こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

英語教育政策研究における「学習指導要領」の取り扱い

日本の英語教育政策に関する論文を読んでいると、しばしば学習指導要領の位置づけが不思議な分析を見かけることがある。

その不思議さを一言でいうと、学習指導要領が、どの程度の制度的拘束力を発揮しているのか明確になっていないという点である。もっとストレートに言うと、「学習指導要領を法律かなにかだと思ってない?」という違和感である。

これは、重箱の隅をつつく指摘ではなく、むしろ理論的にかなりクリティカルな点である。 というのも、学習指導要領の英語教育に関する記述が、どれだけ現場の実践を拘束しているかを理解しなければ、ある施策の影響力を測ることはできないからだ。それができなければ、政策の研究としてはもはや片手落ちになる。

学習指導要領と現場の agency

最近のトレンドとして、英語教育政策における英語教員の agency を検討する研究がある。 そこでは マクロなアクター(例、政府)がある政策を実施しようとする際、ミクロのアクター(例、現場の教職員)はその政策をただ受動的に実行する存在ではなく、自律的に応答する――教員らは、その政策を改変・抵抗・無視するため、政府の意図通りの政策実施は必ずしも実現しない と考えられている。

とりわけ、日本の英語教育政策は、しばしば 現場の agency の好事例として扱われる。 つまり、文科省が学習指導要領を改訂し、「こういうふうに、新しい英語教育をしてくださいよ」と叫んでも、現場はぜんぜん言うことを聞かない。業界の人間にとっては耳にタコができるほどよく聞く話だが、このときの現場の応答こそが agency の発揮というわけである(なお、この書き方から明らかなとおり、現場の自律的な動きは、必ずしもポジティブ/生産的なものとは限らない)

たとえば、Glasgow & Paller (2016) には、次のような記述がある。

The translation-communication debate is a prime example of contradiction in the policy formulation process, where the de jure policies manifest in the senior high school Course of Study through the revisions of its subjects and the creation of textbooks, contrast sharply from the de facto practices found in both public and private academic senior high schools, which privilege juken eigo (or English for the purpose of university entrance exam preparation). ... Therefore, a major challenge for Japan will be to rethink how to bridge the divide between the de jure methods policy (communication) and the de facto methods policy (translation-based methods) (Section 4.1.)

図式的にまとめるならば、

  • 学習指導要領をもとに改革プランを押し付ける文科省 vs. 自律的に応答する現場

のようになる。

問題は、この図式では、学習指導要領にきわめて強い制度的拘束力があることが暗黙の前提になっている点である。 強い拘束力があるからこそ、その反作用としての現場の agency は輝くわけだ。 逆に、拘束力がない「命令」を無視して人々が自由きままに行動していても、それはごく当たり前の話で、わざわざ人々の agency として記述する意義はない。 たとえば、「○○○ドルを支払え」と命令するスパムメールに対して、人々が自律的に振る舞っていても(例、無視、通報、SNSへの晒し上げ)、それを agency の現れとして賞揚することはまずないだろう。

学習指導要領は法律ではない

学習指導要領が法律でないことは業界の人間には常識である。 しかし、日本の教育制度に明るくない人(いわゆる外国人だけでなく、教育行政の知識がない日本人も含む)は、しばしば法律のようなものとして誤解しており、まるで「現場が守るべきルールブック」のように扱っていることがある。

この辺りは、以前書いた本で説明したことがあるので(寺沢, 2020)、それをセルフ引用する。

学習指導要領とは
 学習指導要領に馴染みがない読者もいると思うので、日本の教育政策においてどのような位置づけにあるか簡単に確認しておく。
 教育政策を考えるとき、骨格部分を法律(教育基本法、学校教育法、その他の教育関連法規)とすれば、学習指導要領は肉づけの部分にあたる。両者の大きな違いは、変更のハードルの高さである。前者は、国会の審議を要する以上、政権や文科省の独自の判断では変更できず、したがって、民主的正統性は高い。一方、学習指導要領は文科省の告示であり、告示そのものは法律ではない。したがって、国会審議を必要とせず、変更・修正のハードルは比較的低い。
 小学校英語をめぐる政策動向で圧倒的に重要なのは、この肉づけの部分である。戦後の学校教育における具体的な教育課程は原則として学習指導要領に基づいており、たとえば「小学校英語教育法」のようなものが制定されてきたわけではない。なるほど、教育内容を具体化するうえで法律は重厚過ぎる。その意味で、自由度の高い告示文書が教育課程の中心をなすことは不自然なことではない。 自由度が高いと述べたが、文科省が(ということは文科官僚が)まったくのフリーハンドで学習指導要領を作っているわけではない。正式に告示されるまでに、内閣や国会議員との意見交換、審議会、そしてパブリックコメントなどを通じ、文科省の外部の目に晒される。したがって、健全な制度運営がなされている限り(国会による承認ほどではないにせよ)相当の民主的正統性は担保されている。


このように、学習指導要領は法律ではない。

私達の民意を反映した(と架構される)国会で承認されているわけではないので、究極的に言えば、守るいわれはない。 ただ、ややこしいことに、学習指導要領の位置づけに関連した戦後の様々な裁判・判例を考慮すると、根拠法が存在することもあり、全体としては法的拘束力を持つとされる(大綱的基準説と呼ばれる)。 しかし、さらにややこしいが、いずれの裁判でも、学習指導要領の個々の項目にまで法的拘束力を認めているものはない。 つまり、学習指導要領の一項目として「英語は英語で教えよ」と書いてあっても、それを守る義務はないのである。

そういう意味でいうと、学習指導要領・外国語編の個々の項目(「英語で教えよ」とか「コミュニケーションが大事だ」とかなんとか)は、象徴的な性格が強く、実際に、現場を制度的に拘束しているものはもっと別のものということになる。

たとえば、学習指導要領の『解説』は、官僚がわりと自由に作文しているので、学習指導要領本体よりもさらに民主的正統性が低い。 その一方で、教科書会社は『解説』を参考に、教科書を企画・編集するので、現場への直接的な影響という点ではこちらも重視するべきだろう。

また、そもそも、小中高校の教員は、一部を除き、国に雇用されているわけではないし、したがって、国は個々の教員に指示を出す権限はない。現場を拘束しているのは(そして現場の agency と対になるものは)、直接的には、地方自治体(教育委員会)や学校法人、その学校の管理職である。

以上の錯綜した部分をきちんと理解しているように思える英語教育政策研究は、残念ながら少ない。とりわけ、英語文献だけで日本の英語教育を論じようとする研究者は、ほぼ例外なく理解していないようにみえる(たとえば、前述のGlasgow & Paller, 2016)。 学習指導要領本体は英訳されていても、『解説』は英訳されていないのが原因の一つだと思う。

この錯綜した点は、後日、あらためて整理したい。

文献

  • Glasgow, G. P., & Paller, D. L. (2016). English language education policy in Japan: At a crossroads. In R. Kirkpatrick (Ed.), English Language Education Policy in Asia (pp. 153-180). Cham, Switzerland: Springer.
  • 寺沢拓敬 (2020) 『小学校英語のジレンマ』岩波新書