1. はじめに
周知のとおり,日本の英語教育・英語学習には不正義が蔓延している。こうした不正義に関する批判的研究も増えている。そのアプローチは多岐にわたるが,その基本的な論証構造は比較的共通しており,典型的には以下のパタンである。
研究課題を論証するのに最も適切な事例(多くの場合,問題事例)をピックアップする
その事例を,何らかの規範理論(通常は批判的理論)に基づいて評価する
外形上はいたって単純な論法だが,実は,倫理的には微妙な問題をはらむ。第一に,事例選択は,それ自体が,高度に解釈的・政治的な作業でもある。 集団Xの不正義性の象徴として,特定の(しばしば少数の)事例をピックアップすることは,必然的に,なぜほかでもなくその事例を選び出したのかが問われる。 たとえば,日本人の英語学習の異常さを例証するという目的で,あまりに極端な事例を利用することは ,「異常扱いして貶めるための批判」「普段からそういう目で見ているから極端な例ばかりが目につくだけ」「以前はもっと酷かった。改善のために闘ってきた人々の存在と成果を無視するのは不誠実」といった反論を容易によびこむだろう。1
第二に,事例を評価するための規範理論についても,誰の理論を使うかはやはり政治的な問題である。2 周知の通り,非西欧(あるいはグローバルサウス)の問題を論じるのに西欧(グローバルノース)の理論を用いることや,非白人あるいは女性の問題を論じるために白人・男性に由来する理論に依拠することは,その妥当性が厳しく問われてきた((サイード, 1993; スピヴァク, 1998; 上野, 1990)。たとえば,日本における英語帝国主義を批判する研究を考えてみよう。「模範的」論文の場合,英語圏の「ビッグネーム」(その多くが白人男性である)の文献 (e.g., Pennycook, 1994; Phillipson, 1992) に依拠しながら,論を始めるものが多い。しかしながら,その選択が妥当であるかは必ずしも自明ではない。日本という文脈を重視するなら,日本で活動する研究者・著述家に依拠すべきかもしれないし,歴史的蓄積へのリスペクトを示すならば,さらに遡って戦前・戦後の英語帝国主義論から説き起こすべきかもしれない―― 戦後ではたとえばラミス (1976) や宮沢(1966) が,戦前では大岡育造や北一輝など(cf. 江利川, 2022; 臼井, 2007) 多くの論者が該当する。とはいえ,実際には,英語圏ビッグネームの文献は,有名であるという理由だけで選択されることも多い(「ネットワーク効果」の一種)。これが行き過ぎると,英語帝国主義を批判するために英語圏出身者の英文文献ばかりが引用されるという皮肉な事態となる。もちろん,当該文献が独自性・斬新性の高い唯一無二の先行研究である場合には,その引用は必然的と言えるが,その含意が穏当・凡庸 であるほど,権威主義的かつ英語圏中心主義的な引用だという批判を呼び込みやすいだろう。
さらに,事例選択および理論選択に伴う倫理的複雑さは,社会正義を論じる批判的研究において,より一層先鋭化する。なぜなら,批判的研究は,批判対象が何らかの社会正義的な後進性を有していることを前提とするからである。 つまり,他者を後進的と見なすことで批判は成立するが(「完全無欠の先進社会」を批判することは不可能),そうした後進性フレーミング自体の倫理性が問われているのである。とりわけ,そのフレーミングが,西洋 vs. 非西洋,欧米 vs. アジア,英語圏 vs. 非英語圏といった軸に沿って展開される場合,それは西洋中心主義・オリエンタリズム・コロニアリズムと紙一重である。
本稿は,以上の問題を「コロニアリスト研究慣行」という概念を用いて分析する。 筆者の専門分野である日本の英語教育研究を素材にしながら,その問題点と実践上の困難さを論じる。
2. コロニアリスト研究慣行とは何か
以前から自然科学・社会科学分野では「問題のある研究慣行」(questionable research practices: QRPs) が大きな問題となってきており,近年では一般にも広く知られつつある (リッチー, 2024)。「問題のある研究慣行」は,読んで字のごとく,研究者が行っている研究活動のうち,科学コミュニケーションおよび研究倫理の面で不適切な行いを批判的に言及したものである。その点で,明らかに規範的な面を含む概念だが,狭義の科学の伝統が強いため,知の非対称性(つまり西洋中心主義/オリエンタリズム)に対する異議申し立ての性格は必ずしも強くはない。そこで,筆者はあらたに,問題のある研究慣行にコロニアリズム批判という論点を加えた,コロニアリスト研究慣行という用語を導入した (寺沢, 2025)。
コロニアリスト研究慣行を,筆者は以下のように定義している。
英語圏で流通している知識を不当に優先して受容し,反対に,現地の知識を不当に軽視あるいは無視する研究者の慣行 (寺沢, 2025, p.19)
要するに,研究者の不適切な行為をコロニアリズム(以下で述べる通り,本稿はとりわけ「英語圏知識」至上主義に限定している)という観点から問題にしたものである。この用語は筆者による造語だが,同種の問題意識を持つ研究者・教育者は少なくないと思われる。たとえば,2025年8月に関西大学で開催された「第3回批判的言語教育国際シンポジウム」においてもこのテーマに関するパネルディスカッションが開かれ,筆者を含めて6名の言語教育研究者が登壇した(寺沢 et al., 2025)。
もっとも,この概念が受け入れられやすいことは不思議ではない。 学術におけるコロニアリズムや英語至上主義に対する異議申し立ては古くからある問題だからである (Amano et al., 2023; Igarashi, 2025; Murphy & Zhu, 2012)。 ただし,筆者は,コロニアリスト研究慣行という用語を用いるにあたり,以下の三点の限定化を行っており,その点では新規性を有していると思われる。
2.1. 受容面への焦点化
第1に,受容面への焦点化である。学術における英語偏重批判は,しばしば受容面と発信面がきちんと区別されないまま論じられる。また,そもそも科学コミュニケーションの文脈で注目されやすい英語偏重問題は,発信面である。すなわち,科学者が自身の第一言語ではなく英語で論文執筆を強いられる状況や,非英語母語話者の科学者の不利さである (Amano et al., 2023)。
執筆言語の英語偏重が重大問題であることは明らかだが,このようなナラティブに依拠しすぎると,誰の知識を正統とまなざすかという論点が曖昧にされてしまう。実際,筆者の問題提起はしばしば誤解され,学術的リンガフランカをめぐる問題――「グローバルに研究していくには英語で論文を書くしかない」――に回収されてしまうことは少なくない。こうした点を回避するため,意識的に受容面を強調した定義を採用している。
さらに,受容面への焦点化は,発信面の議論にくらべて,合意可能性が高い点もメリットである。 英語での発信の是非は,目的や状況によって大いに左右される。 たとえば,ある社会の問題を国際社会に訴えるため戦略的に英語で書くべきか,それでもなおローカル言語での執筆を重視すべきかは難しい問いである。執筆言語戦略や想定読者,テーマ次第では,英語至上主義的な発信であっても許容されることも少なくないだろう。 他方,受容面の是非をめぐっては,このような複雑な条件はほとんど介在しないと考えられる。なぜなら,想定読者や目的をどのように設定しようとも,ローカルの知識を軽視するような論理構成を正当化することは困難だからである。「英語でしか書かない」という戦略には一定の公共性が想定できようが,「英語しか読まない」という戦略にそれは不可能である。このように,受容面への焦点化は,合意可能性の高い論点に集中できるという大きな意義がある。
2.2. 研究者の慣習的行為への焦点化
定義における第二の力点は,研究者の日常的な研究行為(慣行)である。他方で,学問や知の制度に埋め込まれた植民地的企図には焦点化しない。 もちろん,学術的コロニアリズムの議論においては,学問や知の制度それ自体が植民地支配の正当化装置として機能してきたという論点はきわめて重要である (ましこ, 2003; 安田, 2006; 松島, 2022) 。実際,こうした構図は英語教育研究にも指摘されており,すでに多くの研究が蓄積されている (Pennycook, 1994; Phillipson, 1992; Tupas, 2015; 平田, 2016; 江利川, 2025; 齋藤, 2006)。
コロニアリスト研究慣行が焦点化するのは,このような射程の広いテーマではなく,もっとミクロな,研究者の日常的行為の次元である。つまり,研究者が日常的に行う種々の選択――理論,先行研究,事例の取捨選択といったミクロな次元――に,コロニアリズム的な契機が埋め込まれている点を問題にする。
2.3. コロニアリスト/西洋中心/オリエンタリスト的構造の告発
その一方で,研究慣行の側面を強調しすぎると,「良い研究とはなにか」といった,研究者の一般的な心構えに回収されてしまうリスクがある。それを回避するため,コロニアリズムの側面を意識的に強調している。これが第三のポイントである。
この点は,次の二つのケースを対比するとわかりやすい。日本の英語教育を研究しているAとBの二人の研究者を想定する。Aは,日本語文献やドメスティックな媒体で発表された研究に依拠しない。Bは,その逆に,国際誌で発表された研究に依拠しない。この場合,研究者の心構えの点では,AもBもいわば「どっちもどっち」と評価されうる。しかし,コロニアリスト研究慣行批判の観点から見れば,問題なのはAであって,Bではない。
なぜなら,Aが和文知識を無視する背景には,それを劣位に置く構造――たとえば,和文文献に対する過小評価,日本社会研究・教育研究に対する偏見・無知,英語話者研究者にだけ現地語能力を免除するという「甘やかし」――が存在するからである。したがって,その非対称性を所与のものとして前提としている時点で,倫理的に問題である。他方で,Bが国際的知見を参照しない理由は,こうした言語圏間の非対称構造ではなく,たとえば単なる先行研究のサーベイ不足や分野知識の不足などといった,コロニアリズムとは別種の要因に求められる。この点において,Bの不適切性はAのそれとは質的に異なる。両者を単純に「どっちもどっち」と扱うことは,コロニアリスト研究慣行の問題をかえって曖昧にしてしまう。
2.4. コロニアリスト研究慣行の見取り図
以上を踏まえて,コロニアリスト研究慣行とはどのようなものであり,どのようなものでないかを整理してみよう。日本社会の言語教育という文脈から,重要な分岐点を示したものが図1である。
図1 コロニアリスト研究慣行(CRPs)の分岐点
第一の分岐は,日本社会を対象としているかどうかである。上で触れた「科学の英語化」批判とは異なり,日本社会を研究しているにもかかわらず現地の知識を考慮しない点こそが,コロニアリスト研究慣行批判のポイントである。
第二・第三の分岐は,先行研究や理論として現地語文献をきちんと参照しているかどうか,また参照していない場合にその非参照が正当化できるものなのかという点である。他方,正当な理由がない場合,不当な英語依存ということになり,コロニアリスト研究慣行に該当することになる。この分岐は,引用文献一覧を見れば比較的シンプルに判断できると思われる。ラインナップに現地語文献があるかどうか,ない場合はその点について正当な説明が付されているか,である。
ただし,同じコロニアリスト研究慣行であっても,その深刻度にはグラデーションがある。その点が第四・第五の分岐である。まず,データだけは現地語情報(インタビュー,事例,新聞記事等)に依拠している場合,現地語でしか入手できない知識に対する一定の考慮は感じさせる。ただし,理論・先行研究が不当に英語に依存している以上,「分析する側が西洋,分析される側が非西洋」というオリエンタリスト的構図であるとは言える。また,英文文献であっても日本社会研究(地域研究としての日本研究や Japanology)への依拠がある場合にも,知識の非対称性に対する一定の敏感さは垣間見える。逆に,これらのいずれも見られない場合には,きわめてコロニアリスト的な態度の強い研究慣行と言わざるを得ない。
3. 英語教育研究という特殊文脈
なお,コロニアリスト研究慣行は,他分野でも無縁ではないはずだが,とりわけ英語教育研究において先鋭化しやすい。3 これは,英語教育分野の研究者が置かれている特殊な制度的状況による。それは,英語教育をテーマにすれば,たとえ地域研究的なアプローチであっても,現地語文献を参照せずに研究が可能な条件が成立している事実である。たとえば,日本には,日本社会を研究しつつ,英語だけで博士号がとれたり(例,テンプル大学日本校),英語だけで学会発表・論文投稿が可能なドメスティック学会(例,全国語学教育学会,略称JALT)がある(日本社会は全体的に見れば英語化が遅れているとされるが,そもそもの人口や英語教育インフラの規模が大きいため,このような「ニッチ」な部分の英語化が意外と進んでいる)。
さらに,英語教育研究者のキャリアパスもこの構造を強化している。教員養成課程のスタッフなど一部の例外を除き,多くの場合,研究者は大学などの教育機関において,語学科目としての英語の教育者として雇用される。そのため,雇用に際して評価されるのは日本社会研究者としての能力ではなく,英語指導力と抽象的なレベルでの研究能力(学位や業績数)であり,現地語能力の評価ウェイトは相対的に低くなりやすい。その結果,日本語に必ずしも堪能ではない英語話者が,日本の英語教育を英語で研究し,英語で発表するという状況が生じうる。他方で,日本語に堪能な英語教育研究者も,当然ながら英語を解するため,媒介言語として英語を介して研究交流が可能になる。このような構図は,他の言語教育研究では想定しにくい。 たとえば,「日本におけるフランス語教育」をフランス語のみで研究したり,「米国における日本語教育」を日本語のみで研究したりすることは考えにくい。しかし英語教育研究には,このような「現地語不在」の研究が比較的許容されやすい構造が存在している。
4. コロニアリスト研究慣行の認識論的問題
では,コロニアリスト研究慣行に具体的にどのような問題があるのか確認しよう。
本稿では,紙幅の都合上,問題点を一般論として述べるに留める。問題のある研究事例についての具体的な検討は,寺沢 (2025) で行っているので参照されたい。
コロニアリスト研究慣行は,大きく分けて,認識論的問題と倫理的問題に区別できる。認識論的問題とは,要するに,コロニアリスト研究慣行によって「正しい知識/適切な研究知見」の獲得が阻害され,研究の質が低下することである。認識論的問題は,さらに2つに下位分類できる。
第一が,発見性の低下である。 これは「窓越しの景色」の類推で考えると理解しやすい(図2左図) ここでは景色が研究対象(例,日本社会),窓から景色を眺める人が研究者に相当する。この窓が擦りガラスであれば,天気や景色のおぼろげな輪郭はわかるものの細かい情報は一切入って来ない。英語知識のみへの依拠は,擦りガラスの場合と同様で,当該社会に関する文脈理解が粗雑になりやすく,結果として得られる知見も凡庸なものになってしまう。当然ながら,自明な事柄を「発見」として提示するのは学術的貢献とはみなされない。 むしろ,現地の知識に適切にアクセスしていれば回避可能だった「疑似的発見」「車輪の再発明」にすぎないことさえあるだろう。このように,コロニアリスト研究慣行は研究の新規性や独自性を損ない,学術的蓄積に対する貢献を阻害する。
図2 発見性の乏しい知見(右)とバイアスを伴う知見(左)
第二の問題が知見の妥当性の低下(いわゆるバイアス)である。再び窓ガラスの類推を用いるなら,ガラスの歪みや着色のせいで,特定の方向に景色が歪んで見える状況が,妥当性の低下である(図2の右図)。コロニアリスト研究慣行で歪みガラスに相当するのが,当該社会に対する偏見や,英語で記述しやすい現象への偏重である。 この結果,本来重要であるはずの現象が見落とされ,逆に周辺的な要素が過大に強調される。こうしたバイアスは,現実の歪曲をもたらし,研究成果の妥当性を損なう。 そればかりか,重要文書の誤読や制度の誤解釈など,地域研究として致命的な誤りさえ生じうる。これらは,研究者が「ガラスの歪み」に自覚的であれば,ある程度の補正が可能な場合もある。しかし,こうした歪みに気づかなければバイアスは増幅される。そもそも,英語依存が認識上の障害になり得ることは普通に考えれば自明であるが,この自明性の不可視化自体が,「英語だけで十分だ」という奢りであり,まさにコロニアリスト的であると言えよう。
5. コロニアリスト研究慣行の倫理的問題
次に,倫理的問題について検討する。 現在,「コロニアリズム」「オリエンタリズム」「西洋中心主義」という語には倫理的非難のニュアンスを大いに含むので,「コロニアリスト研究慣行は倫理的に問題だ」という言明は同語反復の感がある。したがって,なぜ倫理的に問題なのかを論じるのはいささか屋上屋を架す感があるが,その点を分析に深めていると考えられるのが,認識的不正義 (epistemic injustice) の議論である。
認識的不正義とは,特定の集団の知識や経験が制度的・構造的に軽視され,知識の担い手として正当に評価されないことによって生じる不正義を指す(フリッカー, 2023; 佐藤 et al., 2024)。 英語圏の知識が制度的に優位に置かれ,現地語による知的蓄積が体系的に軽視される構造は,特定の知識体系に対する不当な序列化を生み出す。このような状況下で,研究者が現地の知識に依拠しない場合,それは単なる方法論上の欠陥にとどまらず,不正義の再生産に加担する行為となる (寺沢, 2025)。
さらに,この問題は「貢献的不正義」 (contributory injustice) の観点からも捉えることができる (Dotson, 2012; 榊原, 2024) 。 すなわち,支配的な知の枠組みが優位にある集団のものに偏っている場合,劣位に置かれた集団は,自らの知識を共有し,学術的議論に貢献する機会そのものを奪われる。英語圏中心の知識体系に依拠した研究慣行が続くと,現地語で蓄積されてきた知的資源が参照されないまま埋没し,それらを担ってきた研究者や実践者の貢献が可視化されない。その結果,知の生産と流通の過程において,特定の集団のみが「語る側」に位置づけられ,他の集団は恒常的に排除されるという不均衡が再生産される。
5.1. 西洋的価値観の押しつけ
以下,より具体的に倫理的問題を検討したい。最もわかりやすい問題のひとつが,西洋的価値観の押し付けである。オリエンタリズムとして批判されてきた論法の一つに,他者(他者たる社会)に対し「異常」「非合理」「遅れている」「イデオロギーにまみれている」といった否定的ラベルをアプリオリに貼り付け,それに合致する事例を選び出して論証するというものがある (サイード, 1993)。日本の英語教育の文脈で言えば,英米的な言語観・コミュニケーション観が無前提に「正常」とされる一方で,受験英語や文法重視,あるいは民族的同質性幻想,国語ナショナリズムといった「日本的」とされる現象が逸脱として位置づけられる。
こうした論法が典型的に見られる媒体として,Hollenback (2021) はJALTの出版物を指摘している。 Hollenbackは,JALT発行のThe Language Teacherを分析し,日本社会を無前提に断罪するレトリックにあふれている点を明らかにしている。また,日本の英語教育批判の書として非常に影響力のある McVeigh (2002) も,倫理的評価をアプリオリに決めた論証という印象が強い。というのも,英語教育批判の章 (McVeigh, 2002, Chapter 7) に限って言えば,同書著者はフィールドワークを行っておらず,伝聞情報や英文論文,英字新聞の記事を根拠に,日本の英語教育が異常であるとの評価を下しているからである。 4
もちろん,日本の英語教育に数多の問題があることは事実であり,その後進性・非合理性を批判的に検討する意義は大きい。しかし,問われているのはこうした評価の是非ではなく,そこに至るプロセスである。本来であれば,フェアな事例選択と包括的な検討,そして厳密な分析を経て評価が導かれるべきであるにもかかわらず,「後進的に違いない」という先入観に基づく確証バイアスやチェリーピッキングが行なわれることが問題なのである。他者の不正義に対する告発は,告発内容が結果的に妥当だったとしても,その論証が不公正であれば,批判に値することは多い。 こうした再帰的構造は,批判的言語研究がはらむ複雑な特性――他者への批判は批判者自身に帰って来る――であると言えよう。
5.2. 現地人の主体性の軽視
第二の問題が,ローカルの主体性の不可視化である。コロニアリズム研究慣行では,ある社会の問題を部外者的に分析しつつ,当該社会の人々が問題解決・社会変革に向けて行ってきた知的営為を存在しないかのように扱うことがしばしば見られる。 それはローカルの主体性を認めず,むしろ受動的な存在として他者化する行為にほかならない。しかも,ローカルにおける抵抗・問題解決は,しばしば現地語でしか記録されないので,英語依存の研究慣行は,主体性の不可視化を増幅させてしまう。
このような不可視化が実際に起きた事例として,寺沢 (2025) は日本の英語教育研究から以下のようなものを紹介している。
(a) 英語イデオロギーに対する批判の伝統の不可視化
日本の英語教育・英語学習には,様々な英語イデオロギーが蔓延していることが批判されてきた。それらはたとえば,「英語帝国主義」「母語話者至上主義(native-speakerism)」,「英米規範至上主義(=国際語/リンガフランカ志向の対義語)」といった批判的キーワードをもとに分析されてきた。しかし,こうしたイデオロギー研究では,しばしば英語母語話者による英文著作 (Holliday, 2006; Jenkins, 2007; Phillipson, 1992)のみが参照され,日本発の著作はほとんど言及されない。この構図は,日本社会の側には英語イデオロギーに対する異議申し立てや抵抗が存在せず,西欧から来た英語母語話者の「救世主」によって初めて問題が可視化されたかのようなメッセージを発している。しかし実際には,日本においても戦前から,こうした問題に対する批判や抵抗の知的営為は膨大に蓄積されてきた(詳細な文献リストは,寺沢 2025を 参照されたい。なお,歴史的な文脈については,川澄, 1978; 江利川, 2022, 2025を参照)。むしろ,被抑圧者側に位置づけられる非英語圏だからこそ,この種の批判や抵抗が展開されやすかったと考えたほうが自然である。
(b) 草の根レベルの英語教師組織の不可視化
英語教師団体の自主的な組織化は,間違いなく,ローカルの主体性を象徴する重要事象である。しかしながら,コロニアリスト研究慣行では,こうした組織化や教員運動がしばしば無視され,国際的な教師団体の動向ばかりが注目される。たとえば,日本の英語教育組織を海外に紹介する文献(Stewart & Miyahara, 2016) では,JALTや大学英語教育学会(JACET)のような国際志向の強い学術団体は丁寧に紹介される一方で,戦後の教師による自主的運動についてはほとんど言及されていない。しかしながら,重要な運動が多数存在しており,和文文献であればその動向は記録されている(詳細な文献リストは,寺沢 2025を参照)。 国際的組織に偏重した記述は,国際組織ができる以前には日本には主体的な教師運動が存在しなかったかのようなメッセージを発している。
(c) 批判的言語教育の伝統の不可視化
批判的応用言語学(critical applied linguistics)の受容においても,同様の構図が見られる。たとえば,大修館書店の雑誌『英語教育』で2023年に行われたリレー連載(山本, 2024) では,主に英文文献に基づく理論枠組みが紹介され,日本において長年蓄積されてきた批判的言語教育研究への言及はごく限定的であった。同特集に限らず,批判的応用言語学やそれに関連する概念を紹介する論考では,しばしば「英語圏の批判的知を,非・批判的(=蒙昧な)な日本に紹介する」という構図のものが散見される。
しかし実際には,日本においても,言語と権力・不平等をめぐる批判的研究は以前から展開されてきた。識字教育運動(大沢, 2003; 小沢, 1991)や,多言語社会研究会・『社会言語学』・『リテラシーズ』といった研究潮流,さらに英語教育分野における多数の著作(例, 中村, 1993; 大石, 1990; 津田, 1991) は,その蓄積を示している。にもかかわらず,これらの知的営為への言及が欠落したまま議論が構成されると,英語圏の知で日本の言語教育を啓蒙するというコロニアリスト的構図が再生産されてしまう。
(d) 反差別闘争の歴史の不可視化
母語話者至上主義をめぐる研究では,日本における英語母語話者の雇用差別――英語母語話者が優遇されているというフレーミングにとどまらず,不当に冷遇されているというタイプの雇用差別も含む――が批判的に検討されてきた(e.g., Houghton & Rivers, 2013) 。しかしながら,この種の研究では,日本において以前から展開されてきた,外国籍者の雇用差別をめぐる闘争や知的蓄積への言及がほとんど見られない。実際には,戦後日本において外国籍教員の採用・昇進をめぐる闘争は,在日コリアンを中心に継続的に展開されてきた(中島 et al., 2021; 日高 & 徐, 1980) 。さらに,裁判闘争にとどまらず,個々の教員の抵抗,市民運動,行政内部での制度改善など,多層的な実践が積み重ねられてきた(例,中島 et al., 2021; 水野 & 文, 2015; 田中, 1991)。こうした蓄積は,外国籍教員の雇用制度の(完璧というには程遠いが一部の)改善にも結実している。
歴史への言及の欠如は,これまで闘ってきた人々への敬意を欠いているという点だけでも十分に批判に値する。 そればかりか,「英語圏で発展した理論によって日本の雇用差別が初めて可視化された」というメッセージを発しかねず,結果としてコロニアリスト的構図を再生産してしまう。しかも,母語話者至上主義研究という,本来コロニアリズムに対して敏感であるべき分野においてすらこのような構図が見られる点は,きわめて皮肉である。
5.3. 成果の横取り
ローカルの主体性を不可視化することは,現地社会の人々の闘争の成果を(おそらく無意識に)「横取り」するという,さらに露骨な帰結もある。これが第三の問題である。
ある社会の不正義(例,英語母語話者至上主義)を研究者が告発した結果,それが正論として当該社会に受け入れられ,成功裏に言論状況が改善されたという状況を考えてみよう。この「成功」に貢献したのは,その告発の妥当性もさることながら,その告発を受け入れるだけの土壌が当該社会の側に既に備わっていたからでもある。そして,なぜその土壌があったかといえば,そのための「地ならし」――たとえば言論闘争,法廷闘争,抵抗運動,日常生活における異議申し立て・問題提起――を行ってきた先行者の存在があったからにほかならない。にもかかわらず,もし先行者への言及や敬意を欠いていたならば,先行者の成果を事実上簒奪するものとなる。たとえば,英語帝国主義や英語母語話者至上主義,あるいは批判的応用言語学,「リンガフランカとしての英語」といった「英語圏」由来の概念を日本に紹介できるのは,紹介が可能になるだけの土壌が既に用意されていたからにほかならないし,それは先行者の知的あるいは運動的実践があったからこそだという認識が必要である。 5
「横取り」が最も露骨に現れるのは,差別とそれに対する闘争をめぐる議論においてである。上記 (d) で見た通り,日本社会における英語母語話者の雇用差別を論じる中で,過去の反差別闘争や制度改革の歴史が一切言及されないことはしばしばある。これは先行研究レビューの不十分さというだけでなく,過去の成果へのフリーライドとすら言いうる。なぜなら,英語母語話者至上主義論は,「雇用差別」論議を展開するにあたり様々な言論資源を利用しているが,それらの多くは戦後日本で繰り広げられた裁判闘争や市民運動によって蓄積されてきたものだからである。こうした歴史的蓄積を不可視化したまま現在の議論を提示することは,ローカルの主体的実践を消去するだけでなく,その知的貢献を不当に占有する行為として,倫理的に大きな問題を孕むだろう。
以上のように,コロニアリスト研究慣行は,研究の質を低下させるという認識論的問題だけでなく,知の不平等を再生産し,現地の主体性や知的貢献を不可視化するという倫理的・運動論的な問題も孕んでいる。したがって,これらの慣行を批判的に検討し,より公正で文脈に根ざした研究実践を構想することが求められる。
6. 実践をめぐる難題
前節までで,コロニアリスト研究慣行の問題点を述べてきた。ごく無難な正論しか述べておらず,いずれも比較的容易に合意に至ることができる論点だと思われる。対照的に,一筋縄には行かないのが実践レベルである。つまり,どのような具体的アクションがコロニアリスト研究慣行を乗り越えるために必要かという論点である。以下に見ていく通り,この点については容易に合意可能な結論が得られそうもない。以下,本章の締めくくりとして,この概念がはらむ実践上の困難性について検討したい。
6.1. 強力な批判ツールか? それとも単なる「救世主主義」か?
コロニアリスト研究慣行は,「外の世界からやってきた救世主が,未開社会の悪習を撲滅し,未開人を解放する」という救世主主義と相似形をなす。6 とはいえ,「救世主」的な概念装置を全面的に排除することも難しい。というのも,理論や概念は定義上,抽象的=脱文脈的なものであり,特定の社会を理論的に批判する際には,当該社会にとって「外部のもの」に一定程度依拠せざるを得ないからである。救世主的なものの一切を排除すると,最悪の場合,何も批判ができなくなるという事態もあり得る。
この点を踏まえるならば,救世主主義や上から目線を機械的に一律否認するのではなく,「問題のある救世主主義」や「悪しき上から目線」を,「相対的に許容可能なそれ」と区別することが重要となる。もちろん,このような線引き自体が高度に政治的な作業である以上,「なぜこちらは許され,あちらは許されないのか」という論争を不可避的に伴う。しかし,こうした規範的判断は,有意味な批判的議論にとって不可欠であり,これを避けて「すべての理論はローカルな文脈から独立した静的・固定的なものである」などと宣言し,価値判断を停止する極端な相対主義は,むしろ不誠実であろう。
もちろんこの線引き・価値判断は完全にケースバイケースで行われるべきである。 たとえば,次のような様々な条件を複合的に踏まえる必要があるだろう。
批判対象となる事象の性格 :
当該事象を取り巻く文脈
その問題が生じた原因はなにか。
どのような歴史的経緯があるのか。
誰に責任があるのか(現地の悪習?欧米の過去の植民地主義?グローバル資本主義?)。
当事者の特性 :
当事者は孤立無援の状況にまで追い込まれているか。
それとも,すでに当該問題に長い間取り組んできているか。
批判する側の経歴・立ち位置 :
批判者は当事者か。
アライ的立場の非当事者か。
あるいはコミットメントの乏しい完全な第三者か。
そして,どのようなアクションをこれまで行ってきたか,これから起こすつもりか。
批判の目的 :
批判者は,当事者や当該社会の変革を志向しているか(そうであれば現地語による発信・執筆が望ましいかもしれない)。
当該社会に対するルサンチマンに由来するものか。
それとも,単なる「研究業績稼ぎ」のためか。
このように,線引きや価値判断はきわめて複雑で,しかも高度に政治的な作業であり,容易に合意が得られるものではない。だからこそ,論争を招きうる点も含めて,自らの論点や立場を積極的に明示し,対話的に議論を深めていくことが求められる。少なくとも,合意形成の困難さに立ちすくみ,価値判断そのものを放棄してしまうことは避けるべきである。
6.2. 日本の近現代史とコロニアリズム
もうひとつの実践上の難題が,日本の近現代史とコロニアリズム関連の諸概念――西洋中心主義,オリエンタリズム,帝国主義――との複雑な関係である。
日本の言語教育は,近代において,西欧列強のコロニアリズムや帝国主義への抵抗のなかで鍛えられてきた面がある(江利川,2025)。しかしその一方で,日本自身もやがてアジア太平洋地域を植民地化する帝国主義の側に回った。つまり日本は,近代以降,西洋の帝国主義・コロニアリズムの被害者であったと同時に,明白な加害者でもあった (姜, 2001; 小森, 2001; 嵯峨, 2020; 本橋, 2005; 米谷, 2006) 。実際,日本の近代以降のコロニアリスト言説は,自らに向けられたコロニアリスト的まなざしをアジアの他者へと転嫁することで,自らの被植民地性を払拭しようとする,ねじれた構造をしばしば示してきた。
同様に,日本において帝国主義批判や西洋中心主義への異議申し立てとして機能してきた言説資源のなかには,容易に暴力的・排外的な方向へ転化しうるものも含まれている。 英語偏重への批判的言説もその典型であり,これらが戦前において国粋主義や日本文化本質主義と結びついてきたことは有名である (江利川, 2022) 。近年のいわゆる「ネット保守」的言説のなかにも,日本社会の英語偏重を批判するために排外主義や国粋主義を全面的に展開するものが散見される。
このように,西洋中心主義に対する異議申し立てが国粋主義と合流しがちなのはゆえなきことではない。というのも,両者はいずれも,「ローカル=私たち」の尊厳がないがしろにされているという感覚を出発点にしているからである。したがって,この不幸な合流を避けるには,「我々は部外者によってないがしろにされている」というウチ・ソト関係としてではなく,より大きな権力による抑圧の問題,すなわち,西洋・英語圏の知が非西洋・非英語圏を抑圧しているという構図として捉える視点が必要である。そのうえで,権力を行使する側に対して,ローカルな文脈をきちんと考慮せよ,それを踏みにじるなと求めることは正当である。
その意味で,「コロニアリズム」という用語は,上記の立場を比較的明確に打ち出しやすいと思われる。この語は,英語帝国主義7 ・英語支配・英語母語話者至上主義のような政治的含意が曖昧な語よりも,権力や不正義への規範的・倫理的な異議申し立ての含意が強いからである。もちろん,日本が戦前にアジア・太平洋地域を植民地化した加害者であったこと,また戦後も経済力を通じて欧米とともにネオコロニアリズムに加担してきたことを踏まえれば,この語を「被害者」然として軽々しく用いるべきではない。だが逆に言えば,その歴史的重みを十分に意識しつつ慎重に用いるかぎりで,この語には有効な批判概念としての可能性があるように思われる。
7. 結論
本稿では,言語教育研究におけるコロニアリスト研究慣行を問題として取り上げ,その基本的論点を整理・検討した。とりわけ,日本の英語教育に関する批判的研究を主たる素材として,その問題を論じてきた。ここで問題にしたのは,英語圏で流通する知識を不当に優先し,反対に,現地語で蓄積されてきた知識やローカルの文脈を不当に軽視する研究慣行である。こうした慣行は,単に「雑な研究」であるというにとどまらず,研究の発見性と妥当性を低下させるという認識論的問題,知の不平等を再生産し,ローカルの主体性や先行者の知的貢献を不可視化するという倫理的問題を孕んでいる。
とりわけ本稿が強調したかったのは,批判的研究には,その定義上,非批判的 (noncritical) な研究以上に,自らの方法やフレーミングそのものもまた批判の対象となりうるという,再帰的な難題が伴うという点である。社会正義を掲げ,不正義の告発を目的とする研究であっても,事例選択や理論選択の段階で,西洋中心主義・オリエンタリスト・コロニアリスト的なフレーミングを再生産してしまうことはありうる。特定社会の後進性や異常性を告発する研究は,その告発の仕方いかんによっては,それ自体が別種の不正義を構成してしまう。批判的研究とは,つねに自らの立脚点や批判の形式そのものを問い返される,不安定で再帰的な営みなのである。
しかし,他方で,この困難さを理由に価値判断そのものを停止すべきではないことも事実である。批判的理論や社会正義概念を用いてローカルの個別具体的な現象を批判することは,たしかに「救世主主義」や「上から目線」と紙一重である。とはいえ,だからといって,外部の理論的資源を用いること自体を全面的に否定すれば,不正義を批判する回路まで失われてしまうだろう。必要なのは,「救世主主義だからダメ」と機械的に断じることではなく,どのような条件のもとでその批判がより公正になるのかを,個別具体的に検討することである。
個別具体的な検討の一環として,本稿が問うてきたのは,研究者が日常的に行う研究慣行のあり方である。 つまり,何を読み何を読まず,誰の知識を参照し誰の知識を無視するのか,どの言語で書かれた先行研究を必要なものとみなし,どの言語で書かれた文献を「読むだけ時間の無駄」として扱うのか,という水準の実践である。 コロニアリスト研究慣行の問題は,まさにこのような日々の選択と黙殺の積み重ねのなかで生じる。したがって,本稿が問うてきたのは,現地語文献への依拠,ローカルな知的蓄積や先行する闘争への参照,そして英語圏の理論や概念の用い方といった,研究慣行上の点検項目を,コロニアリズムという観点から可視化することの必要性である。
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