以下は,かどやひでのり著「英語のなにが問題で,なにがなされるべきか―国際英語における言語規範の自律化と解放」(『ことばと社会 多言語社会研究』25号[2023年]所収)の論文評である。
かどや論文(以下「同論文」)は,一言でいえば,国際英語に関する既存の諸議論(以下,若干ミスリーディングではあるが,簡便のため,「英語論」と表記する)に対する,言語差別に反対する立場からの異議申し立である。 結論からいうと,評者の評価はきわめてポジティブである。 以下で見ていく通り,同論文は,既存の英語論が気づいていなかった(あるいは気づいていたが見えないふりをしていた)急所にきちんとメスを入れ,非常にラディカル=論争的な提言を行っている。 論文の結論を,とても受け入れられないと感じる人(とりわけ英語教育関係者)も多いと思われる。 しかしながら,同論文の論証手続き自体は,決してラディカルというわけではない。 つまり,同論文が述べているのは,差別観・社会観をめぐる特定の前提を採用するならば,当然の論理的帰結として,これこれこういう(一見受け入れがたい)結論になると述べているだけであり,その論の運びはむしろ穏当な部類に属する。 同論文の真にラディカル=論争的な点は,むしろその前提の部分である。 つまり,特定の必ずしも自明ではない前提をあぶり出していること,そして,その前提に則るならば既存の英語論を根本から批判するような提言が導かれることを示している点である。
最初に断ったように,評者の評価は基本的にポジティブなので,この論文評は,かどや論文を正面から批判するものではない。 むしろ,同論文の評者なりの文脈化を中心に据える。 文脈化は概して2つの観点から展開する。
- 反差別主義の応用言語学の潮流と,同論文はどのような位置関係にあるのか。 (とくに英語圏における)反・差別的な英語教育(anti-racist English language teaching)の先行実践・先行研究と,同論文はいかに接点を持てるのか/持てないのか。
- 論文著者が提示する反言語差別の国際英語論はメリトクラシーをどう乗り越えられるか。評者は,同論文が指摘していない暗黙の前提として,メリトクラシーの重要性を指摘し,そのうえで,メリトクラシーの諸問題に対処しない限り,同論文の提言は有効に機能しない可能性が高いことを論じる。反面,そもそもその対処自体が現代社会にとっての難問であるというジレンマも指摘する。
論文の概要
上記2点を詳述するまえに,同論文の概要を示す。なお,著者と出版社との契約によりオープンアクセスになっている(らしい)。読者は論文本体(https://researchmap.jp/kadoyah/published_papers/43711866)を直接読めば良いので,詳細なレビューは不要だろう。 以下では,後の文脈化のために最低限必要な情報を示したい。
同論文の章立ては,以下の通りである。
- 1 問題の所在
- 2 英語同化主義,英語帝国主義から節英論
- 3 国際英語の再定位
- 4 英語とマイクロアグレッション
- 5 何がなされるべきか―言語規範の解放
- 5.1. 英語を二分化する必要性
- 5.2. 多様性の僭称
- 5.3. 国際英語における差別行為
- 5.4. 反差別運動としての国際英語論:英語母語者のディスエンパワメントへ
- 終わりに
提言部分は,実質的には上記の第5節である。 それまでの節で,既存の英語論(国際英語論,World Englishes 論,英語帝国主義論)が,英語をめぐる差別の解決にいかに有効でなかったかを論じている。 そして,続く5節で,それを乗り越えるための方策として,英語に対する規範をラディカルに修正=脱差別=解放することを提言している。
その具体的な提言を,5節の構成にしたがって見ていこう。 第一に,内輪英語 (B. カチルの Inner Circle の意味)と国際英語を厳密にわけ,前者の規範を後者から完全に締め出すことを論じている(5.1節。この前提になる議論は論文の第3節)。 この提言は,既存の国際英語論が黙殺するかあいまいにぼかしてきた問題に対する鋭い異議申し立てになっている。 たしかに,国際英語に関する諸議論(World Englishes, リンガフランカ論にくわえて,反・英語母語話者主義論 anti-native-speakerismも含む)では一貫して内輪英語規範からの離脱を訴えてきた。 しかしながら,問題は,この離脱が規範の中立化をまったく意味しなかった点である。つまり,離脱と言っても,内輪英語規範を廃止して国際英語規範「だけ」を打ち立てるという完全離脱ではなく,あくまで「そこそこの離脱」であり,したがって,内輪英語規範の影響力は根強く残ることになった。 これは,既存の英語論にとって不可避なジレンマだったと言えよう。 なぜなら,人工的=運動的に国際英語を設計せず,自然言語としての英語(正確には「自然に習得された」と集合的に観念された言語)に,概念的・学術的・政治的に多くを依存してきたからである。「自然言語としての英語」をめぐる概念的・政治的リソースを提供してきたのが,まさしく内輪英語話者の日々の営みである。 論文著者の提案は,こうしたジレンマを直視し,そのうえで,国際英語を人工的=運動的に設計すべきだという主張である。
第二の指摘が,国際英語論の唱える多様性の尊重は,言葉の正確な意味での多様性の尊重ではなく,あくまで条件付きの尊重に過ぎないというものである(5.2節)。 つまり,様々な英語表現・英語使用を前にして,教育上や伝達上の効率性の観点から,「こちらの表現・使用は英語の『多様性』として容認するが,あちらの表現・使用は『逸脱』として排除する」という分別作業が行われており,それはしばしばかなり恣意的な線引きである――そもそも教育・伝達上の効率という価値判断は,多様性尊重という価値判断とは相性が悪い。 なお著者が,多様性尊重という言葉の使用自体をやめるべきだと言っているのか,使ってもいいがその限定性を自覚せよ程度でとどめているのかは書き方からはわかりづらいが,おそらく前者だと思われる。
第三に,上述した事情から,たとえ国際英語を掲げたコミュニケーションであっても,母語話者と非母語話者の間には拭いがたい権力勾配が存在しており,それは言語差別・マイクロアグレッションであると明確に概念化すべきであると指摘している(5.3節)。そして,マイクロアグレッションと認める以上,マイクロアグレッションの源泉たる母語話者の特権性を剥奪(ディスエンパワメント)しなければならないと述べる(5.4節)。 この点も,内輪英語規範から独立したものとして国際英語規範を人工的=運動的に設計してこなかった既存の英語論の急所である。 このマイクロアグレッションという概念化は,既存の英語論が避けて通ってきた重要な論点に光を当てている。それは,国際コミュニケーションの失敗・逸脱を解決する責任が誰にあるのかという点である。 この問いに対し,内輪規範からの「そこそこの離脱」をモットーとしてきた英語論は,当然ながら,母語話者・非母語話者双方の責任であるとするだろう(共同・協働的な対話構築というハーモニアスな社会観・コミュニケーション観)。 しかし,コミュニケーションには母語話者・非母語話者間の差別構造が埋め込まれており,それが不成功・逸脱として表出するのはマイクロアグレッションの一形態だと考えるならば,この状況は加害者・被害者構造と理解できる。その必然的な帰結として,問題解決の責任を負うのは,「加害者」たる母語話者側であり,そのディスエンパワメント(特権剥奪)がなされるべきだという結論が導かれる。
まとめると,内輪英語規範を差別・マイクロアグレッションの表出形態として国際コミュニケーションから締め出し,そのためのアプローチとして内輪英語規範(母語話者および内輪英語規範を内面化した第二言語使用者もふくむだろう)のディスエンパワメント(特権剥奪)が必要だという提言である。
以下,執筆途中(2024年9月11日午前11時)