こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

英語教育政策研究の理論と方法(その2)

いま書いている論文(非査読)の下書きを貼っていきます。

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2. 問題点

本節では、過程の記述的研究の問題点を検討する。

先行研究の問題点を一言で言えば、政策過程を説明するために利用された根拠(事例・史資料・データ)に偏りが見られる点である。 具体的には、先行研究で選択的に取り上げられやすいのが、政策の最終的なアウトプットとなる文書、および、その遠因となるマクロな社会経済的要因のみであり、一方で、その両極端を接続し得る審議経過・政策形成過程への注目はほとんどない。

この注目の偏りの背後には、日本の(英語教育)政策過程に対する理解不足(過度に単純化された理解)があると思われる。 これらを大別すると、階層性という理解の欠如、政策文書の性質に対する理解の欠如、および、マクロな要因の説明力に対する理解の欠如という3点が指摘できる。 以下、順番に説明していこう。

2.1. 要因間の階層性

第一に、先行研究は、政策に影響を与える要因が複数あることは認めているが、それらの間の階層性への自覚は乏しい。

もっとも、政策形成に様々な要因が複雑に介在することを指摘する研究がほとんどだが(むしろ、単純であるならわざわざ研究する必要がない以上、複雑さを指摘することこそが学術的意義と見なされていると言ったほうが正確だろう)、様々な要因を並列した説明が中心であり、各要因間に階層性・影響関係を仮定するものはほとんどない。

しかしながら、政策過程には明確に階層性が存在する。 一般論として言っても、通常、政策の最終的決定は政府(中央政府・地方政府)が、その原案づくりは政府内の特定部局が行っている。 つまり、政策の具体化において、マクロな社会経済的要因(例、グローバル化、世論、財界の要求)よりも、政府内の動きがより直接的な影響を持つことは明らかである。

公共政策一般に比しても、日本の学校英語教育に関する政策はその傾向がさらに強いと考えられる。 初等中等教育の英語教育課程に関するものの多くは、国会審議を必要としないため(学習指導要領がその典型である)、より直接的な役割を果たすのは文部科学省(の特定の部局、とくに初等中等教育局)だからである。

以上の議論を図示したのが、図NNNである。

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図NNN 並列型と階層型

図の左側が、各要因を並列的に配置した、先行研究によく見られる説明図式である。 代表例が、小学校外国語活動(2008年の学習指導要領改訂で導入決定、2011年度より正式に開始)を後押しした要因を分析した Butler (2007) である。 小学校英語政策の文脈で非常に頻繁に引用される論文であり、実際、指摘されている諸要因(グローバル化、財界の要求、世論等)はいずれも説得力があるが、要因間の関係については分析されておらず、結局のところどのようなプロセスで外国語活動が構想されたのか、もっと言えば、どの要因が最も重要だったのかは不明である。

一方、図の右側が、要因間に階層性を仮定したモデルである。 前述の外国語活動の例でいえば、Butler (2007) が指摘した要因のいずれもが英語教育の早期化の推進に重要だったことは疑いないが、それが他でもなく外国語活動の導入である必然性はなかった。 したがって、様々なアクターから発せられた抽象的な早期化要求を、外国語活動導入という具体的プランに読み替える力学が働いていたわけである。 ここで重要なイニシアチブを発揮しのが、寺沢 (2019) が明らかにしたとおり、文科省初等中等教育局であった。

外国語活動の事例以外にも、図中の「文科省特定部局」と「特定の政策」をつなぐ矢印は非常に重要である。 英語教育政策研究における最も重要な分析対象(少なくともそののひとつ)と言ってよい。 しかしながら、先行研究ではこの矢印に関する研究は驚くほど少ないのが実情である (日本を対象にしたものだけでなく、他の非英語圏――東アジア各国、ヨーロッパなど――に関する英語教育政策研究でも同様のようである)。

2.2. 政策文書の性格

第二に、政府側の説明を真に受けてしまったために、政策形成にとって真に重要な要因の選定に失敗するという問題である。

先行研究では、重要要因の候補を選ぶ際、アウトプットとなる政策文書に依存する傾向がある。 アウトプットとは、たとえば中央教育審議会の答申や学習指導要領解説のことで、たしかにこの種の文書は、当該英語プログラムを政府が導入することに決めたのはなぜか、あるいは、このような一連の英語教育改革が求められたのはなぜかなど、経緯について必ず述べている。

しかしながら、これらは中立的・客観的な経緯説明では全くない(寺沢, 2019)。 アウトプットとなる政策文書は、眼前の政策をいかに正当化するかが最優先事項であるため、そのために都合がよい「これまでの経緯」は積極的に取り上げる一方で、都合が悪い「これまでの経緯」については言及を避ける傾向がある。 つまり、この種の政策文書では、構造的に、チェリーピッキングが起きやすい。

別の問題として、アウトプットとなる政策文書の多くが、前述の図NNNの左側のような構図で経緯を説明する点も指摘できる。 たとえば、中央教育審議会は2016年12月に小学校英語の早期化・教科化を答申したが、その根拠として、これまでの外国語活動実践、グローバル化、諸外国の動向など様々な点を踏まえたと記載しているのみであり、どれが最も重要だったのかという価値判断を避けている。 しかしながら、江利川 (2018) が明らかにしたとおり、教科化の最も重要かつ直接的な契機は、第二次安倍内閣における2013年6月の閣議決定、および、その前段をなす内閣の教育再生実行会議における検討である。 答申やその後の学習指導要領解説には、この「真の要因」への言及はなく、責任の所在がきわめて曖昧になっている。

政府見解の再生産

こうした文書に大きく依存して分析すると、政府にとって都合のよい説明の再生産に成り下がりかねないが、先行研究はまさにこのような陥穽にはまっているものが散見される。 その典型が、日本語が読めない(と思われる)研究者による政策分析である1。 近年、学習指導要領は英訳版がウェブ上に掲載されることが多く、また、答申やその他の重要な政府発表は英文メディア( The Japan Times, The Japan News など)による報道もあるため、日本語ができない研究者でもアクセス可能になりつつある。 一方、アウトプットに至る前に行われる様々な審議は、日本語で行われており、議事録も日本語である2

たとえば、Ng (2016) は、2013年12月に発表された「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」の英訳版 (https://www.mext.go.jp/en/news/topics/detail/__icsFiles/afieldfile/2014/01/23/1343591_1.pdf) に基づいて、グローバル化東京オリンピック小学校英語の早期化・教科化を後押ししたと記述しているが(p. 219-220)、前述の江利川 (2018) の指摘のように、官邸主導の政策過程には一切言及がない。 2013-14年頃の官邸主導の政策過程は、議事録や報告書がある場合でも、ほとんどが日本語のみで記述されているため、英語資料に依存した研究には限界があるだろう。

2.3. マクロな要因による大雑把な説明図式

第3に、マクロな社会経済的要因ばかりに注視するのは、実証性の面で問題がある。 先行研究で指摘されたマクロ要因は、たとえば、グローバルビジネスの発展、国際語としての英語の重要性、日本人の英語力不足への不満感、これまでの(非能率な)英語教育や「受験英語」への不満感、英語教育改革に期待する世論、ネイティブスピーカー信仰、欧米への憧れなどである。

こうした要因は、たしかに直感的には重要な要因ではあるが、 政策過程(具体的には中教審等での審議過程)の説明に使うならまだしも、政策のアウトプットに直接影響を与えたかのように扱う(図NNNの左図)のは、実証性の点で問題がある。

概念の曖昧さ

ひとつは、マクロ要因は概して抽象概念であり、そのため往々にして概念規定も曖昧になりがちである点である。 その結果、定義次第で、「影響を及ぼした」とも「及ぼさなかった」とも言えてしまう。

たとえば、「世論の要望」や「財界の要望」といった要因が小学校英語を後押ししたとされるが、その「要望」の中身次第では、後押ししたともしなかったとも結論付けられてしまう。 というのも、2011年に正式に始まった「外国語活動」の目標・活動内容は、世論や財界が望んでいたものから大きくずれていたからである(寺沢 2020: pp.136-7)。 つまり、「要望」を「とにかく小学校で英語を始めること」と緩やかに定義するのなら「影響あり」と結論付けられるし、「外国語活動の導入」と定義すれば明らかに影響はなかったことになる。 このように、概念規定が緩いと実証性は下がる。

高すぎる説明力

問題点のもうひとつが、マクロ要因による説明はしばしばあまりに強力であるため、説明モデルとして役に立たない点である。

典型例が「グローバル化」という説明である。 なるほど、英語教育政策は大いにグローバル化から影響を受けてきたが、そもそも近年その影響を免れてた社会現象など存在しないわけで、「グローバル化→英語教育改革」という説明は実質的に何も説明していないことになる (とはいえ、たとえば、2003年の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」でも、学習指導要領の解説(たとえば、2008年改訂および2017年改訂の小学校学習指導要領の『解説(外国語活動編・外国語編)』)にも、まさにこの「無意味な」説明が述べられているが)。

以上のように、マクロな社会経済的要因による説明は、明確に概念規定をしない限り、実証性を毀損する。 しかしながら、少々やっかいなことに、マクロな要因には普遍性の高い理論的概念が多く(例、グローバル化、国際英語論、ネイティブスピーカー信仰、欧米志向など)、この種の説明図式を使うと(説明の妥当性は度外視しても)、普遍志向の研究者と対話可能性が向上するので、とくに国際誌・国際学術的コミュニティでは評価されやすい。 実証性(説明の正確さ)と国際的評価は、ある程度独立していると認識すべきだろう。


(つづく)


  1. 公平のために言えば、同様の問題は、日本語が読める研究者にも見られる。答申や学習指導要領のような目立ちやすい文書ばかりに目を奪われ、そこに書かれた「政府の建て前」を批判的に読み解けないと、「政府にとって都合の良い説明」に過ぎないものを「経緯の客観的な描写」に誤認するという陥穽にはまってしまう。

  2. 近年、議事録の多くがウェブ上にアップロードされつつあり、機械翻訳などの有効利用も考えられるが、原文自体に文脈依存的な表現も多く、日本社会に関する知識がないと理解できない議論も多いだろう。そもそも、議事録がウェブ上にない場合、行政文書開示請求などを利用して入手するのは、日本語に不慣れな研究者にはかなりハードルが高いと思われる。