こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

今週末のJASELE発表原稿


今週末の全国英語教育学会・愛知研究大会(http://www.jasele2012aichi.jp/)での拙発表の発表原稿をアップします。
当時は、8月5日(2日目)のポスター枠で発表します。


以下の内容は、随時修正(というより加筆)されていきますので、ご了承ください。





「英語力育成のための英語教育」はいつ生まれたか?

―英語教育目的論の戦後史―

1.平和のため vs. 英語力育成のため

「英語教育の主たる目的は英語力の育成である」――このような目的論は、現在、多くの英語教師にとってごく自明のものと思われる。むしろ、英語力育成ではなく、「平和」や「民主的な社会建設」をスローガンとした英語教育に、違和感を覚える人々のほうが多いのではないだろうか。しかしながら、この構図は、およそ60年前、戦後・新学制が発足した頃には正反対であった。当時、1951年に示された『学習指導要領外国語科英語編(試案)』(以下、「指導要領試案」)の「中等教育課程の目標」(第1章)という項を見てみよう。


・・・自国のものとは異なる生活様式・歴史および文化をもつ人々に対して望ましい態度をもたないでは、生徒は寛容な世界的精神をもつ公民に成長することはできない。さらに生徒は、一般人類の福祉に寄与する公民に成長すべきである。さもなければ、外国語の習得もほとんど意義を有しないであろう。習得した技能はその目的を離れてはなんの意義も有しないのである。(第1章I-2第8段落、下線引用者)

以上のように、中等英語教育の究極的な目的は、「寛容な世界的精神」「一般人類の福祉に寄与する公民」の育成であって、英語力4技能の育成は副次的なものであることが明記されている。この一節だけでなく、指導要領試案全体にもこの立場は堅持されており、学校英語教育は「英語教育」である以前に「学校教育」である、「学校教育」である以上、平和や民主的な社会建設のために英語教育がなされるべきであると何度も強調されている。こうした見解は、指導要領試案だけに顕著なものではなく、当時の英語教育関係者に広く見られた。たとえば、戦後初期の英語教育雑誌には上記のような目的論が繰り返し現れている。


2.「平和のための英語教育」の忘却

戦後初期と対照的に、現代の英語教育では、ここまで明示的に「平和」「公民的態度の育成」が訴えられることは少ない。その意味で、戦後の英語教育は、戦後初期の理念が徐々に「忘却」されていった歴史と見ることができる。もちろん現在でも、たとえば国際理解を主眼に置いた英語教育のように、狭い意味での「英語教育」(すなわち4技能の育成)の枠を越えた教育実践も根強い。しかし、戦後初期のように、平和・公民形成という目的を「主」、4技能の育成を「従」というように、明確に序列化している主張は少数派である。


では、新学制発足当初の「理念」はなぜ忘却されていったのか。その最大の契機は、おそらく「逆コース」と呼ばれる1950年代の政治状況と、1960年代に成立した中学校外国語科の「事実上の必修化」である。前者は、日本の民主化・非軍事化に逆行する政治的・社会的変動であり、学校教育にも「民主的」「平和」という理念が退潮するという形で影響を与えた。一方、後者は、1960年代に中学生のほぼ全員が、制度上は「選択教科」であるにもかかわらず、3年間英語を学ぶようになり(寺沢, 2012)、英語を履修することが当然視される状況の出現である。このように、事実上の必修化状況が一度成立してしまえば、「なぜ英語を学ぶのか?」という根底的な問いを投げかける必要性は低下する。「なぜなら昨日もやっていたからだ」という回答が、それなりの正当性をもって ―そして圧倒的な説得力をもって― 可能になるからである。


本発表では、これらの2要因にくわえて、戦後初期の理念そのものの問題に焦点を当てたい。具体的には、指導要領試案が内包していた論理には、「平和」「公民的態度の育成」という理念を減衰させてしまう問題があったのではないか、という問いである。以下、指導要領試案および当時の文献資料に基づいて、戦後初期の英語教育目的論の理念・論理を検討する。


3.英語4技能の育成を通じた公民的態度の形成

当然ながら、同指導要領試案は、学校英語教育は平和教育だけやればよい、英語の4技能は育成しなくても構わないという提言をしていたわけではない。むしろ、「平和」「公民的態度の育成」といった教育一般の理念と、4技能の育成という英語教育固有の論理の有機的な接続が試みられていた。指導要領試案の記述を見てみよう。


もし英語が生徒の発達に寄与しようとするならば、いうまでもなく生徒はこの言語を理解し・話し・読み・書くことを学ぶ必要がある。・・・その言語を理解し・話し・読み・書くことを学ばないで、他の目標を達成することはできないからである。
(第1章 II-1-A:第3段落)

このように、英語を「理解し・話し・読み・書くこと」、すなわち4技能の育成を通さずに、他の目標、たとえば「平和」「公民的態度の形成」といった目標を達成することはできない、と述べているのである。同指導要領試案のロジックを端的に示せば、終極の目標はあくまで「公民形成」であるが、その目標を達成するうえでは、英語の4技能の育成が不可欠である、ということである。つまり、「公民的態度の育成=《主》かつ《究極の目的》」、「4技能の育成=《従》かつ《手段・媒介》」という関係である。


4.文化教養説 ―戦前・戦後の連続および断絶

上記のロジックは、「文化教養説」と呼ばれる目的論にかなり類似したものである。これは、中等教育における英語教育の意義を、英語の運用能力よりも、「教養的価値」と呼ばれる「運用能力以外の価値」に置く立場である。たとえば、戦前・戦中の英語排斥運動の際には、学校英語教育を守るための重要な理論的拠り所となり、また、その英語存廃論争を通して洗練されていった(川澄 1979)。この文化教養説も、指導要領試案と同様、4技能の育成を一概に否定しているわけではない。英語、とりわけ英文学のテクスト読解を通じた、人格的な成長を意図しているからである(山口 2001)。


ここで重要なのは、「教養」「公民形成」をめぐる論理の戦前と戦後の連続および断絶である。「文化教養説」を訴えた人々と、同指導要領試案の執筆委員がかなりの程度重複しており(代表的な人物は福原麟太郎)、理念の担い手の点で、両者は連続している。


その反面、想定する学習者層という点では、きわめて大きな断絶が認められる。その原因は、新制中学校の義務教育化に伴う、学校英語教育の大幅な大衆化である。戦前・旧学制下においては、4技能の育成と教養の有機的な結びつきは一定の説得力を持っていた。なぜなら、旧制中学はどちらかといえば「エリート」の生徒を対象にしており、そこで読まれる英語も、「人格形成」のイメージに親和的な「高尚」なテクストを選ぶことが可能だったからである。他方、高度に大衆化した新制中学校において、生徒に提供する英語テクストの質は落とさざるを得ず、したがって、「教養」のイメージから乖離が生じたからである。このように、「戦後型文化教養説」には、理論的な「欠陥」を内包していた。


「4技能の育成を通じて教養的価値を達成すべし」と言われても、新制中学の生徒を目の当たりにして、両者の結びつきにリアリティを感じなければ、「4技能の育成」のみに焦点化していくことは無理のないことである。このように、「戦後型文化教養説」が内包する問題が、後の「平和・公民的態度の育成」という目的論の「忘却」を促した可能性が示唆される。


5.引用文献

川澄哲夫 (1979)「英語教育存廃論の系譜」『英語教育問題の変遷』(pp. 91?136)東京:研究社
寺沢拓敬 (2012、出版予定) 「『全員が英語を学ぶ』という自明性の起源 ---《国民教育》としての英語科の成立過程」『教育社会学研究』 第91集
山口誠 (2001) 『英語講座の誕生---メディアと教養が出会う近代日本』東京:講談社