こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

言語社会学ワークショップで講演(2024年9月28日@東大駒場)

9月28日15時より,東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻・本林響子さん主催<言語社会学ワークショップ>で講演します。

以下引用。


第3回 言語社会学研究ワークショップ

「ことばと社会」に関する研究は昨今急速に広がりを見せ、言語社会学・言語人類学・応用言語学等の分野を中心に様々な研究がなされています。本ワークショップではその中でも「思想」「実践」「制度」という観点から「ことばと社会」という主題について考えるとともに、若手研究者の交流の場を提供します。 今回のワークショップでは、関西学院大学社会学部准教授の寺沢拓敬先生をお迎えし、以下のご講演を予定しています。

日時: 2024年9月28日(土) 15時〜 場所: 東京大学 駒場キャンパス

想定する参加者: 主に大学院生 学部生・研究生・博士号取得後の方・教員の方

開催方法:ハイブリッド開催

プログラム:  15:00〜15:15 ご挨拶・講演者紹介 15:15〜16:00 講演

寺沢拓敬(関西学院大学社会学部准教授) 「言語政策研究と教育政策研究の狭間で英語教育政策を考える」

16:00〜16:15

ディスカッサント(本林)・質疑応答

〜 16:30 まとめとご挨拶

(講演要旨)

私は,大学院以来,日本の英語教育政策研究について研究してきた。最近では,この分野の教育にも携わっている。そのなかで,この領域の一般性と特殊性について考えることが増えた。本講演ではまさにこの点について論じたい。具体的には,英語教育政策(外国語としての英語,EFL)の研究を概説し,そのうえで,隣接領域(あるいは親領域)である言語政策研究・教育政策研究・英語教育研究との間に,どのような共通点・相違点があるのか検討する。とくに,親領域として扱われることが多い言語政策との比較を中心にする。言語政策の諸テーマと比べたとき,EFL教育政策には,たとえば次のような特徴が見いだせる。すなわち, (i) 学校教育を大前提とすること,(ii) フォーマルな政治制度を経由して政策が決まりやすいこと,(iii) グローバル言語としての強力さゆえ,他の言語の問題に比べて,ナショナリズム的影響を受けにくい一方で,グローバルな影響を受けやすいことである。時間が許せば,他の隣接領域(教育政策研究,英語教育研究,教育社会学,社会調査論)との関係も論じ,英語教育政策研究の学界における位置づけを考えたい。

テキストマイニングで書かれた論文を査読するのは難しい

テキストマイニングを分析手法に使った学術論文が増えているけれど,これの学術的評価(具体的には査読)はめちゃくちゃ難しくないですかという話です。

私の業界では,既存のソフトやサービスに突っ込んだだけで自前で細かい下処理・プログラミングを行っていないテキストマイニングが増えています。私の同業者には周知のとおりだと思います。

こういうのが査読に回ってきて,みなさんはいったいどのように評価(質の評価)をしているんでしょうか。ちょっと考えてみたら,かなりの難題だと気づいたので,以下,簡単にメモしておきます。




量的研究?

テキストマイニング論文の評価には,統計分析の伝統的な基準(統計学的仮定との適合とか)は使えません。ソフトに突っ込んだ出力結果だけなので。

質的研究?

伝統的な内容分析・質的研究のように,データをどうとったのかという文脈情報を重視して評価するというのも微妙。とくに,便宜抽出アンケートの自由記述のように,対象集団が曖昧な場合,その文字列が実際どんな水準の「実態」を反映しているのか不明。

解釈の正確性・妥当性?

その結果,消去法で,解釈の良し悪しで主に評価することになると思います。しかし,これも厄介。テキストマイニングの場合,超無難,つまり,自明過ぎる解釈はいくらでも量産できます1。したがって,解釈の正確性や説得力を基準にすると,テキストマイニングが他の手法に比べて異常に有利になってしまい,とてもアンフェアな状況に・・・。アンフェアだけでなく,私たちの「学術的によい論文」のイメージから直感的にもずれるはず。

新規性?

するとさらに消去法的に「テキストマイニングで出力された結果の解釈に新規性・発見性があること」という観点で評価されるべきなんだろうとは思います。もちろん,最低限の正確性・説得力は担保したうえでの新規性ですが。

で,この「新規性くらいしか評価基準がない」ということの最大に厄介なところは,研究の新規性・発見性は,有能な査読者でも多くは主観的にしか評価できない点。「この発見には新規性がない」という評価を,確たる根拠を持って行うのは,そのテーマに精通した一握りのひとしかできないのではないかと思う。たとえば,投稿者や編集長から「新規性がないとあなたは断言しているけど,そういうならそれ相応の根拠を出せ」というクレームが来た時,関係する先行研究を全部示せるくらいドメイン知識がある人じゃないと,なかなか「客観的に」とはいかなくなります。

そこそこきちんと準備して調査もやって書かれた論文が「この変数でこの統計手法は不適切」とか「半構造化インタビューのスクリプトが全然書かれておらず,著者の解釈をどれだけ信じてよいかわからない,説得力がない」のようなわかりやすい瑕疵でリジェクトされる一方で,自由記述をソフトに突っ込んだだけのテキストマイニングが表面的な瑕疵がないという理由で査読を通過するというのは不幸ですよね。

というわけで,査読者は,テキストマイニング論文については,新規性・発見性をコアにした「覚悟をもった」評価を行わないとアンフェアってことになると思います。

しかし,豊富なドメイン知識がないと,この「勇気」は単なる勇み足や独善的査読になりかねないので,良心的な人なら相当な覚悟がいるはず。。。

テキストマイニングが蔓延しつつある学会は,ガイドラインを真面目に検討すべき時期が来ているように思います。


  1. 今までで一番おもしろかったのが,「”準1級”と最も共起していた語は ”英検” であった」という発見(?)でした

国際英語論はメリトクラシーを乗り越えられるか

こちらの記事の続き

  1. 国際英語の既存の規範を言語差別・マイクロアグレッションと厳しく批判する論文(かどや,2023) - こにしき(言葉・日本社会・教育)
  2. 反差別英語教育論と国際英語論 - こにしき(言葉・日本社会・教育)




メリトクラシーという難題

もうひとつ評者が指摘したいのは,同論文の提言は,メリトクラシー能力主義)という難題をどう乗り越えられるのかという点である。 既存のメリトクラシー論で検討対象とされる「能力」は多岐にわたるが,本書評では,英語運用能力に焦点を絞る。英語運用能力メリトクラシーのポイントは大別して3点である。第一に,その運用能力は本人の努力の結果として獲得されたと概念化されている点である。第二言語英語話者を念頭に置くとこの理路はわかりやすいが,母語話者も無縁ではない。なぜなら,母語話者の場合も「教養ある英語」「書き言葉の英語」については意識的な学習が必要だとしばしば概念化されるからである。英語運用能力メリトクラシーのポイントの第二は,努力の結果であるからこそ,英語運用能力を持つ人を持たない人よりも優遇することは正当だという価値判断である。そして,第三に,本人の努力とは無関係な幸運に関わる要因――典型的には親の職業・所得,出身地,世代,先天的(と概念化された)な身体的特徴,そして母語――よりも,「獲得された」英語運用能力を大きく優遇すべきだとする考え方である。

以上の特徴づけは,一見,内輪英語規範に偏った基準であるが,実は,内輪英語規範から離脱する志向も大きい。 なぜなら,運用能力を優先順位の最上位におくことで,発音・文法・語彙選択の「自然さ」が相対的下位に置かれるので,母語話者が圧倒的に有利になる基準が緩和されるからである。 実際,この原理にはそうした解放志向があるので,非母語話者の英語をエンパワーメントし,内輪英語規範を厳しく批判する人々(研究者だけでなく,起業家や政治家,活動家も含む)の多くに歓迎されているだろう。 そもそもそうした論者たちこそ,ある意味で,英語能力メリトクラシーの体現者である。 なぜなら,「自分らしい」英語で世界と渡り合ってきて,また,(英語の自然さではなく)渡り合ってきたという実績が周囲から評価されてきたからこそ,「自分らしい英語を!」とプレゼンテーションできる場を与えられたと言えるからである。

ひるがえって,かどや論文には,暗示的にはメリトクラシーへの批判的態度が読み取れるものの,少なくとも明示的な検討はない。 しかしながら,評者は,メリトクラシーこそ,かどやの提言を具体化するうえで大きな障害になり,だからこそ,重要な問題を提起するものではないかと考える。 以下,詳しく説明する。

既存の英語論の隠れメリトクラシー

かどやも指摘する通り,既存のリベラルな英語論(たとえば,世界諸英語論 [World Englishes],リンガフランカ論,反ネイティブスピーカー主義)は,多様性・寛容性にダブルスタンダードを用意している。 かどやの指摘は,多様性と言いつつ内輪英語規範を密輸入していることに対する批判だが,評者は,メリトクラシーを密輸入しているという批判も可能であると考える。 つまり,発音・語法・語彙選択といった言語表現レベルの逸脱には寛容だが,英語運用能力の低さには不寛容だというダブルスタンダードである。 評者が知る限り,既存の英語論で,低い英語力を積極的にエンパワメントしようとする議論はほとんどないと思われる1

たしかに,比較として見るならば,流暢性などの運用能力のほうが,言語表現の「自然さ」よりも,基準としてより公平だろう(あくまで比較的な話だが)。 たとえば,淀みなく,かつ,クリアな筋道で英語を話すことは,英語母語話者でも困難な人が多いが,非母語話者にはこの境地に到達している人も少なくない。 こうした基準ならば,母語話者の一人勝ちはなくなる。

しかしながら,これは伝統的なルールを別のルールで置き換えただけであり,依然,序列化を行っていることに注意が必要である。 序列化とは,あるものを別のものより劣位に置く操作であり,本質的に多様性尊重の真逆である。

この序列化作業のなかで,一定以上の英語運用能力を下回る者は実質的に排除されており,かつ,その排除は正当(少なくとも仕方ないもの)と認識されている。 象徴的な事例として,国際英語論(あるいは反母語話者主義論やデコロニアルな英語教育論でもいい)に関するシンポジウムが指摘できる。 ほとんどの場合,その登壇者は,流暢な英語話者(第一言語あるいは第二言語として)である。 また,オーディエンスに英語運用能力が乏しい者がいることはおそらくほとんど想定されていない。 その証拠に同時通訳・逐次通訳が提供されることは稀である。 別の例として,グローバルビジネスにおける英語コミュニケーション言説があげられる。 しばしば「日本人なまりの英語でかまわないからとくにかく自己主張しないとグローバルビジネスでは生き抜けない」といった言説をしばしば見かけるが,この言説の前提は,訛りがあろうがなかろうが自由に自己主張できる程度には英語を習得する必要があるという含意がある。 つまり,そのレベルに達していなければグローバルコミュニケーションからは退場もやむなしという排除の論理である。

こうしたメリトクラシー規範が下支えしているのが,現在の母語話者規範から「ほどよく離脱」した英語規範である。 メリトクラシーは,以下に見る通り,マイケル・ヤングがこの語を提唱した1950年代から多岐にわたる問題点が指摘されてきた。 したがって,既存の英語規範がメリトクラシーに基づいていることに同意するならば,必然的に,既存の英語規範にも多くのメリトクラシー的問題を抱え込んでいることを自覚しなければならない。 他方,メリトクラシーは,数多の批判にもかかわらず,しぶとく生き延びてきた。 実際,私たちの社会の細部にまで浸透する非常に強力な原理であり,非常に手強い。 これは,メリトクラシーに基づく既存の英語規範も非常に手強いということを意味している。 この手強さを象徴するのが,国際英語論あるいは応用言語学におけるメリトクラシー批判の異常なまでの少なさである。 しばしば,応用言語学は,多数の概念を(教育)社会学から輸入してきているが,マイケル・ヤングから連なるメリトクラシー批判の参照は少ないと思われる。 また,流行に飛びつきがちだと揶揄されることもある応用言語学者だが (Schmenk, Breidbach, & Küster2018),米国をはじめとして世界でベストセラーになっているマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』に「飛びつく」流れはほとんどないようである。

特権剥奪論はメリトクラシーを超えられるか

かどや論文の提言はどれも英語能力メリトクラシーと基本的に対立関係にあるが,とくに鋭く対立するのが,内輪英語規範のディスエンパワメント=特権剥奪という提言であると思われる。 なぜならば,特権剥奪は,国際英語であれ内輪英語であれ,苦労して英語を習得し,その結果として地位達成を果たしたと自負する第二言語使用者の価値観と衝突し得るからである。 特権剥奪とは,形式的には国際コミュニケーションのルール変更にほかならないが,既存のルールで地位達成してきたひとにとって,特権剥奪という事後的なルール変更には抵抗があるだろう。 なかでも人一倍努力してきたと自負する人ほど,ルール変更は,自分のこれまでの努力が過小評価されたと感じてしまう。

ヤング(1959=2021)からサンデル(2021)に至るまで,既存のメリトクラシー論は,能力形成を個人の努力に還元する幻想を厳しく批判してきた。 つまり,能力が個人の努力だけで形成されるという誤信念,そして,だからこそ能力にもとづいて序列化することは努力に対する対価であり,正当なものだという誤信念である。 個人の英語能力も,恵まれた家庭環境・生育環境や出身国,出身地の学校制度,そして,遺伝子レベルの幸運(知能だけでなく,学習継続を可能にする身体的・精神的健康も含む)などによって左右されているが,そうした多岐にわたる幸運の蓄積は意識されることは少ない。 むしろ,主観的には,英語能力の達成は,自身の努力,およびいくばくかの目に見える幸運・他者からの援助(例,家族のサポート,恩師の助言,奨学金2)で形成されていると観念されている。 このような理路を内面化している人にとっては,英語力が低いために国際コミュニケーションから排除された人がいたとしても,それはその人が努力を怠ったために過ぎないと正当化される。 こうした言説状況において,特権剥奪という提案は,「努力をしなかった人」たちが「努力をした私たち」の成果を不当に横取りするかのように感じられてしまうだろう。

英語習得への努力,配慮の努力

さらに,努力の価値を過大評価する英語能力メリトクラシー言説は,英語コミュニケーションの失敗を努力不足に帰するという問題も生じさせている。 英語運用能力の不足は,単にその人が試験やビジネスで失敗すること(つまり,メリトクラシー言説の頻出キーワードである「自己責任」)だけではない。 そればかりか,国際コミュニケーションにおける対話相手の不利益も含意する。 英語力不足によってコミュニケーションが失敗すれば,それは相手にとっても不利益になる。 この場合,ある人の英語力不足は,対話を協同的に作り上げる努力の怠慢にまで拡張されるだろう。 この点でも,既存のリベラルな英語論は,英語の言語的変種には寛容だが,努力不足(に見える行動・態度)には手厳しい。

さらに厄介なのが,一見無関係なコミュニケーション・エチケットも,メリトクラシーや努力言説と根底でつながっている点である。 しばしば,国際英語の多様な表現を論じる際に,「発音や表現は母語話者基準から逸脱していてもかまわないが,聞き手にとって負荷がかからないように注意すべきだ(つまり,「聞き手に負荷のかかる逸脱は認められない」を含意)」という他者への配慮=エチケットが,内輪英語規範にかわる,新たな規範として提示されることがある。 エチケットは往々にして私たちの常識を資源にしているため,一見きわめて穏当な主張である。 しかしながら,以下で論じる通り,実際にはメリトクラシーを媒介にした不平等な構造を背後に持っており,したがって,その妥当性は自明ではない。 とりわけ国際コミュニケーション場面のように,多様な能力や価値観が介在する場面では,他者への配慮は,話者の自由意志だけに還元できない複雑な問題を抱え込んでいる。 その問題を一言で言えば,私たちは,他者が表出する「配慮」や「努力」を,まさしく配慮・努力している過程を見ているわけではなく,実はアウトプットだけを見て推測しているという点である。

一例として,ある非母語話者が,母語話者基準からするときわめて失礼な語を使って応答した場面を想像してみよう。 この単語選択が,その人の意図通りなのか,それとも英語力不足に起因するミスなのかを判別することは原理的に不可能である。 たとえば,意図通り,すなわち,「相手のことを配慮シニア粗雑なコミュニケーショ観の現れ」とも解釈できるが,同時に,「相手に最大限の敬意を払い,細心の注意で言葉を選ぼうとしていたのに,英語の知識や運用能力(たとえば,自身の発話をモニターするだけの余裕がなかった)が乏しかったために失礼な単語を選んでしまった」という同情的な解釈も可能である。 どちらが正しいかは原理的には不確定である3。 しかし,この不確定性にもかかわらず,多くの人は,通常,前者の解釈をとるだろう。 これは,意図はともかく失礼な言い方になったという事実を重く見ているからであり,また,百歩譲ってそれが能力不足に起因するにしても,エチケットに配慮できるだけの英語能力を身につけてこなかったという努力不足に帰責できるからである。

単語選択という局所的な事案だけでなく,より一般的なコミュニケーション上の配慮も,能力と依存関係にある。 たとえば,英語圏ビジネス慣行に慣れた母語話者は,受け手に完璧に配慮した(配慮したと受け取られる)メール――過度に簡便でもなく,かといって,冗長でもない,相手へのリスペクトと簡潔明瞭さを併せ持つメール――がほんの数分で書けるだろう。 対照的に,英語習得途上の者にとって,それすらきわめて難しいことは珍しくない。 たとえ何時間かけても,読み手に負荷をかける文面になってしまうことは往々にしてあり,その場合,読み手への配慮不足と評価されることになる。 恵まれていない境遇にある学習者の場合,これはさらに深刻である。 たとえば,校正業者に頼る経済的余裕がない学習者,グローバルビジネスマナー(あるいはホワイトカラーやミドルクラスのエチケット)と無縁で暮らしてきた社会階層の出身者の場合,実際には非常に多くの時間をかけて受け手に配慮した文面を練っても,アウトプットだけ見れば「他人への配慮を欠いた英語」と受け取られてしまう可能性がある。 要するに,他者への配慮と能力は連動しており,それは国際コミュニケーションのように,参与者の能力・価値観・社会条件が多様な場面ではより顕在しやすい。 しかし,配慮の背後に能力が絡んでいるという構造は,メリトクラシーに対する批判意識(そこまでではなくとも相対化する感覚)があって初めて認識できるものである。 逆に,英語能力メリトクラシーを完全に自明視している者は,国際コミュニケーションに潜む不平等をマナーのような徳目としてまなざすことしかできなくなる。

英語規範だけでなくメリトクラシーも解放できるのか

評者の持論展開が長くなってしまったので,かどや論文の文脈に戻ろう。 かどやは,国際英語規範を解放するうえでの障害として,既存の英語論の批判的意識の乏しさを指摘している。 つまり,国際コミュニケーションに,内輪英語規範が密輸入されていること,そして,それを言語差別・マイクロアグレッションとして概念化することに対する自覚の乏しさである。 もちろんそれらも重大な障害である。 他方で,評者は,以上で論じた通り,英語能力メリトクラシーも深刻な障害であることを指摘したい。 しかも,厄介なのが,メリトクラシーは私たちの社会構造に深く根ざしていることである。

厄介さんのひとつが,英語能力メリトクラシーは,相対的受益者である母語話者だけでなく,被害者側の非母語話者も内面化していることである。 むしろ,英語習得に成功した非母語話者に最も根強いかもしれない。 母語話者によるアドバンテージは比較的自明であり,したがって,その特権性に自覚的になれる契機もある。 他方,英語習得に成功した者の場合,現在の特権的な地位が,英語習得に費やした努力の正当的な対価として理解されやすく,だからこそメリトクラシーの諸問題が不可視化されやすいからである。

また,別の困難として指摘すべき点が,英語能力メリトクラシーはすでに私たちの生活領域をおおいに侵食している点である。 現代社会で,私たちは,日々,英語能力メリトクラシーの実践を強いられ,したがってそれが身体化されてしまっている。 入試や採用面接,学校での評価などを思い浮かべればわかりやすい。 こうした制度的なものばかりか,もっと身近なレベルにも英語能力メリトクラシーは侵食してきている。 たとえば,私たちは毎日,世界中から届く大量のスパムメールをゴミ箱にいれる作業に追われているだろう。 このいわば「手動スパムフィルタ」業務では,メール内容だけでなく,形式も考慮してスパム判定するわけだが,形式面の評価では,言語使用の正しさ,適切さ,そして,美しさをもとに判定している。 効率性のもとに「不自然」な英語使用は,問答無用で切り捨てなければいけない。 そこには,メール送り手が「もしかしたら不遇な環境のせいで英語が身につかなかったのかもしれない」といった同情は働かないし,メリトラクシーに支配された自身の判定行為へも批判意識が働かない。 もちろん,評者は「一見スパムに見えるメールにも真摯に向き合うべきだ」と主張しているわけではない。 そうではなく,私たちは,たとえメリトクラシーが不当であることに頭では気づいていても,それを日々の営みにおいて実践しなければならないこと,そして,それを現代社会の構造が私たちにしむけていることを主張しているのである。

まとめ

以上,本書評では,かどや論文の問題意識および提案を認めたうえで,その議論と密接に関係しつつも,かどやが深く論じていない論点を2つ検討した。 すなわち,既存の反差別英語教育論との関係,および,英語能力メリトクラシーとの関係である。 評者の指摘は,かどやの提案が実現するうえでの新たな難題に関するものであるが,具体的にそれを乗り越える方策を示したものではない。 評者の力量を超えているし,一般論から言っても容易な解決はおそらく無理であろう――その証拠に,マイケル・サンデルをはじめとして既存のメリトクラシー批判はいずれもわかりやすい処方箋は提示していない。 その困難性を関係者が自覚するのが,解決へ向けた果てしない道のりの第一歩と考えられる。 本論文評が,その一助になれば幸いである。

また,特定の論文に対するレビューという文脈を離れて,本論文評が,英語論一般にも新たな論点を提示できた面はあると思われる。 とりわけ,国際英語論の文脈において,反差別英語教育論およびメリトクラシーの位置づけを論じたものは,私の知る限り,ほとんどなく,その点で重要な論点を提示できた可能性がある4。 この点について,国際英語論の研究者・関係者の評価をうかがえれば光栄である。


  1. なお,重要なのは,このエンパワメントには「そのままでよい」,つまり英語運用能力が低くても相応のリスペクトを払われるべきだということを必然的に含意する点である。その点で,教室における「英語がまだ上手く話せないのは仕方ない。ミスを気にせずどんどん話しましょう」という教育的励ましとは根本的に異なる。この励ましには,「未来においては上手く話せるべきだ」を含意しているからである。
  2. 純粋にランダムな現象としての「幸運」だけは別だが,他者からのサポートなどその他の幸運は,本人の努力と矛盾せず,むしろ正の相関のほうが高そうである。なぜなら,本人の努力に応える形で周囲がサポートしてくれた主張されることも往々にしてあるからである(「奨学金」はまさにその典型)。この場合,メリトクラシーは無限に連鎖することになる。
  3. たしかに,当該人物に関する事前情報が大量にあれば(例,「日頃から失礼な言い方をする人だ」「英語がよくできる人なので,あの行動は英語力不足が原因ではない」),もう少し踏み込んだ推測も可能だろう。だとしても,究極的にはやはり不確定である。その日その場所で当該人物が行った特定の単語選択が意図通りなのかミスなのかは,やはり究極的には判別できないため(たとえば,体調不良や心配事などのせいで処理リソースが著しく低下していたという可能性も想定できる),原理的にはわからないからである。そもそも,国際コミュニケーションにおいて,話者に関する事前情報が豊富にある状況は多くはないだろう。
  4. 正確に言うと,反差別英語教育論と関連付けた国際英語論は,英語文献ではそれなりにある(たとえば,本論文評でも引用した Tupas 2015)。他方,和文文献で詳述しているものは,おそらくほとんどないと思われる。

反差別英語教育論と国際英語論

以下の記事の続き。




反差別英語教育論との関係

では,同論文の評者なりの文脈化を行う。 まず指摘したいのは,先行実践・先行研究との関係である。 評者がここで先行実践として念頭に置いているのは,とくに英語圏で展開されてきた英語教育関係者の反差別運動・実践・研究である。 同論文にはこれらへの言及がほとんどないが,理論的には共有部分も多く,何より運動の面では重要な先駆者であることは間違いないので,検討する意義はあるだろう。

本書評では「反差別英語教育論」と便宜的に呼ぶが,これは差別・不平等・不正義を積極的に是正していこうとする英語教育関係者(英語教師,応用言語学者,教材作成者)の取り組みの総称である。 単一の運動体やラベルがあるわけでなく,社会正義志向の英語教育(Poteau & Winkel, 2022)や,反レイシズム英語教育(Kubota, 2022),不平等な英語(Tupas, 2015)などと呼ばれる。 英語圏での取り組みが多いが,日本語でも啓蒙的な書籍が出版されている(久保田, 2018)。

反差別英語教育論で頻繁に問題化されてきたのは,評者の印象では,人種,ジェンダー,そしてセクシュアリティであり,英語圏(とくに米国)の歴史的文脈を反映している面が強いと思われる。 ただし,母語話者-非母語話者間の不平等性に関する目配りもある(上述の Tupas 2015 がその典型)。 そもそも非母語話者性は,一対一対応ではないにせよ,人種とかなり相関がある。

したがって,かどや論文と共通の問題意識を有しており,重要な参照点になるはずである。 それは,「車輪の再発明」を防ぐという消極的な意義だけでなく,先行的な取り組みへのリスペクトを示すという積極的な意義もあるだろう。 実際,このアプローチは,多くの英語の第二言語話者によって担われ,その中には非西欧の出身者も少なくなく1),単に米国等のドメスティックな運動にとどまらない広がりを見せている。したがって,日本語で発信される反差別英語論と共闘できる可能性も有している。 その意味で,かどや論文がこうした運動・学術的動向に目配りがなかった点は同論文の限界と思われる。

しかしながら,以上はあくまで抽象的なレベルでの共通点である。 もう少し詳細に見ていくと,無視できない違いも明らかである。 その相違こそ,かどや論文の新規性であるが,同時に,今後具体的な運動を展開していくうえでの課題となる点だと思われる。 その相違点は,一言でいえば,両者が注目している対象集団の違いである。 反差別英語教育論では,英語学習に対して相応のコミットメントがある集団を対象としているが,かどや論文ではそうではない。

反差別英語教育論において,焦点があたりやすいのは次のような人々である。, 周辺化された英語教師,たとえば,有色人種や非母語話者および女性やセクシャルマイノリティの英語教師の被差別状況および闘争。 同じく周辺化された英語学習者,すなわち,人種的・ジェンダー的・経済的マイノリティに属し,理想的教室ではない環境で学ぶ学習者。 つまり,英語使用の所与性が強い環境を前提に,そこで生きる人々がより平等・非抑圧的に英語と関わることができるのを目指しているのが反差別英語教育論の暗黙の前提であると言える。 たしかに,英語教師も英語学習者(英語圏で学ぶ学習者)も,英語使用の所与性が高い。 英語教師はもそも英語に対する職業的コミットメントが強いし,英語学習者も,英語圏・準英語圏で暮らしていく限り,生活言語として英語に向き合わざるを得ない。

他方,かどや論文の焦点は,英語使用の所与性が必ずしも高くない人々を含む。 英語による国際コミュニケーションを「なしで済ませられるなら,なくてもまったく構わない」というように,必要悪(純粋な意味の「ツール」2)として向き合っている人々である。 言い換えれば,何らかの事情で国際語コミュニケーションの需要が消失すれば,英語使用から「降りる」選択肢を持った人々である。 たとえば,機械翻訳の高性能化,極端な脱グローバル化=ブロック化=国内化,個人の職業上あるいは生活上の変化などにより,英語を使う必然性が消失し得る人たちである。

英語使用の所与性の相違は,対象とする人口の範囲を左右する。 つまり,反差別英語教育論の対象は,英語教育関係者・英語学習者・英語使用者に限定されがちなのに対し,かどや論文の立論は,英語使用者以外も含むからである。 潜在的ニーズを持った人口まで想定するなら,理論的には,地球上の全人口が対象範囲になり得る。

人口以上に重要だと考えられる相違が,切迫度の感じ方である。 反差別英語教育論においては,英語使用から「降りる」という選択肢はほとんど想定されていないだろう。 他方,かどや論文では,相応の不利益を甘受するならばではあるが,その選択は残されている人たちである。 この点で,前者より後者のほうが切迫度が低いと受け取られやすいと思われる。 そして,この切迫度の相対的低さは,既存の反差別運動の蓄積との接点を減じさせてしまうかもしれない。 言い換えれば,先人たちが考案・洗練してきた反差別のための概念的・政治的リソースを,直接使えない場面も大いに生じうるということである。 たとえば,グローバルサウス出身で英語母語話者の女性ポスドク研究者と,日本出身・日本語母語話者で英語が苦手な男性大学教授(コントラストをより強くするなら「有力ヨーロッパ言語母語話者の西欧出身白人男性教授」でもよい)が英語で議論する場面を想像してみよう。そして,このとき,英語力の差のせいで,日本人(あるいは白人)男性大学教授が不当な扱いを受けたとする。 しかし,このコミュニケーション上の不当性の分析に,反差別英語教育論が重視してきた枠組み――たとえば,人種差別,家父長制,コロニアリズム――をそのまま適用するのは難しい。

この複雑さは,単にいわゆる交差性(インターセクショナリティ)が絡んでいる点だけではない。 もうひとつ重要なのは自由意志による選択(というフィクション)が大いに介在している点である。 というのも,上記の日本人(あるいは白人)男性教授には,「英語から降りる」という選択肢が理論上,残されているからであり,また,実際,その選択をしても生きていけるようなシナリオは比較的想像しやすいからである。 もちろん,実際は自由意志で降りられるわけではないし,また,降りたことによる相当の犠牲・コストを甘んじて受けなければならないのは事実である。 しかし,この複雑な理路を整理して論じない限り,反差別英語教育論の枠組みを利用することは難しい。少なくとも,直接転用すれば事足りるという状況にはなっていないと思われる3



執筆途中(2024年9月15日午後5時)


  1. 前述の Tupas (Ruanni Tupas) はこの点で象徴的かもしれない。彼はフィリピン出身の社会言語学者で,修士まではフィリピンでトレーニングを積んだ(博士号はシンガポール国立大学)。出典は,ORCIDの経歴欄。
  2. 「(国際コミュニケーションの)ツールとしての英語」という語は国際英語論者ばかりか内輪英語規範を内面化した人にも人気が高いフレーズである――英語学習・英語使用をめぐる規範に自分は隷属しているわけではない,むしろ英語をツールとして隷属させているんだというレトリックが,プライドをくすぐるのだろう。しかし,こうした「英語=純粋なツール」観はレトリック上のごまかしであり,実際にはかなり多数の条件がついた,いわば「取り回しのきわめて困難な重厚ツール」である。釘の打ちやすい金づちを選ぶのとわけがちがい,英語を選ぶのには膨大な学習時間を犠牲にするという意思判断が必要である。ある金づちに慣れてしまっても気分次第で別の金づちに乗り換えることは容易だが,言語はこのようなことは不可能である。
  3. 脱線するが,この部分の議論は,英語圏のアプローチを日本に「直輸入」することの困難さも暗示している。日本の英語教育研究(とくに日本語で出版される研究)においても,英語圏の反差別英語教育論を紹介することが増えつつある(象徴的な例としては,日本の英語教育業界の商業誌である『英語教育』でも,2023年から行われた英語圏の批判的応用言語学を「紹介」する連載である)。ジェンダーや資本主義批判などであれば「直輸入」の齟齬も顕在化しづらいかもしれないが,人種差別や,応用言語学の最近のトレンドである「脱植民地性/デコロニアリティ」はとくに慎重な扱いを要するだろう。日本は,制度的にも知的にも,人種差別,(とくに広義の)植民地主義の被害者であったが,同時に,明らかな加害者でもあったからである。

国際英語の既存の規範を言語差別・マイクロアグレッションと厳しく批判する論文(かどや,2023)

以下は,かどやひでのり著「英語のなにが問題で,なにがなされるべきか―国際英語における言語規範の自律化と解放」(『ことばと社会 多言語社会研究』25号[2023年]所収)の論文評である。

かどや論文(以下「同論文」)は,一言でいえば,国際英語に関する既存の諸議論(以下,若干ミスリーディングではあるが,簡便のため,「英語論」と表記する)に対する,言語差別に反対する立場からの異議申し立である。 結論からいうと,評者の評価はきわめてポジティブである。 以下で見ていく通り,同論文は,既存の英語論が気づいていなかった(あるいは気づいていたが見えないふりをしていた)急所にきちんとメスを入れ,非常にラディカル=論争的な提言を行っている。 論文の結論を,とても受け入れられないと感じる人(とりわけ英語教育関係者)も多いと思われる。 しかしながら,同論文の論証手続き自体は,決してラディカルというわけではない。 つまり,同論文が述べているのは,差別観・社会観をめぐる特定の前提を採用するならば,当然の論理的帰結として,これこれこういう(一見受け入れがたい)結論になると述べているだけであり,その論の運びはむしろ穏当な部類に属する。 同論文の真にラディカル=論争的な点は,むしろその前提の部分である。 つまり,特定の必ずしも自明ではない前提をあぶり出していること,そして,その前提に則るならば既存の英語論を根本から批判するような提言が導かれることを示している点である。

最初に断ったように,評者の評価は基本的にポジティブなので,この論文評は,かどや論文を正面から批判するものではない。 むしろ,同論文の評者なりの文脈化を中心に据える。 文脈化は概して2つの観点から展開する。

  1. 反差別主義の応用言語学の潮流と,同論文はどのような位置関係にあるのか。 (とくに英語圏における)反・差別的な英語教育(anti-racist English language teaching)の先行実践・先行研究と,同論文はいかに接点を持てるのか/持てないのか。
  2. 論文著者が提示する反言語差別の国際英語論はメリトクラシーをどう乗り越えられるか。評者は,同論文が指摘していない暗黙の前提として,メリトクラシーの重要性を指摘し,そのうえで,メリトクラシーの諸問題に対処しない限り,同論文の提言は有効に機能しない可能性が高いことを論じる。反面,そもそもその対処自体が現代社会にとっての難問であるというジレンマも指摘する。

論文の概要

上記2点を詳述するまえに,同論文の概要を示す。なお,著者と出版社との契約によりオープンアクセスになっている(らしい)。読者は論文本体(https://researchmap.jp/kadoyah/published_papers/43711866)を直接読めば良いので,詳細なレビューは不要だろう。 以下では,後の文脈化のために最低限必要な情報を示したい。

同論文の章立ては,以下の通りである。

  • 1 問題の所在
  • 2 英語同化主義,英語帝国主義から節英論
  • 3 国際英語の再定位
  • 4 英語とマイクロアグレッション
  • 5 何がなされるべきか―言語規範の解放
    • 5.1. 英語を二分化する必要性
    • 5.2. 多様性の僭称
    • 5.3. 国際英語における差別行為
    • 5.4. 反差別運動としての国際英語論:英語母語者のディスエンパワメントへ
  • 終わりに

提言部分は,実質的には上記の第5節である。 それまでの節で,既存の英語論(国際英語論,World Englishes 論,英語帝国主義論)が,英語をめぐる差別の解決にいかに有効でなかったかを論じている。 そして,続く5節で,それを乗り越えるための方策として,英語に対する規範をラディカルに修正=脱差別=解放することを提言している。

その具体的な提言を,5節の構成にしたがって見ていこう。 第一に,内輪英語 (B. カチルの Inner Circle の意味)と国際英語を厳密にわけ,前者の規範を後者から完全に締め出すことを論じている(5.1節。この前提になる議論は論文の第3節)。 この提言は,既存の国際英語論が黙殺するかあいまいにぼかしてきた問題に対する鋭い異議申し立てになっている。 たしかに,国際英語に関する諸議論(World Englishes, リンガフランカ論にくわえて,反・英語母語話者主義論 anti-native-speakerismも含む)では一貫して内輪英語規範からの離脱を訴えてきた。 しかしながら,問題は,この離脱が規範の中立化をまったく意味しなかった点である。つまり,離脱と言っても,内輪英語規範を廃止して国際英語規範「だけ」を打ち立てるという完全離脱ではなく,あくまで「そこそこの離脱」であり,したがって,内輪英語規範の影響力は根強く残ることになった。 これは,既存の英語論にとって不可避なジレンマだったと言えよう。 なぜなら,人工的=運動的に国際英語を設計せず,自然言語としての英語(正確には「自然に習得された」と集合的に観念された言語)に,概念的・学術的・政治的に多くを依存してきたからである。「自然言語としての英語」をめぐる概念的・政治的リソースを提供してきたのが,まさしく内輪英語話者の日々の営みである。 論文著者の提案は,こうしたジレンマを直視し,そのうえで,国際英語を人工的=運動的に設計すべきだという主張である。

第二の指摘が,国際英語論の唱える多様性の尊重は,言葉の正確な意味での多様性の尊重ではなく,あくまで条件付きの尊重に過ぎないというものである(5.2節)。 つまり,様々な英語表現・英語使用を前にして,教育上や伝達上の効率性の観点から,「こちらの表現・使用は英語の『多様性』として容認するが,あちらの表現・使用は『逸脱』として排除する」という分別作業が行われており,それはしばしばかなり恣意的な線引きである――そもそも教育・伝達上の効率という価値判断は,多様性尊重という価値判断とは相性が悪い。 なお著者が,多様性尊重という言葉の使用自体をやめるべきだと言っているのか,使ってもいいがその限定性を自覚せよ程度でとどめているのかは書き方からはわかりづらいが,おそらく前者だと思われる。

第三に,上述した事情から,たとえ国際英語を掲げたコミュニケーションであっても,母語話者と非母語話者の間には拭いがたい権力勾配が存在しており,それは言語差別・マイクロアグレッションであると明確に概念化すべきであると指摘している(5.3節)。そして,マイクロアグレッションと認める以上,マイクロアグレッションの源泉たる母語話者の特権性を剥奪(ディスエンパワメント)しなければならないと述べる(5.4節)。 この点も,内輪英語規範から独立したものとして国際英語規範を人工的=運動的に設計してこなかった既存の英語論の急所である。 このマイクロアグレッションという概念化は,既存の英語論が避けて通ってきた重要な論点に光を当てている。それは,国際コミュニケーションの失敗・逸脱を解決する責任が誰にあるのかという点である。 この問いに対し,内輪規範からの「そこそこの離脱」をモットーとしてきた英語論は,当然ながら,母語話者・非母語話者双方の責任であるとするだろう(共同・協働的な対話構築というハーモニアスな社会観・コミュニケーション観)。 しかし,コミュニケーションには母語話者・非母語話者間の差別構造が埋め込まれており,それが不成功・逸脱として表出するのはマイクロアグレッションの一形態だと考えるならば,この状況は加害者・被害者構造と理解できる。その必然的な帰結として,問題解決の責任を負うのは,「加害者」たる母語話者側であり,そのディスエンパワメント(特権剥奪)がなされるべきだという結論が導かれる。

まとめると,内輪英語規範を差別・マイクロアグレッションの表出形態として国際コミュニケーションから締め出し,そのためのアプローチとして内輪英語規範(母語話者および内輪英語規範を内面化した第二言語使用者もふくむだろう)のディスエンパワメント(特権剥奪)が必要だという提言である。

以下,執筆途中(2024年9月11日午前11時)

ネット調査(など)の補正が応用言語学調査でも可能なのかを論じた論文が出ました(Research Methods in AL)

私の論文が、Research Methods in Applied Linguistics に掲載されました。

こちらのリンクから期間限定でオープンアクセスで読めます(10月上旬頃まで)。 それ以降は,こちらのDOI→https://doi.org/10.1016/j.rmal.2024.100152

ネット調査などランダムサンプリングをしていない調査を、まるでランダムサンプリング調査をしたかのように補正する方法が「理論的には」存在します。ただし,あくまで「理論的には」です。この補正が理論通りにいくには,実際にはかなり高い運用上のハードルがあることがわかっています。では,この手法は,応用言語学調査において,実際にどれくらい妥当で,どれくらい現実的なのでしょうか。この問いを,英語使用調査を素材に検討しました。結論は、「今回のわたしのデータではまあまあ成功したけど、一般的にはそれなりに制約は多そう」

アジア30カ国の英語格差を比較計量分析した論文が出ました(World Englishes 誌)

アジアバロメーターを使ってアジア30ヵ国の英語格差の程度とパタンを比較した論文が出版されました。興味がある方はメッセージくださればPDFをお送りします。


Terasawa, T. (2024). Relationship between English proficiency and socioeconomic status in Asia: Quantitative cross-national analysis. World Englishes, 1–24. https://doi.org/10.1111/weng.12705

ドラフトバージョンは、ResearchGateに置いてあります。こちらはDM不要で読めます。

基本的には記述的な分析が中心です。ただ,一点,論争になりそうな論点として,既存の批判的英語研究の英語格差 (English divide) 言説に対してささやかな異議申し立てをしています。韓国の英語教育研究が典型ですが,ここ20年の批判的英語研究では,英語格差(英語教育および英語力による社会格差の増幅)が,揺るぎない真理のように扱われています。しかしながら,多くの先行研究は,事実(格差があること)と言説(格差があると言われている/懸念されていること)の区別が結構あいまいなまま,議論されています。

本論文で私は,既存の英語格差言説に反し,韓国の格差の度合いは,比較的マイルドであることを明らかにしています。そのうえで,韓国の英語格差は,その実態以上に,言説のせいで増幅されている可能性を示唆しています(第7節参照)。

なお,この増幅効果は,格差研究・批判研究のもつ逆説だと思います。「格差があるぞ!」と多くの人が叫べば叫ぶほど,事実がどうであれ,格差があることが自明視されるからです。しかも,「格差があるぞ!」の根拠が,「誰々も言っている」「社会問題になっている」というエピソード的な証拠に基づくことが多い質的事例研究においては,より注意が必要なポイントでしょう。

記述的な分析に関しては,とりあええず,図だけ見ても要点はわかると思います。

英語力とジェンダー

英語力と教育レベル

英語力と職業カテゴリ(3水準)

英語力と居住都市規模

英語力と各社会階層変数の相関係数,箱ひげ図

相関係数をもとに30カ国を分類(階層的クラスタ分析)