こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

言語政策と政治理論(Language Policy 誌特集)

11月の言語教育政策オンライン読書会は、「言語政策と政治理論」がテーマだった。その関係で、以下の本を読んだ。



本書は、Language Policy 誌の2014年の特集 を単に再録しただけのものなので、同誌にアクセスを持っている人は、そちらから読んだほうがよいだろう。

以下、概要。

Introduction to the thematic issue: language policy and political theory

By Yael Peled, Peter Ives, and Thomas Ricento

省略。

Normative language policy: interface and interfences

By Yael Peled

言語学(社会言語学・応用言語学)と政治理論はの接続=学際研究のあり方について。これだけだとごくありふれた問題設定に聞こえるが、実際には(私にとっては)斬新な問題設定を行っていた。

著者は、単に両者の接点を論じるだけでなく、学際的営み自体の検討(いわば「学際研究の研究」)を展開していた。たしかに、自分も学際研究のユーザーではあるが、「学際研究の研究」についてきちんと読んだことがなく、新たな発見があった。

The complex normative foundations of language policy

By Daniel Weinstock

執筆陣のなかでおそらく最もプロの政治哲学者に近いと思われる著者による、「言語問題とリベラルデモクラシー・入門」みたいな内容。教科書的な概念整理が続く。

たとえば、国家が領域内の少数言語を保護するべきかどうかという問題。個人の選択を最大限に尊重するリベラリズムを(杓子定規に)適用すると、少数言語話者がメジャー言語に自発的に乗り換えること(いわば少数言語の自死)を肯定せざるを得ない。かといって、逆に、国家(あるいはそれに類する非市場的な権力主体)による言語振興策は、個人の選択を、少なくとも表面上は、ないがしろにしていることになる。

両者の緊張関係を解決する選択肢としては次のようなものがあげられている。すなわち

  1. リベラリズムを放棄して別の原理・理論装置(例、文化的保守主義コミュニタリアニズムヘゲモニー)を導入する
  2. 国家による介入を正当化する論理をリベラリズムの枠内で導出する

著者のWeinstockが依って立つのは後者であり、とくに「国家=集合的行動によって生じる諸問題を調整するアクター」といった理論装置を導入することで、リベラリズムと少数言語保護の両立をはかっている。

Thinking about language: what political theorists need to know about language in the real world

By Thomas Ricento

政治哲学者が言語の問題(言語権、少数言語保障、多言語主義等々)に発言してくれるのはありがたいけど、「言語集団とは何か」についてナイーブすぎるよ、私がレクチャーしてあげるよ、的な論文。 「言語はもっと複雑だよ」というのの中身は要するに言語の不可算性・動的性格・非本質主義の話で、社会言語学の基礎的な概念であるが、著者のRicentoによれば、既存の言語の政治哲学には、このように言語現象を複雑なものとして見る視点が欠けがちだという。

しかし、Ricentoは、「駄目な政治哲学」の具体例を引用をしていない。 その点で、ちょっとストローマンを叩いているような読後感である。 そもそも、政治哲学者が戦略的に本質主義をとっている可能性を排除しているし、また、「静的で可算的な言語」(素朴言語観)を実体的にとらえているわけではなくあくまで理念型あるいは思考実験の装置として使っているだけという可能性も想定していなように見える。

De-politicizing language: obstacles to political theory’s engagement with language policy.

By Peter Ives

著者のピーター・アイヴズは、アントニオ・グラムシの研究者だが(とくにグラムシ思想と言語[学]的概念との接点の研究者)、本稿にはグラムシの話は最後に少しだけ出てくるのみ。その代わりに展開しているのが、「広義の自由主義論者[リベラリストリバタリアン]の言語論って、言語観が貧弱すぎるよー」という話である。もっとも槍玉にあがっているのが、フィリップ・ヴァン・パレースLinguistic Justice for Europe and for the World (現代世界における英語の一人勝ち状況を、個人の選択の観点から擁護)である。ちなみに、ヴァン・パレースは、言語政策研究者というよりは、政治哲学者である(たとえば、ベーシックインカムの研究)。

Ivesによる批判ポイントは上述の Ricento論文 と似ていて、政治理論家が言語問題を語るとき、言語を単なる情報伝達の道具のように貶めていて、それは現実と乖離している、という批判である。この言語道具主義批判の文脈で、(なぜか)ジョン・ロックにまでさかのぼり、ロックの言語道具主義観も批判する。

私が本稿に感じる違和感も、Ricento 論文と同様、仮構(フィクション)である理論的装置に対し、「現実のディテールを見てない」みたいに論難するのはどれだけ建設的ななのかという点。

Contesting public monolingualism and diglossia: rethinking political theory and language policy for a multilingual world

By Stephen May

「単一言語主義 vs. 多言語主義」に関わる問題を政治理論の観点から検討している。 分析の視点としては、第一に、国家内における mono- or multi-lingualism の話(つまり国家語・公用語の選択)。第二に、国際的場面におけるグローバル言語およびそれ以外の言語の位置づけの話。

前者については、政治哲学者のなかには、単一言語的状況、言い換えればマイノリティ言語の抑圧状況をある種の「仕方のないもの」として、消極的ながら肯定する者(例、トマス・ポッゲ)がいるという点が問題点として指摘されている。後者についても、英語の一人勝ち状況(やはり、相対的マイノリティ言語の抑圧状況)を、肯定する政治理論家として、アバラム・デ・スワーン、フィリップ・ヴァン・パレース、ダニエル・アーチブージをあげ、批判的に論及している(ただし、デ・スワーンは政治理論家というのはちょっと違う気がするけれど)。

以上のような体裁なので、具体的な政治理論を批判するというより、政治理論家の必ずしも理論的とは言えない主張を批判するという体裁。その導出過程を批判するのが筋ではという気はする。

最後に、著者は、上述の2種類の単一言語主義(あるいは、より正確には、「支配言語に不当に優位性を与えたダイグロシア」)に対する対案として、 public multiligualism による集団的権利の擁護をあげている(ハインツ・クロスおよびウィル・キムリッカに依拠)

Democratic theory and the challenge of linguistic diversity.

By Ronald Schmidt Sr.

流し読み程度ですみません。参加型民主主義にもとづく多言語主義・言語の多様性擁護。