こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

論文が出ました:小学校英語の政策過程分析 (Linguistics and Education, 2022)

過去5年で個人的には最も自信があり、かつ、最も査読者から酷評されつづけた論文、ついに出版されました。

拙著『小学校英語のジレンマ』(2020)で展開した政策過程分析と重複しますが、『小学校英語のジレンマ』は新書だったこともあり、理論的な話は一切していません。こちらは、理論的枠組み(歴史的制度論、および、政策の窓論)に明示的に依拠しています。

以下、(アブストよりもなぜか長くなってしまった)論文の要旨です。

日本の「外国語活動」の必修化(2011年)は、グローバルトレンドから結構逸脱したものなんですが(詳細は本文参照)、そういう国際的にも特異なプログラムはなぜ生まれたのか。その検討がリサーチクエスチョンその1です。

一方で、2020年に英語が必修化になると、その特異性は後退し、グローバルトレンドに近づいていくわけですが、それはなぜかというのがリサーチクエスチョンその2です。

本論文の新規性は、「以上の問いへの答えは、文科省の公式声明的な文書(学習指導要領、同解説、中教審答申)をいくら読んでいても書いてありませんよ」と宣言し、審議過程および政府内政治を丁寧に見た点です。ここが、まさに同論文の先行研究批判のポイントです。先行研究は(とくに英語圏のそれは)、公式声明的な文書に依存する研究が非常に多く、その結果,研究者が,政府見解(=ある種のキレイゴト)の「広報官」を意図せず演じてしまうという深刻な問題があります。

議事録などを詳細に分析すると、政府が告示している「キレイな結論」は、とてもじゃないが、美化しすぎだとわかります。で、その美化されていない、ごちゃごちゃした議論を見ていってはじめて、上記のリサーチクエスチョンに答えが提示できるというのが、本論文の基調。

だからこそ、実際の文書の分析を中心に、丁寧に検討したわけですが、そこが査読者にはとても不評だったようです(とくに言語政策系の雑誌の査読者に)。ある査読者からは、「事実を列挙しているだけで分析がないし理論もない」と酷評されました。

少なく見積もっても数百万字はある議事録・審議まとめを読んだうえで、そこからたった数千語の論点を抽出しているわけですから、「分析」していないはずがありません。もっとも、自分が馴染みのない政策過程の話が数千語も書かれていればウンザリしてしまう気持ちはわからんでもないですが、「事実の列挙」と「分析(=論点の抽出)」が区別できないのであれば、査読者は辞退すべきです。

言語政策系のジャーナル(とくに英語圏のそれ)は、公共政策研究では必ずしも主流というわけではない批判的ディスコース分析や政策エスノグラフィーが多い一方で、なぜか政策過程の研究はかなり少なく、だからこそ査読者も政策過程の分析を、事実を列挙しただけと解釈したんでしょうか。

皮肉を込めて脚注に次のような文言も入れておきました。

Analysing policy processes in a certain society generally requires a much deeper understanding of its local official languages (e.g. state or provincial languages), history, institutions, and social systems than doing a case study using only published policy documents or mass media articles. For example, documents on deliberation process are often only accessible in local languages, and an in-depth understanding of a country's bureaucracy, educational administration, and political conditions cannot be obtained without a significant amount of knowledge of the history and social systems of the country. Regrettably, the ELT policies in non-English-speaking countries are sometimes studied by English-speaking scholars who only rely on literature written in English, and this academic tendency might perhaps be attributed to the paucity of policy process analysis.