日本の外国人受け入れ政策に関する論文を枕に
- Chapple, J. (2014). Japan’s Immigration Intimations and Their Neglected Language Policy Requisites. Asian and Pacific Migration Journal, 23(3), 345-360. https://doi.org/10.1177/011719681402300305
先日のオンライン読書会で、日本の外国人受け入れ政策に関する論文を読んだ。
論文の概要は省略するが、方法論的にいろいろ考えるところがある論文だったので以下にメモする。
思想史的な説明
気になったのは、本論文が、言語政策関係の特定の施策(orプログラム)を、思想史的な傍証を使って説明するというアプローチ(というかレトリック?)を随所に使っている点である。日本の外国人労働者受け入れ政策の実際を、Japanese vs. kokugo を始めとする国語思想、さらには、日本人の特性・文化をユニークだとする日本文化論で説明している。
著者が図式化しているわけではないのだが1、次のように単純化できるだろう。
- 思想史的バックグラウンド → 特定のプログラム
このような図式化は、実は、「言語政策研究あるある」である。 たとえば、「日本の英語思想」(The Idea of English in Japan) という、有名な英語教育政策の本は、書名にも現れているとおり、典型的な「思想史→英語教育政策」型説明を採用している。これに限らず、こうした論文は、言語政策研究分野で非常によく見る(日本の言語政策だけではなく、他国の政策を分析しているものでもよく見る)
思想史的な説明の限界点
問題は、このようなアプローチ・説明方法は、政策科学ではおそらくあまり評価されないと思われることである2。 根本的な理由としては、「思想史的バックグラウンドなんて曖昧な要因だったら説明にならんでしょ」ということだと思うが、言語政策に関連付けてもう少し細かく言うと次のような点が指摘できると思う。
第一に、因果関係の曖昧さ。思想史という比較的遠い過去の要因から、現在をきれいに説明することは、一般的にかなり困難である。いきおい、因果関係に対する考え方を緩やかにせざるを得なくなるが、そうすると、「○○が影響を与えた」とも言えるし「○○は影響を与えなかった」とも言えるようになってしまう。最悪、「にわか知識の評論家の雑な文明批評」になりかねない。
第二に、言語思想史の「生産者」の社会階層的背景。思想史は、intellectual history と訳されることもあるように、基本的には、知識人層が考えていたことである。それが政策の現場に下りてくることは十分にあり得る話であるが、同時に、「下りてこなかったかも」とか「現場が拒絶したかも」とも言えるわけで、結局、現場サイドの動きを見ないとなんとも言えない。
第三に、第二に関連するが、そもそも現場サイドの動き――つまり、政策過程や実施過程――を見て物事が説明できるのであれば、思想史的な説明は冗長なのではないかという点。
実際、今回の読書会でも日本語教育政策の専門の方から指摘があったが、外国人受け入れ政策(の困難さ)は、省庁間の駆け引きや、施策の立案・実行の難しさといった政策過程で大いに説明できるらしい(たしかに納得行く話ではある)。であれば、国語思想や日本文化論のような曖昧な説明に大いに依拠する必要はないのではないか3。
英語圏の研究者、現地語ができない問題
言語政策研究で思想史的説明が重宝される原因のひとつに、現地語ができない研究者という頭が痛い問題があると思う。
思想史は、英語化されていることが多い。実際、国語思想も日本文化論も、日本研究 (Japanese studies )の研究者による多大な努力のおかげで、重要な文献が英訳されていたり、あるいは、最初から英語で書かれたりしている。
一方で、政策過程分析に必要な資料は、英語化される度合いは小さい(たとえば、日本の教育委員会制度や官僚制度の成り立ちを丁寧に説明している英語文献を読んだことがあるだろうか?)。とりわけ、リアルタイムに起きている改革の政策過程や、一次資料(議事録など)は、日本語でアクセスせざるを得ない。
その結果、日本語が読めない研究者は、どうしても思想史的な説明図式に頼らざるをえなくなるのではないか。
思想史的なアプローチの方法論的な整理が必要
言語政策研究では、思想史的な説明図式が一部で流行っている一方で、その守備範囲と利点・弱点があまり議論されていないように思われる。本来は互いにかなり異なるアプローチである思想史的説明も政策過程分析も現場研究(エスノグラフィーなど)も、同じ「事例研究」というゴミ箱カテゴリに放り込まれて、奇妙な共存を許している現状があるように思う。
しかし、ここで書いた通り、思想史的説明は(トートロジーではあるが)言語思想史を明らかにするのには最適であるものの、現代の具体的施策を説明するには、かなりの論理的飛躍(あるいは跳躍)を含んでいる。したがって、きちんとその射程・利点弱点を整理しておいたほうがいいように思う。