こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

盗用・剽窃のフローチャート

期末レポートの季節ですね。別名、「盗用・剽窃」指導の季節ですね…。

大学教員には(おそらく)あまりにも自明な「なぜ剽窃がだめなのか、何が剽窃にあたるのか」ですが、学生からはその基準がわかりづらいという声がしばしば聞かれます。

剽窃=アウト」の話は、以下の2種類の「罪」が混在しているからわかりにくいんだと思います。つまり、

  • アイディアを他人から借りたのに、クレジットを表記しないという罪
  • 自分で文章を「創造」せず、他人の文章を借りてお茶を濁す怠惰という罪

前者は出典を明示すればセーフになりますが、後者は出典を明示する・しないにかかわらずアウトです(例外は直接引用)

前者、つまり「人のアイディアを自分の発案であるかのようにパクる」はいかにもズルいので、倫理的にアウトというのはわかりやすいでしょう。

一方、わかりにくいのが後者。これは、「他人の文章を使うのは悪」という感覚が、生活実感や「大学の外の常識」と乖離しているからでしょうね。「出典を明示してるんだから、その文章をある程度コピペして借りてきてもいいのに、なんで卑劣な奴みたいになじられなきゃいけないの」という反応が出ることは、わからんでもありません。

実際、私たちは他人の言葉・文章をパクって(借りて)暮らしています。極端な例は、日常会話。私たちは他人の言葉をパッチワークで喋っています。(完全にクリエイティブな「自分だけの言語」では、他人とコミュニケーションができません)

また、アカデミックあるいはクリエイティブな文章を書くことを生業にしている人(研究者、作家、記者など)であっても、事務的な文章では他人の文章をパクる(借りる)ことはごく当たり前ですよね。たとえば、経理申請書類とか出張届けとか事務的なメールの文章とか。

上記の (a) (b) の基準をなぐり書きしてみました。こんな汚い図を使いたい人はいないと思いますが、ご自由にお使いください。

英語教育政策研究における「学習指導要領」の取り扱い

日本の英語教育政策に関する論文を読んでいると、しばしば学習指導要領の位置づけが不思議な分析を見かけることがある。

その不思議さを一言でいうと、学習指導要領が、どの程度の制度的拘束力を発揮しているのか明確になっていないという点である。もっとストレートに言うと、「学習指導要領を法律かなにかだと思ってない?」という違和感である。

これは、重箱の隅をつつく指摘ではなく、むしろ理論的にかなりクリティカルな点である。 というのも、学習指導要領の英語教育に関する記述が、どれだけ現場の実践を拘束しているかを理解しなければ、ある施策の影響力を測ることはできないからだ。それができなければ、政策の研究としてはもはや片手落ちになる。

学習指導要領と現場の agency

最近のトレンドとして、英語教育政策における英語教員の agency を検討する研究がある。 そこでは マクロなアクター(例、政府)がある政策を実施しようとする際、ミクロのアクター(例、現場の教職員)はその政策をただ受動的に実行する存在ではなく、自律的に応答する――教員らは、その政策を改変・抵抗・無視するため、政府の意図通りの政策実施は必ずしも実現しない と考えられている。

とりわけ、日本の英語教育政策は、しばしば 現場の agency の好事例として扱われる。 つまり、文科省が学習指導要領を改訂し、「こういうふうに、新しい英語教育をしてくださいよ」と叫んでも、現場はぜんぜん言うことを聞かない。業界の人間にとっては耳にタコができるほどよく聞く話だが、このときの現場の応答こそが agency の発揮というわけである(なお、この書き方から明らかなとおり、現場の自律的な動きは、必ずしもポジティブ/生産的なものとは限らない)

たとえば、Glasgow & Paller (2016) には、次のような記述がある。

The translation-communication debate is a prime example of contradiction in the policy formulation process, where the de jure policies manifest in the senior high school Course of Study through the revisions of its subjects and the creation of textbooks, contrast sharply from the de facto practices found in both public and private academic senior high schools, which privilege juken eigo (or English for the purpose of university entrance exam preparation). ... Therefore, a major challenge for Japan will be to rethink how to bridge the divide between the de jure methods policy (communication) and the de facto methods policy (translation-based methods) (Section 4.1.)

図式的にまとめるならば、

  • 学習指導要領をもとに改革プランを押し付ける文科省 vs. 自律的に応答する現場

のようになる。

問題は、この図式では、学習指導要領にきわめて強い制度的拘束力があることが暗黙の前提になっている点である。 強い拘束力があるからこそ、その反作用としての現場の agency は輝くわけだ。 逆に、拘束力がない「命令」を無視して人々が自由きままに行動していても、それはごく当たり前の話で、わざわざ人々の agency として記述する意義はない。 たとえば、「○○○ドルを支払え」と命令するスパムメールに対して、人々が自律的に振る舞っていても(例、無視、通報、SNSへの晒し上げ)、それを agency の現れとして賞揚することはまずないだろう。

学習指導要領は法律ではない

学習指導要領が法律でないことは業界の人間には常識である。 しかし、日本の教育制度に明るくない人(いわゆる外国人だけでなく、教育行政の知識がない日本人も含む)は、しばしば法律のようなものとして誤解しており、まるで「現場が守るべきルールブック」のように扱っていることがある。

この辺りは、以前書いた本で説明したことがあるので(寺沢, 2020)、それをセルフ引用する。

学習指導要領とは
 学習指導要領に馴染みがない読者もいると思うので、日本の教育政策においてどのような位置づけにあるか簡単に確認しておく。
 教育政策を考えるとき、骨格部分を法律(教育基本法、学校教育法、その他の教育関連法規)とすれば、学習指導要領は肉づけの部分にあたる。両者の大きな違いは、変更のハードルの高さである。前者は、国会の審議を要する以上、政権や文科省の独自の判断では変更できず、したがって、民主的正統性は高い。一方、学習指導要領は文科省の告示であり、告示そのものは法律ではない。したがって、国会審議を必要とせず、変更・修正のハードルは比較的低い。
 小学校英語をめぐる政策動向で圧倒的に重要なのは、この肉づけの部分である。戦後の学校教育における具体的な教育課程は原則として学習指導要領に基づいており、たとえば「小学校英語教育法」のようなものが制定されてきたわけではない。なるほど、教育内容を具体化するうえで法律は重厚過ぎる。その意味で、自由度の高い告示文書が教育課程の中心をなすことは不自然なことではない。 自由度が高いと述べたが、文科省が(ということは文科官僚が)まったくのフリーハンドで学習指導要領を作っているわけではない。正式に告示されるまでに、内閣や国会議員との意見交換、審議会、そしてパブリックコメントなどを通じ、文科省の外部の目に晒される。したがって、健全な制度運営がなされている限り(国会による承認ほどではないにせよ)相当の民主的正統性は担保されている。


このように、学習指導要領は法律ではない。

私達の民意を反映した(と架構される)国会で承認されているわけではないので、究極的に言えば、守るいわれはない。 ただ、ややこしいことに、学習指導要領の位置づけに関連した戦後の様々な裁判・判例を考慮すると、根拠法が存在することもあり、全体としては法的拘束力を持つとされる(大綱的基準説と呼ばれる)。 しかし、さらにややこしいが、いずれの裁判でも、学習指導要領の個々の項目にまで法的拘束力を認めているものはない。 つまり、学習指導要領の一項目として「英語は英語で教えよ」と書いてあっても、それを守る義務はないのである。

そういう意味でいうと、学習指導要領・外国語編の個々の項目(「英語で教えよ」とか「コミュニケーションが大事だ」とかなんとか)は、象徴的な性格が強く、実際に、現場を制度的に拘束しているものはもっと別のものということになる。

たとえば、学習指導要領の『解説』は、官僚がわりと自由に作文しているので、学習指導要領本体よりもさらに民主的正統性が低い。 その一方で、教科書会社は『解説』を参考に、教科書を企画・編集するので、現場への直接的な影響という点ではこちらも重視するべきだろう。

また、そもそも、小中高校の教員は、一部を除き、国に雇用されているわけではないし、したがって、国は個々の教員に指示を出す権限はない。現場を拘束しているのは(そして現場の agency と対になるものは)、直接的には、地方自治体(教育委員会)や学校法人、その学校の管理職である。

以上の錯綜した部分をきちんと理解しているように思える英語教育政策研究は、残念ながら少ない。とりわけ、英語文献だけで日本の英語教育を論じようとする研究者は、ほぼ例外なく理解していないようにみえる(たとえば、前述のGlasgow & Paller, 2016)。 学習指導要領本体は英訳されていても、『解説』は英訳されていないのが原因の一つだと思う。

この錯綜した点は、後日、あらためて整理したい。

文献

  • Glasgow, G. P., & Paller, D. L. (2016). English language education policy in Japan: At a crossroads. In R. Kirkpatrick (Ed.), English Language Education Policy in Asia (pp. 153-180). Cham, Switzerland: Springer.
  • 寺沢拓敬 (2020) 『小学校英語のジレンマ』岩波新書

Flubacher & Del Percio (eds.) (2017) Language, Education and Neoliberalism. Chapters 1-2 メモ

Mi-Cha Flubacher & Alfonso Del Percio (eds.) Language, Education and Neoliberalism. (Multilingual Matters, 2017) を一人読書会している関係で、メモをここに貼り付けます。 要約ですらない完全なメモです。



本書は、以下の引用の通り、AAAL2013でのパネルディスカッションをもとにした成果とのこと。実は私もフロアにいた(意識がもうろうとしていて、内容は(ブルデューが連呼されていた以外は)ほとんど覚えていない)。

We are indebted to a number of people without whom this edited volume would have not seen the light of day. First of all, we would like to thank the contributors and especially the two discussants, Aneta Pavlenko and Luisa Martin Rojo to our panel ‘Neoliberalism linguistically applied’, at the conference of the American Association of Applied Linguistics in Dallas in March 2013.


Chapter 1 | Language, Education and Neoliberalism (Alfonso Del Percio and Mi-Cha Flubacher)

本書の導入的な章。競争的で柔軟・自由な産業・労働力・労働者が必要不可欠だとするマーガレット・サッチャーの1981年の発言を枕にしているのが印象的。

Outline

  • Introduction
  • Studying Neoliberalism
  • The Resignification of Language, Education and the Self
    • The resignification of education
    • The resignification of language
    • The resignification of the self
  • Chapter Breakdown

メモ

小見出しにもあるとおり、ネオリベラリズムと言語の問題を考えるときには、言語(言葉づかい、および、現実を構築する言説という意味だと思われる)、教育(新しいネオリベラル的労働者/市民の形成)、そして、自己が重要であるという。実際、のちの章を流し読みすると、労働者の言語に関するメンタリティの形成の話が非常に多いようだ。

本書にはエンピリカルな研究をおさめたよーという宣言がある。批判的応用言語学の一部には、エンピリカルな研究を軽視、敵視、あるいは誤解している傾向があるので1、地味に重要な指摘。

文献メモ
  • Ganti, T. (2014) Neoliberalism. Annual Review of Anthropology 43, 89-104.

Chapter 2. | The Commodification of Language in Neoliberalizing China: The Cases of English and Mandarin. By Shuang Gao.

Outline

  • Introduction
  • Market, State, and Language Education in Neoliberalizing China
  • The Commodification of English Under the Market Economy
    • English, social stratification and the cultivation of human capital
    • Enterprises of English language education
  • The Marketization of Mandarin Worldwide
    • Neoliberal state and the creation of a linguistic market -'Language in itself is a product'
  • Conclusion
メモ
  • 中国における言語の商品化。実質、言語教育産業の進展の話。英語産業(Crazy English; New Oriental)の例と、中国語の振興事業(孔子学院)。
  • 一言で要約すると、新自由主義は、その公式教義やイメージとちがって、かなり政府の介入を伴うものだけど、中国の英語産業・中国語事業の場合もこの例に漏れず、中国政府・共産党のバックアップが大きいという話。
  • 英語(EFL)の話はともかく、自国語振興は、新自由主義だけではなく、伝統的な保護主義ナショナリズム、あるいは、文化保守主義でも説明できるとおもうので、もうすこし「ほかでもなくなぜ新自由主義なのか」を丁寧に議論してほしかったというのが正直な所。
  • 論文の中心的テーマである「言語の商品化」だけれど、以前に拙稿でも論じた2ように、言語能力が貨幣に換算されるようになるという話と、言語教育サービスの市場規模拡大の話は理論的に区別したほうがよいのではないかなと思った。理論的に、というのは、後者は通常の経済学の考え方でふつうにアプローチできるので。
文献メモ
  • Bolton, K. (2003) Chinese Englishes: A Sociolinguistic History. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Piller, I. and Cho, J. (2013) Neoliberalism as language policy. Language in Society 42 (1), 23-44.
  • Pride, J.B. and Liu, R. (1988) Some aspects of the spread of English in China since 1949. International Journal of Sociology of Language 74, 41-70.
  • Sun, J.J., Hu, P. and Ng, S.H. (2016) Impact of English on education reforms in China: With reference to the learn-English movement, the internationalization of universities and the English language requirement in college entrance examinations. Journal of Multilingual and Multicultural Development 1-14. http://dx.doi.org/10.1080/01434632.2015.1134551.

  1. おそらく「エンピリカル」の意味を哲学的に考える暇がないまま博論を書かなきゃいけなくなった人たちだろうと邪推する。

  2. 『ことばと社会』第19号「特集 ことばの商品化」に論文が掲載されました。 - こにしき(言葉・日本社会・教育)

Does the pandemic hamper or boost the necessity for an international language?

My paper has been accepted by the International Journal of the Sociology of Language. As it will perhaps take several days to finalise the manuscript, I welcome your feedback and comments.

【拡散希望】全国英語教育学会に以前から入会している方にお願い

JASELE(全国英語教育学会)に以前から入会している方にお願いがあります。

過去の全国大会の要旨PDFがパソコンなどに残っていましたら、ご提供いただけないでしょうか。 (※冊子体の予稿集ではなく、200字程度の要旨が載った表形式のものです。参加者だけでなく一般向けにウェブサイトで公開されていたファイルです)

いま私は、テキストマイニングで言語教育系学会の研究トレンドを取り出す分析をはじめています。そのデータとして、JASELE全国大会の要旨集を収集していますが、過去20年の大会でいうと、以下の年度の要旨が見つかりません。

  • 2018年 京都大会(大会ウェブサイトは残っていますが、要旨の場所が不明)
  • 2011年 山形大会(大会ウェブサイト消滅)1
  • 2010年 大阪大会(同上)2
  • 2009年 鳥取大会(同上)
  • 2008年 東京大会(同上)
  • 2007年 大分大会(同上)
  • 2006年 高知大会(同上)
  • 2005年 札幌大会(同上)
  • 2003年 南東大会(同上)
  • 2002年 神戸大会(同上)

もしPCのハードディスクやクラウドなどに保存している方がいましたら、ファイルをご提供いただけないでしょうか。

なお、ファイル提供に倫理的な懸念を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、倫理的な問題はないと思っております。というのも、そもそも、予稿集と違いこのファイルは、当時、ウェブサイトに一般公開されていたものだと思います(実際、上記以外の大会の多くは今もウェブサイトで誰でも閲覧可能な状態です)。

ちなみに、ハードディスクなどを「中身検索」して頂ける方にTipsですが、「JASELE」「全国英語教育学会」ではファイルがヒットしないことがあります(本文に当該語がない場合があるため)。検索ワードの例として、「自由研究発表 シンポジウム 英語」や、「広島 筑波 学芸 教育大」などの常連校の名称(複数)や、著名な先生の名前(複数)で検索するとヒットしやすくなると思います。

謝辞にお名前を掲載するくらいしかできませんが、本プロジェクトの趣旨に賛同頂ける方は、ご協力頂けますと大変ありがたく存じます。 どうぞよろしくお願いいたします。

関西学院大学(准教授)寺沢拓敬

メアドは、terasawatakunori+hatenaあっとまーくgmail.com です。SNS経由でもかまいません。


追伸: 分析イメージは以下のようなものです(以下はあくまで暫定的な、ある種の「テスト」で、この図から実質的な知見は見いだせませんのであしからず)。要旨を形態素解析したうえで、経年的な傾向を取り出すことを予定しています。


  1. この年度については、早速、親切な方からご提供いただきました。ありがとうございます!

  2. 同じくこちらも提供いただきました。大変感謝いたします。

2022年度はサバティカルでバンクーバー滞在です

実は3月末から22年度サバティカルバンクーバーに来ています。ブリティッシュコロンビア大学の久保田竜子先生にホストとして受け入れていただきました。来年の3月まで滞在する予定です。

関学研究室宛に電話・郵便をされても転送サービスはありませんので、メールなどでご連絡ください。

大学の写真をなぜか一枚も撮ってないので代わりにダウンタウンの写真!

久保田先生とのプロジェクト+α

terasawat.hatenablog.jp


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バイリンガル教育の政策実施(現場レベルでの実施)における教師の言語イデオロギー

先日の 言語教育政策論文オンライン読書会(5月例会)で読んだ論文のまとめ。 バイリンガル教育の政策実施(現場レベルでの実施)における教師の言語イデオロギーに関する論文。 アブストにもあるとおり複数の重要な論点がフォーカスされているが、個人的には、バイリンガル教育や equity の話よりも教師の言語イデオロギーにかなりウェイトを置いているなあというのが印象。

課題文献
  • Christian E. Zuniga, Kathryn I. Henderson & Deborah K. Palmer (2018) Language policy toward equity: how bilingual teachers use policy mandates to their own ends, Language and Education, 32:1, 60-7OI: 10.1080/09500782.2017.1349792

要約

From ABSTRACT

  • The intersection of equity goals and language ideologies
  • Bilingual programs (English & Spanish) in public schools in Texas
  • Qualitative studies on bilingual educators , Karina and Marisol
    • Karina dismantled the DLBE program
    • Marisol strove to implement the program with fidelity
  • Differences in language policy implementation <- language ideologies
    • "Despite different approaches, each teacher ascribed to the idea that this program was not a fit for all students." ← この分析はどこに?(アブストに書くほど丁寧に議論してる?)

General comments

Policy implementation が方法論的フォーカス、equity が内容的フォーカス

  • 最重要キーワードであるはずの equity に理論的議論が少ない(ある種の日常語的に利用されている感じ)。
    • 何をもって教育の平等とするかは異なるとか、教師の「寄り添い」が不平等を緩和/悪化させるとか、先行研究は多数ある論点)
  • Policy implementation における policy の意味拡張(悪くいえばバズワード化)

Language policy implementation という曖昧な言葉

  • いわゆる policy studies の論点から焦点がずれている
  • 「implement の対象となるポリシーは、誰によって 発されたものなのか」という観点が抜けているのでは?

    • (a)「教師が主体になって教室の言語を管理する」(cf. Family Language Policy)
    • (b) 「政府が(言語)政策を策定し、行政(職員)が具体的な施策に具体化し、それを教師が教室現場で実施したりしなかったりする」
  • どうも、教室での指導プロトコル(明示的に書いてないがたぶん教師の裁量)の意識的・無意識的な策定も "policy" に含めているっぽい。

    Karina and Marisol were aware of inequities and made deliberate classroom policy decisions as a form of action (p. 72)


Karina's rejection of DLBE was not solely about distrust or doing as she was told by administrators, but was an agentic act of conviction and obligation nested within a larger sociocultural context that was altering the community (p.68)

こういう文脈で agency に注目するのであれば、注目するだけの特異さを指摘しなければならないのでは・・・。具体的には、権力が降ろしてきた政策・施策圧力という拘束条件の中で、いかに agency が発揮されたのか。

Specific comments

  • ideology の言語人類学的用法

To understand language ideologies, one must also look to their local manifestations, or the ways in which individuals enact policy in their own spaces of influence as informed by their ‘common sense ideas about language’ (Fairclough 2001). We use ‘language ideology’ as an analytical tool to make sense of teachers’ understanding and enactment of bilingual language policy, and define language ideology as ‘beliefs, or feelings, about languages as used in their social worlds’ (Kroskrity 2004, 498).


このような定義は、科学的真偽を保留にして認識論的に中立なまま議論できるという利点はあるけど、セミリンガリズムの話とかは真偽の文脈で議論してる気が。