2012年10月20日追記
この記事よりもしっかりしてる加筆修正版はこちら:
- 作者: 平泉渉,渡部昇一
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1975
- メディア: ?
- クリック: 17回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
英語教育関係者の中ではわりと有名だと思われる「英語教育大論争」 ―「渡部・平泉論争」とも呼ばれる― は、1975年、自民党・参議院議員(当時)である平泉渉と、渡部昇一・上智大学教授(当時)の間で行われた。
そもそもの発端は、1974年4月。平泉が、自民党の政務調査会に「外国語教育の現状と改革の方向」という試案を提出した事に始まる。これに対し、翌年、渡部が『諸君!』誌上で反論、翌月平泉が同誌上で渡部に反論、その翌月渡部が再反論・・・というように展開した。
当時の英語教育界に与えたインパクトは相当なものだったらしく、現在でも、英語教育の目的論や政策に関する議論では、たびたび言及される、いわば「メモリアル」な論争である。
では、どういう論争なのかという点だが、紹介のされ方として多いものは、次のようなもの。
- 学校英語教育は「実用」を重視すべきとする平泉 vs. 「実用」重視は不要、「教養」(知的訓練)を重視すべしとした渡部
- 「一部の者だけ」が学べばいいとした平泉 vs. 「選抜教育」に反対した渡部
こうした構図は、間違っていなくもないのだが、かなり誤解が多い整理だと思う。
以下、実際のテクストをもとに、見ていく。
平泉は「実用主義者」か?
「試案」だけをみるとたしかに、平泉は「実用主義」を唱えているように見える。受験勉強に特化した訳読重視の従来の英語教育を「その成果はまったくあがっていない(9)」と批判しているからだ。
ただし、平泉がここで批判対象としているのは、教育方法・教授法(=「過程」)というよりは、戦後学校英語教育というプログラムの「成果」であることに注意したい。そして、その成果が上がらない理由の最大の原因として平泉が指摘しているのは、教授法そのものと言うより、生徒全員に、英語学習を事実上「強制」することであった。この点は、上記の発言の直後にある「三、その理由は何か」というその名もズバリの項に明記されている。
1 [効果があがらない]理由は第一に学習意欲の欠如にある。わが国では外国語の能力のないことは事実としては全く不便を来さない。現実の社会では誰もそのような能力を求めていない。英語は単に高校進学、大学進学のために必要な、受験用の「必要悪」であるにすぎない。
2 第二の理由としては「受験英語」の程度が高すぎることである。一般生徒を対象して、現状の教育法をもって、現行の大学入試の程度にまで、「学力」を高めることは生徒に対してはなはだしい無理を強要することにほかならない。学習意欲はますます失われる。
3 第三の理由は英語という、全くわが国語とは語系の異なる、困難な対象に対して、欧米におけると同様な不効率な教授法が用いられていることである。
(pp.9-10、強調引用者)
つまり、受験のために過度に高度な英語が教えられているが、それは過重な負担であって、効果があがらないという議論である。これを解決するには、「英語科の必修」という「強制」をやめて、志望者のみに徹底的なトレーニングを施すようにすべきだと平泉は提言したのである。
志望者:熱意と集中的トレーニング
ここの平泉のロジックはすこし唐突である。上のような現状認識から、なぜ「志望者のみに絞る」という提案が出てくるのかはよくわからない。じじつ、試案では、この点は解説されていない。この両者をつなぐ論理に関しては、平泉の再反論の部分で説明されている。
つまり、私の試案にいう、「志望者に対してのみ」というのは、外国語学習にとっての、二つの中心的な問題に対して同時に解決を与えるものである。その一は学習者における熱意の存在であり、その二は、教授法における新兵器[=集中的トレーニング]の採用を可能にすることである。
(p.61)
「熱意」と「集中的トレーニング」、この2点がキーワードである。「必修化」をやめて志望者のみにすれば、熱意がある生徒が集まる、そして、熱意がある生徒ならば、集中的トレーニングにも耐えられる。
現在の日本の英語教育は、かなり「実用」を重視しているとされている。じじつ、きわめて多くの学校・教室で、コミュニケーション活動がふんだんに取り組まれた英語の授業が行われている。では、もし70年代に、このような英語教育が既に浸透していれば、平泉は試案を提出しなかっただろうか?答えは否だろう。平泉は、「方法は間違っていないが、全員に強制して、「受験のツール」化している以上、効果は上がらない」とおそらく批判したと思う。
したがって、この「平泉・渡部論争」を図式化する上では、「実用 vs. 教養(知的訓練)」よりは、「(事実上の)選択教科化 vs. 事実上の必修教科を維持」という図式が妥当であると思う。(なお、ここに「事実上」という文字をしつこく付記したのは、制度上、当時の中高英語科は「選択教科」だったからである)
なお、この「選択教科化」というのを「一部の人だけが英語を学ぶ」と考えれば、「選抜主義 vs. 平等主義」という対立だと理解する人もいるかもしれないが、少なくとも同書の文言を見る限り、それは妥当ではない。平泉は、「選抜すべし」というような発言はしておらず、むしろそのような立場を否定しているのである(政治家としてのリップサービスということもあるだろうが、おそらく本音レベルでもそうだったと思われる)。その点で、この平泉の立場は、たとえば、水村美苗の「一部の者を日英バイリンガルに」(『日本語が亡びるとき』)という提案と同一視することはできない。むしろ、1950年代の加藤周一の「英語必修化反対論」と多くの認識を共有している議論だと思う。この点は、また後日。