こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

共著が出ました。『英語教育のエビデンス』

発売から2ヶ月近く経過してしまいましたが、9月に以下の本を出しました。


私とエビデンス(個人的な話)

内容紹介は、出版社ウェブサイト(上記URL)にまとまっているので割愛しますが、本書の源流はというと、2015年の関東甲信越英語教育学会(@山梨上野原)でした。このとき、私は「英語教育学における科学的エビデンスとは?」 という発表をしたところ、フロアにいた酒井さん(当時はちょっと面識があった程度)に食いついてもらって、短い時間でしたが研究プロジェクトについて議論しました(私の記憶の捏造かも知れません)。また、もっと前に源流があったら、すみません。

その後、2016年に上記の編著メンバーを中心に科研・課題研究プロジェクトが立ち上がりました(現在は後続の科研に移行中)。本書はその成果物のひとつです(ただし啓蒙書の性格もあるので100%科研に依存しているわけではありません)。

私自身も2014年に書いた文章で、筆がすべって気軽に「これからはエビデンスが大事」みたいなことを書いてしまい、その後、それに流される形で、いろいろなエッセイ・論文を執筆することになりました。

実は、2014年時点にくらべると、現在私はかなりEBEEの話には警戒心があります。本書のなかでも書いてますが、エビデンスの話は技術論にフォーカスすればするほど楽観的に論じることができますが、科学論・学問論や学会組織論、教育政策論に軸足を置くほど悲観的になるという性格を持っている気がします。

で、勉強すればするほど、後者の論点の重要性を痛感するようになりますが、対照的に、議論の入り口として入門しやすいのは前者の技術論です。もうすでに、この種の「技術的に解決すれば結構OK」といった楽観的な論調が多いですが、「街灯の下で鍵を探す」だけの議論に陥らないか、批判的に読むのをおすすめします。

今までこのブログで言及したエビデンス論(論文リンクあり)


日本人就労者がどれだけ英語を使っているかを推計した論文が出ました。

日本人就労者がどれだけ英語を使っているかを推計した論文が2本出ました。ひとつは、日本語の研究ノート(紀要)、もう一つは World Englishes に載ったもの。

  1. 寺沢拓敬 2021. 「日本人就労者の英語使用頻度 : ウェブパネル利用の質問紙調査に基づいて」『関西学院大学社会学部紀要』 http://hdl.handle.net/10236/00029843
  2. Terasawa, T. 2021. 'Web Survey Data on the Use of the English Language in the Japanese Workplace', World Englishes, 2021 (Online First).

どちらも同じ調査データを分析していますが、前者はいわば速報版で、資料的性格を持たせています(付表に、長々とした「質問紙原本」と「基礎集計表」つき)。後者は、World Englishes パラダイムに合いそうな論点にフォーカスして、簡単に分析+理論的・方法論的な議論をしたものです。1

自他ともに「国際人」を任ずる方々は、英語ニーズについて「多い」とか「いや少ない」と自由なことを言っていて久しいですが、実は、信頼に足る調査がほとんどない。その空白部分の一部を埋めようというのが本調査です。

結果の概要(図解)

以下の図が、推計結果です。

カテゴリラベルのアルファベットの意味は次のとおりです。

  • 使用言語
    • En: 英語使用
    • Jp: 日本語使用(外国人などを相手にした場合)
    • Tl: 翻訳・通訳ツール使用
  • 使用場面
    • Wk: 仕事での使用
    • Lif: 生活(仕事以外)での使用

棒グラフの「平均回数」は過去1年に何回使ったかの平均値、折れ線の「使用率」は、過去1年に一度以上使った人の割合です。

f:id:TerasawaT:20211110170727p:plain

日本語使用・機械翻訳使用の頻度も

図にある通り、英語使用頻度だけではなく、以下の論点も調査・推計しています。

  • 1) 外国人相手の(いわば国際語としての)日本語使用頻度
  • 2) 機械翻訳の使用頻度
  • 3) 日本の就労者が仕事で英語を使う相手2

これらも頻度推計しているので、日本語教育機械翻訳(の普及過程)を研究している人にも読んでもらえたらありがたいです。

なお、これら3種の設問群は、自前では詳細に分析する予定はとくにありませんが、関心がある方がいれば、共同研究も視野に入れています。気軽に声をかけてください(場合によっては調査データのシェアをいたします)。データ分析は当方でもできますが、理論的な点は専門家の助言がほしい領域です。というわけで「拡散希望」です。よろしくお願い致します。


  1. ちなみに、もう1本、英語使用の増減の規定要因を分析した論文を投稿中です。しばらくしたら出版できると思います(たとえ査読に通らなかったとしても、何らかの媒体で発表は可能なので)。

  2. 英語母語話者(つまり母語話者との英語コミュニケーション) vs. それ以外の非日本語母語話者(つまり国際語としての英語使用) vs. 日本語話者(いわゆる日本人同士の英語コミュニケーション―会議に日本語を介さない人が出席している場合など)

学会発表で「自著の宣伝を禁じる」方針の有効性について

小学校英語教育学会の自由研究発表に応募した。すると、大会運営委員会は、自著の宣伝を(内部の運用上)禁止しているらしく、修正を要求された。8月の話であるので、一応解決済みではあるが、あまり有効な方針ではないように思うので私見を述べておきたい。(本件はプライバシーやデリケートな話題には該当せず、学会名をぼかすことはオープンな議論上むしろ不誠実だと考えるので、明記することにします)。

やっかいなのは「宣伝」という言葉である。定義次第で、あらゆる研究は「自著の宣伝」になってしまうからだ。

宣伝を広義でとるなら、自分の著作の有効性を主張する行為の総称となるだろう。 一方、「宣伝はいけません」というニュアンスにおける宣伝(狭義の宣伝)は、主題との合理的な関係がないにもかかわらず自著を持ち出す行為となるだろう。

しかし、最大の問題は、外形的には広義の宣伝なのか、狭義の宣伝なのかはわからないということだ。 私たちは広義の「宣伝」をしているつもりで自著を予稿集に掲げたところ、見た目上は、狭義の宣伝にも見えなくもないという理由で、修正を要求された。

研究発表は多かれ少なかれ自説の有効性を広く知ってもらうための場なのだから、広義の宣伝を禁止するのはナンセンスである。 したがって、大会事務局の焦点は、狭義の方の「自著の宣伝」にあることは間違いない。これを禁止しようとする理由は教えてもらえなかったが、背景は理解できる。過去にそういう業者まがいの発表者がいたのだろう。

しかしながら、外形的に見て「自著の宣伝に該当する(あるいは該当しかねない)行為」への対処法としてこれは賢い方法なのだろうか。自粛を呼びかける程度ならともかく、禁止という制度・慣習をつくって取り締まろうとするのは、真面目に研究・発表しようとている人間(今回の私たち)が割を食う。

真面目にやっている研究者として言わせてもらえば、自著が発表内容をカバーするものであれば、それを提示しないのはオーディエンスに不親切である。そればかりか、形式上は、剽窃行為とみなされてもおかしくない。もっとも、学会の特殊事情から「これは剽窃ではないですよ」と理解してもらえるだろうが、それはそれとしてたいへん気持ちよくないものである。

業者まがいの自著宣伝を「取り締まる」ために、私たちが割を食うのは、納得行かないということである。

業者まがいに向けたメッセージとして、「自著宣伝は恥ずべき行為だ」と精神論で訴えて、制度運用上は何もしないというのが最適解じゃないだろうか。

外国語教育研究の再現可能性2021に登壇しました。

シンポジウム「外国語教育研究の再現可能性2021」に登壇しました。 私は、「社会学と『同解釈を導く研究結果が得られる可能性』」というタイトルで自由研究発表をしました。スライドは記事末尾に。

昨日の議論を最初から最後まで聞いていて思いましたが、「科学」という言葉は使うのをやめたほうがいいんじゃないかと思いました。とくに、「科学的知識」と「科学っぽい(でも科学以外でも使われている)客観的な手続き」の話がごっちゃになって議論されていたように感じますので、明確に区別して使ったほうがいいんじゃないかと思います。…というのは上品な言い方で、これを区別しないと議論がほんとうにクソみたいなコミュニケーションになるので、区別せずしゃべるのは絶対やめたほうがいいというのが個人的な気持ちです

昨日の発表でも話しましたし、以下のスライドにもありますが、外国語教育の再現可能性の是非を論じる文脈で(肯定的にも否定的にも)取り沙汰されているのは「科学的知識」ではなくて、「脱文脈化された知識」だと思います。

典型的な例が、「振り返り」およびそのテクノロジーとしての「振り返りシート」です。これは科学的知識、いわんや科学的メカニズムについては何も言ってないにもかかわらず、ある種の「現場の知恵」として急速に浸透しています。結果、脱文脈化された知識として実践に影響を与えています(実践者を啓蒙したり、逆に、抑圧したりしています)

物理学や化学の再現実験ではなくて、こういうもの「効果の再現性」を問題にしてるんでしょ?


松岡亮二編『教育論の新常識』に寄稿しました

松岡亮二編『教育論の新常識』(中公新書ラクレ)が発売されました。

私も「『グローバル化で英語ニーズ増加』の虚実」という章を書いています。

内容としては以下の論考(2019年)に、過去1年間(つまり2020年)の状況をフォローアップした補章を付したものです。

『中央公論』2019年8月号「『グローバル化で英語ニーズ増加』の虚実」 - こにしき(言葉・日本社会・教育)


目次はこちらにあります。

www.chuko.co.jp

「純ジャパ」が批判される根拠の切り分け

ソーシャルメディアで定期的に話題になる「純ジャパ」という用語について。

いつも議論がすれちがっているように思うので、最低限切り分けるべきポイントをメモしておく。


本ブログでの過去の言及は以下: 純ジャパ の検索結果 - こにしき(言葉・日本社会・教育)

こちらも拙著:アメリカ応用言語学会で聞いた「純ジャパ」論 (寺沢拓敬) - Yahooニュース(個人)


特定の言葉は、しばしば、「差別語であり使うべきではない」として批判の的にされることがある(そうした批判を疎ましく思う人からは「言葉狩り」と呼ばれる)。

ただし、「使うべきではない」とされる根拠は、実は一枚岩ではなく、概略、つぎの3つのパタンがある(まだあるかもしれないがメジャーなものを3つ)。

  • (a) その言葉には差別的な意図が込められているから、使うべきではない。
  • (b) その言葉の語形成のせいで、知らない人が聞くと差別語に感じるから、(「差別語を平気で使う人」と思われたくなければ)使うべきではない
  • (c) その言葉が対象にしている人あるいは対象とされていない人が不快に感じているから、使うべきではない

上記を「純ジャパ」でパラフレーズすると次のとおりである。

  • (a') 「純ジャパ」は差別的な意図で使われているから、使うべきではない
  • (b')「純+ジャパ」「純粋なジャパニーズ」という語形成のせいで、知らない人が聞くと差別語に感じるから、(差別者だと思われたくなければ)使うべきではない
  • (c') 非・純ジャパが、不快に感じるから、使うべきではない

とくに、いい意味でも悪い意味でも「無邪気」にこの言葉を愛用してきた人たちの反応でありがちなのが、「差別の意図で使ってないもん!」「人種的な意味じゃないもん!」というタイプの擁護である。

仲間内でキャンパス・ジャーゴンで楽しく会話してきただけなのに、とつぜん「ソトの人」から「そんな言葉を使ったらあかんよ」と言われるのが気に入らないという気持ちはわかる。わかるが、反論としては、的を外している。a' の論拠で批判している人はすくないからだ。

また、 c' もまだ中心的な論拠にはなっていないように思われる。というのも、この言葉の流通量がまだ限定的で、「被害を受けた当事者」は規模としては多くはないからである。ただし、実際に不快に感じる外国籍者等はすでに存在するので、その数が多くなっていけば、あるいはこの語がキャンパスジャーゴンから大衆語に成長すれば、近い将来、c' も重要な論点に含まれるようになるだろう。

というわけで、「純ジャパ」の語が批判されているポイントは、上記の b' の話である。

つまり、人種的な語形成の言葉で、非人種的な話をするのは、下品だ/頭が悪そうだ/鈍感だという美意識に基づく批判である。直接的な被害者がいるという意味での差別語ではないが、容易に差別語と聞こえる語を使うその人の資質を問題にしている。ただし、前述の通り、早晩、「直接の被害者を生み出す差別語」に進化する可能性も秘めている。

ちょっとわかりづらいと思うので、あえて比喩ると、子どもに「だれにでも等しく優しくできる人になりますように」という願いをこめて「優等人(ゆうと)」と名前をつけた。家族はみんな「いい名前!」「超イカしてる!」と盛り上がっている。しかし、部外者が、「そ、そんな名前…。ああおぞましや…。」と眉をひそめる、、、というのに近いだろうか。

北教大入試問題に拙著が出題されました(ウェブで見られます)

北海道教育大の入試問題(小論文)に拙著『小学校英語のジレンマ』終章が使われたという連絡を受けました。ありがとうございます。

当該の過去問は、期間限定で、同大学のウェブサイトに公開されています。

https://www.hokkyodai.ac.jp/files/00002500/00002512/36_r03_hen_hak_kyoiku.pdf

正直言うと、めちゃくちゃ難しいです。