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- 国際英語の既存の規範を言語差別・マイクロアグレッションと厳しく批判する論文(かどや,2023) - こにしき(言葉・日本社会・教育)
- 反差別英語教育論と国際英語論 - こにしき(言葉・日本社会・教育)
もうひとつ評者が指摘したいのは,同論文の提言は,メリトクラシー(能力主義)という難題をどう乗り越えられるのかという点である。 既存のメリトクラシー論で検討対象とされる「能力」は多岐にわたるが,本書評では,英語運用能力に焦点を絞る。英語運用能力メリトクラシーのポイントは大別して3点である。第一に,その運用能力は本人の努力の結果として獲得されたと概念化されている点である。第二言語英語話者を念頭に置くとこの理路はわかりやすいが,母語話者も無縁ではない。なぜなら,母語話者の場合も「教養ある英語」「書き言葉の英語」については意識的な学習が必要だとしばしば概念化されるからである。英語運用能力メリトクラシーのポイントの第二は,努力の結果であるからこそ,英語運用能力を持つ人を持たない人よりも優遇することは正当だという価値判断である。そして,第三に,本人の努力とは無関係な幸運に関わる要因――典型的には親の職業・所得,出身地,世代,先天的(と概念化された)な身体的特徴,そして母語――よりも,「獲得された」英語運用能力を大きく優遇すべきだとする考え方である。
以上の特徴づけは,一見,内輪英語規範に偏った基準であるが,実は,内輪英語規範から離脱する志向も大きい。
なぜなら,運用能力を優先順位の最上位におくことで,発音・文法・語彙選択の「自然さ」が相対的下位に置かれるので,母語話者が圧倒的に有利になる基準が緩和されるからである。
実際,この原理にはそうした解放志向があるので,非母語話者の英語をエンパワーメントし,内輪英語規範を厳しく批判する人々(研究者だけでなく,起業家や政治家,活動家も含む)の多くに歓迎されているだろう。
そもそもそうした論者たちこそ,ある意味で,英語能力メリトクラシーの体現者である。
なぜなら,「自分らしい」英語で世界と渡り合ってきて,また,(英語の自然さではなく)渡り合ってきたという実績が周囲から評価されてきたからこそ,「自分らしい英語を!」とプレゼンテーションできる場を与えられたと言えるからである。
ひるがえって,かどや論文には,暗示的にはメリトクラシーへの批判的態度が読み取れるものの,少なくとも明示的な検討はない。
しかしながら,評者は,メリトクラシーこそ,かどやの提言を具体化するうえで大きな障害になり,だからこそ,重要な問題を提起するものではないかと考える。
以下,詳しく説明する。
かどやも指摘する通り,既存のリベラルな英語論(たとえば,世界諸英語論 [World Englishes],リンガフランカ論,反ネイティブスピーカー主義)は,多様性・寛容性にダブルスタンダードを用意している。
かどやの指摘は,多様性と言いつつ内輪英語規範を密輸入していることに対する批判だが,評者は,メリトクラシーを密輸入しているという批判も可能であると考える。
つまり,発音・語法・語彙選択といった言語表現レベルの逸脱には寛容だが,英語運用能力の低さには不寛容だというダブルスタンダードである。
評者が知る限り,既存の英語論で,低い英語力を積極的にエンパワメントしようとする議論はほとんどないと思われる1。
たしかに,比較として見るならば,流暢性などの運用能力のほうが,言語表現の「自然さ」よりも,基準としてより公平だろう(あくまで比較的な話だが)。
たとえば,淀みなく,かつ,クリアな筋道で英語を話すことは,英語母語話者でも困難な人が多いが,非母語話者にはこの境地に到達している人も少なくない。
こうした基準ならば,母語話者の一人勝ちはなくなる。
しかしながら,これは伝統的なルールを別のルールで置き換えただけであり,依然,序列化を行っていることに注意が必要である。
序列化とは,あるものを別のものより劣位に置く操作であり,本質的に多様性尊重の真逆である。
この序列化作業のなかで,一定以上の英語運用能力を下回る者は実質的に排除されており,かつ,その排除は正当(少なくとも仕方ないもの)と認識されている。
象徴的な事例として,国際英語論(あるいは反母語話者主義論やデコロニアルな英語教育論でもいい)に関するシンポジウムが指摘できる。
ほとんどの場合,その登壇者は,流暢な英語話者(第一言語あるいは第二言語として)である。
また,オーディエンスに英語運用能力が乏しい者がいることはおそらくほとんど想定されていない。
その証拠に同時通訳・逐次通訳が提供されることは稀である。
別の例として,グローバルビジネスにおける英語コミュニケーション言説があげられる。
しばしば「日本人なまりの英語でかまわないからとくにかく自己主張しないとグローバルビジネスでは生き抜けない」といった言説をしばしば見かけるが,この言説の前提は,訛りがあろうがなかろうが自由に自己主張できる程度には英語を習得する必要があるという含意がある。
つまり,そのレベルに達していなければグローバルコミュニケーションからは退場もやむなしという排除の論理である。
こうしたメリトクラシー規範が下支えしているのが,現在の母語話者規範から「ほどよく離脱」した英語規範である。
メリトクラシーは,以下に見る通り,マイケル・ヤングがこの語を提唱した1950年代から多岐にわたる問題点が指摘されてきた。
したがって,既存の英語規範がメリトクラシーに基づいていることに同意するならば,必然的に,既存の英語規範にも多くのメリトクラシー的問題を抱え込んでいることを自覚しなければならない。
他方,メリトクラシーは,数多の批判にもかかわらず,しぶとく生き延びてきた。
実際,私たちの社会の細部にまで浸透する非常に強力な原理であり,非常に手強い。
これは,メリトクラシーに基づく既存の英語規範も非常に手強いということを意味している。
この手強さを象徴するのが,国際英語論あるいは応用言語学におけるメリトクラシー批判の異常なまでの少なさである。
しばしば,応用言語学は,多数の概念を(教育)社会学から輸入してきているが,マイケル・ヤングから連なるメリトクラシー批判の参照は少ないと思われる。
また,流行に飛びつきがちだと揶揄されることもある応用言語学者だが (Schmenk, Breidbach, & Küster2018),米国をはじめとして世界でベストセラーになっているマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』に「飛びつく」流れはほとんどないようである。
かどや論文の提言はどれも英語能力メリトクラシーと基本的に対立関係にあるが,とくに鋭く対立するのが,内輪英語規範のディスエンパワメント=特権剥奪という提言であると思われる。
なぜならば,特権剥奪は,国際英語であれ内輪英語であれ,苦労して英語を習得し,その結果として地位達成を果たしたと自負する第二言語使用者の価値観と衝突し得るからである。
特権剥奪とは,形式的には国際コミュニケーションのルール変更にほかならないが,既存のルールで地位達成してきたひとにとって,特権剥奪という事後的なルール変更には抵抗があるだろう。
なかでも人一倍努力してきたと自負する人ほど,ルール変更は,自分のこれまでの努力が過小評価されたと感じてしまう。
ヤング(1959=2021)からサンデル(2021)に至るまで,既存のメリトクラシー論は,能力形成を個人の努力に還元する幻想を厳しく批判してきた。
つまり,能力が個人の努力だけで形成されるという誤信念,そして,だからこそ能力にもとづいて序列化することは努力に対する対価であり,正当なものだという誤信念である。
個人の英語能力も,恵まれた家庭環境・生育環境や出身国,出身地の学校制度,そして,遺伝子レベルの幸運(知能だけでなく,学習継続を可能にする身体的・精神的健康も含む)などによって左右されているが,そうした多岐にわたる幸運の蓄積は意識されることは少ない。
むしろ,主観的には,英語能力の達成は,自身の努力,およびいくばくかの目に見える幸運・他者からの援助(例,家族のサポート,恩師の助言,奨学金2)で形成されていると観念されている。
このような理路を内面化している人にとっては,英語力が低いために国際コミュニケーションから排除された人がいたとしても,それはその人が努力を怠ったために過ぎないと正当化される。
こうした言説状況において,特権剥奪という提案は,「努力をしなかった人」たちが「努力をした私たち」の成果を不当に横取りするかのように感じられてしまうだろう。
英語習得への努力,配慮の努力
さらに,努力の価値を過大評価する英語能力メリトクラシー言説は,英語コミュニケーションの失敗を努力不足に帰するという問題も生じさせている。
英語運用能力の不足は,単にその人が試験やビジネスで失敗すること(つまり,メリトクラシー言説の頻出キーワードである「自己責任」)だけではない。
そればかりか,国際コミュニケーションにおける対話相手の不利益も含意する。
英語力不足によってコミュニケーションが失敗すれば,それは相手にとっても不利益になる。
この場合,ある人の英語力不足は,対話を協同的に作り上げる努力の怠慢にまで拡張されるだろう。
この点でも,既存のリベラルな英語論は,英語の言語的変種には寛容だが,努力不足(に見える行動・態度)には手厳しい。
さらに厄介なのが,一見無関係なコミュニケーション・エチケットも,メリトクラシーや努力言説と根底でつながっている点である。
しばしば,国際英語の多様な表現を論じる際に,「発音や表現は母語話者基準から逸脱していてもかまわないが,聞き手にとって負荷がかからないように注意すべきだ(つまり,「聞き手に負荷のかかる逸脱は認められない」を含意)」という他者への配慮=エチケットが,内輪英語規範にかわる,新たな規範として提示されることがある。
エチケットは往々にして私たちの常識を資源にしているため,一見きわめて穏当な主張である。
しかしながら,以下で論じる通り,実際にはメリトクラシーを媒介にした不平等な構造を背後に持っており,したがって,その妥当性は自明ではない。
とりわけ国際コミュニケーション場面のように,多様な能力や価値観が介在する場面では,他者への配慮は,話者の自由意志だけに還元できない複雑な問題を抱え込んでいる。
その問題を一言で言えば,私たちは,他者が表出する「配慮」や「努力」を,まさしく配慮・努力している過程を見ているわけではなく,実はアウトプットだけを見て推測しているという点である。
一例として,ある非母語話者が,母語話者基準からするときわめて失礼な語を使って応答した場面を想像してみよう。
この単語選択が,その人の意図通りなのか,それとも英語力不足に起因するミスなのかを判別することは原理的に不可能である。
たとえば,意図通り,すなわち,「相手のことを配慮シニア粗雑なコミュニケーショ観の現れ」とも解釈できるが,同時に,「相手に最大限の敬意を払い,細心の注意で言葉を選ぼうとしていたのに,英語の知識や運用能力(たとえば,自身の発話をモニターするだけの余裕がなかった)が乏しかったために失礼な単語を選んでしまった」という同情的な解釈も可能である。
どちらが正しいかは原理的には不確定である3。
しかし,この不確定性にもかかわらず,多くの人は,通常,前者の解釈をとるだろう。
これは,意図はともかく失礼な言い方になったという事実を重く見ているからであり,また,百歩譲ってそれが能力不足に起因するにしても,エチケットに配慮できるだけの英語能力を身につけてこなかったという努力不足に帰責できるからである。
単語選択という局所的な事案だけでなく,より一般的なコミュニケーション上の配慮も,能力と依存関係にある。
たとえば,英語圏ビジネス慣行に慣れた母語話者は,受け手に完璧に配慮した(配慮したと受け取られる)メール――過度に簡便でもなく,かといって,冗長でもない,相手へのリスペクトと簡潔明瞭さを併せ持つメール――がほんの数分で書けるだろう。
対照的に,英語習得途上の者にとって,それすらきわめて難しいことは珍しくない。
たとえ何時間かけても,読み手に負荷をかける文面になってしまうことは往々にしてあり,その場合,読み手への配慮不足と評価されることになる。
恵まれていない境遇にある学習者の場合,これはさらに深刻である。
たとえば,校正業者に頼る経済的余裕がない学習者,グローバルビジネスマナー(あるいはホワイトカラーやミドルクラスのエチケット)と無縁で暮らしてきた社会階層の出身者の場合,実際には非常に多くの時間をかけて受け手に配慮した文面を練っても,アウトプットだけ見れば「他人への配慮を欠いた英語」と受け取られてしまう可能性がある。
要するに,他者への配慮と能力は連動しており,それは国際コミュニケーションのように,参与者の能力・価値観・社会条件が多様な場面ではより顕在しやすい。
しかし,配慮の背後に能力が絡んでいるという構造は,メリトクラシーに対する批判意識(そこまでではなくとも相対化する感覚)があって初めて認識できるものである。
逆に,英語能力メリトクラシーを完全に自明視している者は,国際コミュニケーションに潜む不平等をマナーのような徳目としてまなざすことしかできなくなる。
英語規範だけでなくメリトクラシーも解放できるのか
評者の持論展開が長くなってしまったので,かどや論文の文脈に戻ろう。
かどやは,国際英語規範を解放するうえでの障害として,既存の英語論の批判的意識の乏しさを指摘している。
つまり,国際コミュニケーションに,内輪英語規範が密輸入されていること,そして,それを言語差別・マイクロアグレッションとして概念化することに対する自覚の乏しさである。
もちろんそれらも重大な障害である。
他方で,評者は,以上で論じた通り,英語能力メリトクラシーも深刻な障害であることを指摘したい。
しかも,厄介なのが,メリトクラシーは私たちの社会構造に深く根ざしていることである。
厄介さんのひとつが,英語能力メリトクラシーは,相対的受益者である母語話者だけでなく,被害者側の非母語話者も内面化していることである。
むしろ,英語習得に成功した非母語話者に最も根強いかもしれない。
母語話者によるアドバンテージは比較的自明であり,したがって,その特権性に自覚的になれる契機もある。
他方,英語習得に成功した者の場合,現在の特権的な地位が,英語習得に費やした努力の正当的な対価として理解されやすく,だからこそメリトクラシーの諸問題が不可視化されやすいからである。
また,別の困難として指摘すべき点が,英語能力メリトクラシーはすでに私たちの生活領域をおおいに侵食している点である。
現代社会で,私たちは,日々,英語能力メリトクラシーの実践を強いられ,したがってそれが身体化されてしまっている。
入試や採用面接,学校での評価などを思い浮かべればわかりやすい。
こうした制度的なものばかりか,もっと身近なレベルにも英語能力メリトクラシーは侵食してきている。
たとえば,私たちは毎日,世界中から届く大量のスパムメールをゴミ箱にいれる作業に追われているだろう。
このいわば「手動スパムフィルタ」業務では,メール内容だけでなく,形式も考慮してスパム判定するわけだが,形式面の評価では,言語使用の正しさ,適切さ,そして,美しさをもとに判定している。
効率性のもとに「不自然」な英語使用は,問答無用で切り捨てなければいけない。
そこには,メール送り手が「もしかしたら不遇な環境のせいで英語が身につかなかったのかもしれない」といった同情は働かないし,メリトラクシーに支配された自身の判定行為へも批判意識が働かない。
もちろん,評者は「一見スパムに見えるメールにも真摯に向き合うべきだ」と主張しているわけではない。
そうではなく,私たちは,たとえメリトクラシーが不当であることに頭では気づいていても,それを日々の営みにおいて実践しなければならないこと,そして,それを現代社会の構造が私たちにしむけていることを主張しているのである。
まとめ
以上,本書評では,かどや論文の問題意識および提案を認めたうえで,その議論と密接に関係しつつも,かどやが深く論じていない論点を2つ検討した。
すなわち,既存の反差別英語教育論との関係,および,英語能力メリトクラシーとの関係である。
評者の指摘は,かどやの提案が実現するうえでの新たな難題に関するものであるが,具体的にそれを乗り越える方策を示したものではない。
評者の力量を超えているし,一般論から言っても容易な解決はおそらく無理であろう――その証拠に,マイケル・サンデルをはじめとして既存のメリトクラシー批判はいずれもわかりやすい処方箋は提示していない。
その困難性を関係者が自覚するのが,解決へ向けた果てしない道のりの第一歩と考えられる。
本論文評が,その一助になれば幸いである。
また,特定の論文に対するレビューという文脈を離れて,本論文評が,英語論一般にも新たな論点を提示できた面はあると思われる。
とりわけ,国際英語論の文脈において,反差別英語教育論およびメリトクラシーの位置づけを論じたものは,私の知る限り,ほとんどなく,その点で重要な論点を提示できた可能性がある4。
この点について,国際英語論の研究者・関係者の評価をうかがえれば光栄である。