こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「生活」に英語科をどう接続するか?(本土占領期の座談会「コアカリキュラムと英語」)

  • 「コアカリキュラムと英語」『英語 教育と教養』1949年5月号、pp.103-7.


英語科が「国民」の「生活」にどのように埋め込まれているか(埋め込まれていると《正当化》するか)に関して、けっこう重要な見解が述べられている記事を見つけた。

かなり長く、論旨も支離滅裂なところが散見されるが(ざっくばらんにやった座談会を強引に「圧縮」したせいだろうか?)、そのまま引用する*1。実際にこの座談会が行われたのは、「Mar.19、1949」とあり、同年の3月のようである。


出席者は、

出席者
宍戸良平(文部省英話課図書監修官)
石橋幸太郎黒田巍福田陸太郎
編集同人

とある。ここに名前が記されていない発言者は、桜庭=櫻庭信行、石川=石川光泰、広瀬=広瀬泰三である(と思うが、明記はない)。「飯塚」は誰のことかわからなかった。


(以下の引用だけでなく)全文を読んでも、話がちぐはぐなところがけっこうあり、論理を追うのが難しいところがいくつかあるが、大ざっぱに整理すると、

  • 英語科は「コアカリキュラム」の埒外だとする宍戸

および

  • 典型的な「コア」とは言えないまでも、積極的に両者の接点を探っていこうとするその他


という構図のようである。


「コア・カリキュラム」における「コア」とは、日常生活における問題解決のための「生活単元学習」を意味する(それに従属し、読み書きなどを体系的に教えるものは「周辺課程」)。占領期とはいえ、当時の日本の多くの地域では、英語が「生活場面」にまで浸透しているとはさすがに言えないはずなので、宍戸の認識(「外国語だからコアは無理」)はもっともだろう。


しかし、以下の座談会を見ると、途中から「英語科は、『コア』に接続可能」という流れになっている(しつこいようだが、これはもしかすると「編集」のせいかもしれない)。


なぜ、このような無理筋なことが可能になっているかというと、よく読むと、social needs(以下「社会的ニーズ」)の読み替えをしているためのようだ。コアカリキュラムでいう社会的ニーズとは一般的に、「現在子どもたちが地域で日常的に直面している問題」を意味するはずで(そして、だから「問題解決学習を行うべき」という論理)、いわば、「"今ここ"のニーズ」であり、きわめて具体的なものである。一方、この座談会では、「人格形成」「文化の摂取」というかなり抽象的な意味で「ニーズ」が理解されている。つまり、「学習者が要求するニーズ」というよりは「学習者に与えるべき社会の側のニーズ」というように逆転してしまっているのである。


「人格形成」や「文化の摂取」という目的論は英語教育史を少し学んだことのある人なら聞いたことがある論点であるはずだ。そう、「教養主義」である。当時(の少し後)の指導要領(試案)にも、「教養上の目標」としてこの論点はきっちり載っている。実際、黒田は、この「文化の摂取」と、「基礎練習」(機械的なドリルなど)を対立させずに(「もちろん基礎練習は必要です。基礎練習の先のこと考えているのです」)、これは当時の常識的な英語教育目的論である*2。つまり、こうした常識的な論点に回収することで、「コア・カリキュラム」は英語科教育に受容されたのだ。


そして、ここで「教養主義」に回収するうえでは、「日常生活場面」というコアカリキュラム論の重要な理論的文脈を外しておく必要があった。入れておいたら、英語科が入る余地が無くなってしまうからだ。「日常生活場面」ではなくて、「経験学習」とか「民主的教育」というコアカリキュラムのキーワードをもとに、教養主義との接続が行われたのだろう(もちろんこれは、この座談会の資料に限った話で、当時の英語教育言説全体がそうなっていると結論づけるのは早計だが)。


桜庭: カリキュラムの問題について、我々英語教師は比較的無関心であるように思いますので、先に文部省の宍戸君から「「カリキュラムと英語」について書いてもらいました。そこで今回は更にコーア・カリキュラムと英語[ボールド原文―引用者注、以下同様]との関係を考えてみたいと思います。(中略)


黒田: Core Curriculumそのものの説明から始めて下さいませんか。


宍戸: 英話・理科・社会・国語というように教科(Subject Curricmum)に分れているのは、何の為であるか、ということから第一に検討されなければならない。(中略)つまりディマケイション(demarcation)の再検討をせねばならない。(中略)[アメリカの実践では]American citizenとし望ましき basic needs が分析されて、如何なる生徒にも望ましきものを抽出する、こういう考え方から各科別のわくをはづして、basic needs(理解、態度、技能)を分析し、全ての子供に必須としてやってもらう。それがコーア・カリキュラムのグルンドだと思う。


(中略)


桜庭: 日本の教育界でいうコーア・カリキュラムはアメリカとは少し意義がちがようです。つまり中核課程というものがあって、これと直接間接の関係に於て、他のいくつかの経験を周辺に配置して、この中核課程と周辺課程とが更に統合するように組織したものをひっくるめて、コーア・カリキュラムと呼んでいるように思います。そうすると、窪我が考えようとしている英語は、周辺課程に入るもので、いわゆる基礎技能の練習という問題になってくると思います。しかしこの技能も結局は中心教科に役立つという意味に於てコーアに入りうるのだと思う。外国語である英語は、コーアに入る面は極めて少いかもしれないが、都会地ではやはり相当考えられると思います。そしてコーアに直接関係のない面は、基礎技能の練習の時間に drill していけばよいので、ここでは学問的系統をとる事ができます。そしてこれが間接的にコーア学習に役立ってくると思います。そこで今度は、中学で今后どう扱うかという事を論じていただきたいと思います。


宍戸: 外国語だから余り結びついてないと思う。強いて結びつけようとすると、単元のたて方がめんどうになります。


石橋: 山形の加藤市太郎君がやっていると聞いたがむづかしいそうです。


(中略)


石川: 英語のように drill を必要とするものはむづかしいのではないでしょうか。


桜庭: 英語では技能のdrillが、相当大きな問題だと思いますが、それは母国語の場合も同じでしよう。ただコーアに結びつく面が母国語とちがって極めて少いという事はいえるでしようが、全然ないとはいえない。それに今后日本はもっともっと外国との関係が密接になると思うから、国民の生活にもかなり外国的要素が入ってくると考えなければならない。


宍戸: 技能をのばすには教師が dictator にならねばならぬ。そのためにはクラスは少い方がよい。30人位まででしょうね。そうでないと group activity がまちまちになってしまう。コーアと結びつけるのはまだまだ先のことでしょう。


桜庭: しかし義務教育で英語をやる以上は、そしてその学校が新教育を行っているとしたら、英語科だけが分科主義をとる事は考えられない。むしろ英語科からコーア学習に要求するものをもっていてもよいと思う。外国文化を消化し得ない教師は少くともコーアを指導する資格はないとさえいえると思います。


福田: 外国人との交際、食事の作法などという面で結びつけることができますね。


宍戸: それは basic needs からかなり離れる。外国語科というわくをはずして、コーアにするというの早すぎるというのが私の考えです。


(中略)


黒田: コーアでは実生活にすぐまに合う面を考えられがちであるが、英語教育を大きく人間完成の一手段と見る時、技能的面と教養的面とに分けられると思う。技能的面の一つである会話の練習などはある特定の地方では社会的要求に合うが、日本全体を考えると、それは一部の人々にのみあてはまることである。中学生全般に共通な目標は、外国語を通した経験から人格の完成をめざす。という事である。そうなるといちばん大切なことは、外国文化の摂取という事で、どういう文化(日本人の立場から必要な)を摂取すべきかが問題になるので、そこにコーアの精神をとり入れたらよい。


櫻庭: そうすると、英語の教材の中にそういうものを選んでくる事になりますね。そして更に社会科理科という中心課程の中にも外国文化を吸収する面を多くとり入れてもらい、英語と関係をもちつつ進むということになりましょうか。


黒田: ええ、英語科で日本の物語を英訳したものを読ませても価値は少ないでしょうね。


石橋: Social needs の needs といいうのは、子供自身の needs なのか、大人になった時の needs なのか。従来は子供に則した needs であったが、日本の citizen としての needs を考えておいてから、それを子供にあてはめていくのですね。


宍戸: あるべき日本人としての needs を分析するのです。それに価値付けをして、表にします。その表に合う学習活動を子供の心身の発達と結びつけるのです。


(中略)


黒田: 英語の技術面では、聞く、話す、読む、書くの四つが考えられるが日本人としての social needs では、「読む」ことがいちばん大切で、それから「話す」ことだと思う。読むことができれば、自分で外国文化を摂取することができる。その読む力から、会話の力をのばすこともでき、correspondenceの仕事に伸びさせることもできる。


(中略)


石橋: 黒田さんの言われる通りだと思うが、基礎練習の面がもっと必要じゃないか。


黒田: もちろん基礎練習は必要です。基礎練習の先のことを考えているのです。


石川: 中学では三年位から外国文化の吸収という事が考えられましようか。


黒田: 一二年では基礎をかため、三年位から決勝点にすすむという事になると思います。


櫻庭: 基礎練習ということも、コーア学智から考えれば、決して技能の練習ばかりを意味しているのではないと思います。外国語をやっている以上、始めから目には見えなくとも外国文化の吸収をやっているのだと思います。技能を練るということも、常に中心学習を頭においてやる、その綜合された成果、そこに既にコーア・カリキュラムの目的が達せられていなければならないでしょう。


飯塚: (これは番外ですが)先生たちのお話を聞いていますとね、どうも英語中心という考え方が強いように思います。読むことが大切だといわれましたが、教育全般からいえばそれは危険です。読むということは観念的なうけ入れ方で、 learning by doing という作業を重んずる考え方からは遠い。教養ということも技術、生活・行動と関連してとり入れる。それが新しい行き方ではありませんか。


黒田: 読み方が生活や行動と対立するような考え方には反対です。私は民主的国民の要請には読書を通じて知識を増し、倫理観念を高め、審美能力を養い、特に人間性に対する理解を深めることが大切だと考えるのです。読書によって他人の経験を間接に経験することが、それ自身一種の doing だと考えたいのです。


広瀬: 少し問題をせばめて、母国語と外国語との関係を考えたらどうでしょうか。
母国語の場合には初学年からコーア式にやっても結びつくが、外国語になるとそうはいかないと思う。思考が進んでいないとできない。上級にいく程易しくなるが、始めは技術だけを扱うことになるでしょう。


桜庭: その技術の扱い方が問題で、従来のようにただ文法的系統的に、生徒の生活経験を全く無視した教材配列でやるのではコーアと結びつかないのは当然でしょう。そこで子供の生活と外国語とがどのくらい結びつくかを調べなければならなくなる。


広瀬: 外国語が子供の生活の一体どの位を占めるかが問題だね。


福田: コーアと関係させるか、させないかが根本の問題ですね。


宍戸: コーアに結びつけようとすれば、地方毎に差はあるが、外国語という教科を全然とり除くことはできないでしょう。日本人の全ての needs に合うかどうか、義務教育に望まれるものであるか、secondary でさせるべきものかどうかを考察せねばならない。


黒田: 外国語教育ではすぐ実生活に役立つ事ばかりを目標とできないこともある。殊に技術面の練習段階ではそうである。その場合 mental discipline が主な目標になると考えられる。


石橋: 技術とは外国文化を吸収する手段です。


福田: その手段から入って、本物をつかまえさせようとするのですね。


(後略)

*1:なお、基本的に新字・現代かなづかいに直してあるが、一貫していない場合もある

*2:ちなみに、桜庭は基礎練習の中にさえ、「コア」の領域があるとさえ言う。「外国語をやっている以上、始めから目には見えなくとも外国文化の吸収をやっている」という発言である。これも、コアを「外国文化の摂取」と(拡大)解釈したから可能になったものだが、そもそもの「コアカリキュラム」とはかなり遠いところに着地してしまったようだ。