで、対症療法的な工夫で克服できるものかは不明である。

一方、「英語の特別視につながるから小学校で英語を始めてはいけないと言うなら、なぜ中学校はよいのか」という反論もある。 開き直りめいた反論だが、実はなかなか鋭い指摘である。 なるほど、中学校の「外国語」はほぼ100%英語で、高校でも第二外国語を開講する学校はほんのわずかである。そして、大学におけ最も重要な外国語は間違いなく英語である。こうした社会状況で、なぜ中学生では英語の特別視は助長されないのか、なぜ小学生だけが危険なのか。

矛盾のない理屈を構築するためには、中学生は小学生と異なり、英語を特別視しないだけの精神的耐性が育っているといった「補助理論」を主張しなければならないが、これはかなり苦しい主張である。 精神的転換点が12-13歳前後にあるとする知見は発達心理学をはじめとした発達科学では何ら示されていないからである。

以上見てきたとおり、特別視を懸念する論者もそれに反論する論者も、理論的・実証的根拠を提示しておらず、観念的な論争に終止している。 いわば、素朴な悲観論に対して素朴な楽観論で応じるという構図である。 こうした水掛け論から脱し、建設的な議論につなげるためには、何らかの実証データが必要である。「英語への特別視」をどう測定するかは難しい問題であるとはいえ、心理測定の知見を援用すれば決して困難ではないように思われる。 しかしながら、こうした実証データが整備されないまま、論者個々の信念をぶつけ合う水掛け論に終止しした。結局、2010年代になるとこの論点はあまり論じられなくなってしまった感がある。

害⑧ 教員への悪影響

教員への悪影響に関しては、ほとんどが教員の負担に関するもの(害⑧)である。

この点をストレートに批判しているのが、2017年9月14日に全日本教職員組合が出した緊急要求である。

多くの小学校教員は、英語教員免許を取得しておらず、児童に十分な指導を行うことができないもとで、負担増を押し付けられることになってしまいます。《改行》
現在でも、33.5%の小学校教員が過労死ライン月 80 時間を超える時間外勤務を強いられている中、さらなる長時間過密勤務を増大させるものです。現在、多くの自治体では、改訂学習指導要領の先行実施及び完全実施にむけて準備がおこなわれています。しかし、必要な条件整備が行われていないもとで、「外国語関連の授業増加に対応するための策がないまま、現場に丸投げされていることに憤りを覚える」…などの声があがっています。

要するに、教員の就労状況がいっそう悪化しかねないという懸念である。 実は、この観点からの批判は小学校英語論争では異色である。 というのも、論争における「主戦場」は、小学校英語の導入が児童の学び・成長にどう影響するかという狭い意味での学習者論だったからである。 これまでの議論を振り返ってみれば、それは明らかだろう。

つまり、論争は児童への注目一辺倒であり、労働者としての教師という視点や教員の人権という観点は薄い。 教育基本法「改正」であれ、歴史教科書であれ、国歌国旗をめぐる問題であれ、主要な教育論争では必ず教師の立場という論点が含まれていたのとは大きな違いである。

教師の負担論は、論争における「異端児」だけあって、数は比較的少ない。 教員の働き方改革に注目が集まり始めた2010年代後半こそ、上記の全教の要求をはじめとして、存在感を増してきたが、2000年代の論争最盛期にはきわめて影が薄い論点であり、1990年代にはほとんど指摘されなかった。 たしかに教員組合系の英語教育研究組織(たとえば新英語教育研究会)は当然ながらこの論点を根強く訴えてきているものの、全体としてみれば少数派だった。

そして、少数派だからこそ、賛成派からの応答もなく、争点にはなっていない。

「教員の負担」という認識

「教員の負担」論は反対論という形での論点化こそされなかったが、常に認識はされてきた。 たとえば、教員対象の意識調査において、この点は最頻出項目である。 2000年に日本児童英語教育学会関西支部のグループ[BIBLIO]が近畿地方の市町村教育委員会を対象に行なったアンケート調査では、英語学習を既に実施している小学校において問題になっていることの筆頭として「担任には英語の教材研究や授業の準備に当てる時間的余裕がなく肉体的、精神的負担が大きい」という点があがっている(実施校283校中128校が指摘。45.2%)。

この調査に限らず、教員の負担という問題点は1990年代から現在まで常に頻繁に指摘されているが、一方で、小学校英語反対論の論拠として持ち出されるのは前述の通り近年になってからである。

これは、教員がながらく「聖職者」としての側面を期待されてきたことと無関係ではない。 「教師聖職者論」に基づけば、児童生徒の優先順位がいついかなるときも第一であり、いきおい、自身の労働者としての権利を声高に叫ぶことがはばかられた。

2010年代後半、働き方改革の流れもあり、ようやく無条件の奉職の問題性が周知されはじめ、「児童ファースト」のようなスローガンを相対化できる空気が広がりつつある。 この結果、教師の負担という反論が上げやすくなったと考えられる。

とはいえ、いまだに「権利ばかり主張して、子どもの学びを第一に考えない教師など論外である」といった主張は根強いし、そればかりか脅迫的フレーズとしてすら重宝されている。 しかし、こうした緻密さを欠いた物言いこそ論外だろう。 小学校英語はもはや、教師個人の心情論、狭い意味での指導論・教室論の領域を越えている。 教育制度・政策全般という視覚から考えていかなければならない以上、労働者としての教師の権利についても議論全体の一画にきちんと位置づける必要があるはずである。

害⑨ 子どもの負担

小学校英語は、教師だけでなく、子どもにも負担であるという批判もある。 大別して、英語学習そのものが子どもにとって負担であるという一般的な主張と、私立中学校の入試科目に英語が取り入れられて受験競争が激化するという中学受験を前提にした批判に分けられる。

総合学習や外国語活動の良い意味でのんびりした英語教育を知っている私たちからすると、上記の批判はいささか過剰反応という気もするが、小学校英語の具体的な導入形態が未知数だった1990年代においてはそれなりに切実な懸念だった。 実際、1990年代の中教審の審議で、英語学習の過熱が強く警戒されていたことはNNN章で見たとおりである。

中教審の判断が功を奏したのかは定かではないが、その後しばらくの間は、中学入試は大きな問題にならなかった。 ほとんどの私立中学が、基本的にそれまでの入試科目体制(国語・算数・理科・社会)を維持し続けたからである。英語による受験者選抜は特殊な入試(帰国生入試など)に限定されていた。 こうした事情もあり、2000年代の論争全盛期には影の薄い争点になっていた。

ただし、今後の状況は余談を許さない。 中学受験を扱う首都圏模試センターの集計によると、一般入試で英語を入試科目に入れる私立・国立中学は、2010年代後半に急増しているという。 同センターのブログ(2019年1月21日の記事、https://www.syutoken-mosi.co.jp/blog/entry/entry001542.php )によれば、英語入試を行う首都圏の中学校は2014年には15校だったが、2019年には125校にまで増えたという。 この状況は、教科化される2020年代以降、さらに加速し、しかも全国的に拡大する可能性が高い。 なぜなら、小学校の公式教科というお墨付きが得られるからである。

第5節 まとめ

まとめ

以上が、論争の全体像である。 非常に多数の論点が錯綜した複雑な論争には違いないが、推進派の主張(6タイプ)を中心に見ていくと、見通しが良くなることを示した。

賛成・反対の厳しい応酬が繰り広げられている論点は、思いのほか少ない点も指摘したい。 大きな争点になっているのは、(1) 小学校英語は英語力育成に効果はあるのか否か、(2) 英語学習の肯定的態度につながるのか(英語嫌いはむしろ増えないか)、(3) 現状の指導体制で英語力・英語学習への悪影響はないのか、(4) 日本語力の低下につながるのではないかの4点であり、それ以外は必ずしも十分な議論が尽くされているとは言えない。

もうひとつ指摘すべきは、意見の対立は、賛成派と反対派の間の価値観の食い違いというより、実証データの欠如、要するに情報不足に起因している場合が多い点である (むしろ、価値観の対立は、賛成派内部の対立――小学校英語は、英語習得のためか、国際理解教育のためか――のほうが深刻に思える)。 たとえば、英語力育成に効果があるかどうかという争点は、決定的なデータがあれば決着する問題である。

もちろん、関係者の間に多様な価値観があるのは間違いない。 ただし、賛成論・反対論いずれにしてもその多くが、データで雌雄を決することができる事実の言明である ――「効果がないのだからやめるべし」という主張をする反対派は、仮にその効果を完璧に実証したデータが得られたのならば、もはや反対する理由はなくなるし、逆もまた然りである。 同様のことは、英語嫌いは増えないかとか英語力にむしろ悪影響があるのではといった議論についても言える。 いずれもデータ不足が争点を生んでいる原因である。

これが意味するのは、研究者が中心となって適切なデータを用意さえすれば、論争の多くは――少なくとも形式上は――決着がつくということである。 とはいえ、やみくもにデータをとればいいというものではない。自分の立場に都合がよい形で調査を設計したり、恣意的にデータを解釈するのは厳に慎むべきで、研究者には中立的な調査設計・分析・解釈が求められる。

もっとも、社会科学(教育プログラムの効果検証はここに含まれる)において、完全に中立的な手続きでとられた「完全無欠のデータ」など存在し得ない。 したがって、そこまで高い水準を要求するのは現実的ではないが、少なくとも多くの人が納得できる手続きに基づいてデータが採られるのが望ましい。 この指針として、エビデンスベースト教育政策と呼ばれる考え方が大いに参考になる。詳細はNNN章で論じる

論争の手続き

最後に、論争の行われ方の問題点について述べたい。

本章では、小学校英語の是非をめぐる議論を便宜的に「論争」と呼んできたが、これは一般的な論争とかなり性格を異にする。 事実を明らかにする手段としての科学論争とも異なれば、自陣営の正当性を主張することにより第三者(裁判官・陪審員・審判等)を説得する法廷闘争や競技ディベートでもない。 そうではなく、自分が心情的に思い入れのある英語教育について(多少の根拠を述べながら)主張するだけの、有り体に言えば放談型の論争だったというのが筆者の評価である。

心情ベースの放談だからこそ、反対陣営から痛いところを突かれた場合、その点をディフェンスするインセンティブは少ない。 黙殺するか曖昧にぼかせば事足りる(科学論争や競技ディベートだったらこうは行かない)。 逆に、反対陣営に脇が甘い部分があれば多少的外れであっても「口撃」すれば溜飲が下がる。 この結果、叩きやすくデフォルメされたストローマン(藁で作ったカカシ)を論破するのに終止し、もっと時間をかけて丁寧に論じなければいけない論点の多くが放置されてしまった感がある。

また、この論争(あるいは対話)を実りあるものにするには、反対論に対する推進側の反論(あるいは応答)が不可欠だった。 しかし、NNN章で見たとおり、2010年代になると、そうした反論・応答はなりを潜めた。

この理由として、推進側にはそもそも反論・応答するインセンティブがないことが考えられる。 1990年代・2000年代ならば導入されるかどうかも定かでない段階であり、賛成派にも論争のテーブルにつくメリットはあった。 しかし、2010年代になると小学校英語は(理想型かはさておき)実現した。 2010年代半ば以降は教科化も既定路線化しつつあった。 行政的な後ろ盾が得られた以上、もはや声高に意義を叫んだり、反対派に反論する理由がなくなったのである。

たしかに、論争にかまけたりせず小学校英語施策を粛々と進めていくのが実務的には正道かもしれない。 しかし、論争・対話の消失は、小学校英語教育論が理論的に深化できなくなったことを意味する。議論の欠如は、後々、大いなる負の遺産になりかねない。

本章の文献

  • 瀧口優 (2001). 「『英会話』導入の背景」 『新英語教育』4 月号 pp.24-5.
  • JASTEC関西支部調査研究プロジェクトチーム (2001)「総合的な学習の時間」における英語学習に関する実態調査--近畿地区内の教育委員会を対象とした質問紙調査に基づいて」『日本児童英語教育学会研究紀要』20号、pp. 47-63

  • Enever, Janet. (2018) Policy and politics in global primary English. Oxford Applied Linguistics. Oxford University Press, Oxford, pp208. ISBN 978-0-19-420054-7

  • 間淵領吾 2002 「二次分析による日本人同質論の検証」『理論と方法』17(1)