こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

『英語カリキュラム』に対する石黒魯敏の批判

昨日の続きです
昨日の記事:戦後初期の山村における英語教育を伝える資料 ---禰津義範著『英語カリキュラム』 - 旧版こにしき(言葉、日本社会、教育)※2018年4月、新ブログに移行済み

---「禰津氏の《教養英語》は社会科だ」

昨日の記事では禰津氏の『英語カリキュラム』の内容を紹介しましたが、1950年代半ば、石黒魯敏(石黒魯平)はしばしば、わざわざ同書の書名・著者名を出して、批判しています。

たとえば、1954年には

それで突き当るのは、近頃流行の教養英語とか英語教養とかいう、外国語学と教養との関係についての世間の考え方です。長野縣で成績をあげている禰津という先生が開隆堂から出した英語カリキュラム、御覧ですか、――有益な研究ですが、その中に教養英語の組を作つて、名作を訳して知らせるがいいと説いてあります。これは英語科でなく社会科ですね。学習指導要領の改訂版は、之を強く戒めています(「SyntheticReading」 『英語教育』1954年9月号 p.8)

と、禰津氏の「教養英語」の実践は、「英語教育」ではないと批判しています。さらにその2年後の1956年には、

先生が迷羊である以上に英語教育の迷羊たる生徒が沢山いる。それを救うための「英語教養」を与える道は何であろうか。価値ある読物を翻訳紹介するのはその一つと祢[ママ]津氏は云うが、それは英語の先生が英語の時間にやるだけの話で、それが「英語教養」だということになるまい。「英語の教養」は語学そのものの中に求めるべきであると思うがどうであろうか。(「英語の教養」『英語教育』1956年5月号、p. 2)

というように、また同様の論理で、禰津氏の「教養英語」論を批判をしています。


石黒氏と禰津氏が面識があったかはきちんと調べていないのでわかりませんが(誰か教えてください)、これは禰津氏がちょっと気の毒というか、石黒氏の「イチャモン」の感をぬぐえません。たしかに、「中学校の英語科は、教養をつけるのが最大の目的なんだから、英語を読まなくても、英語の翻訳を読めばいい」という趣旨のカリキュラムを禰津氏が提案していたということならば、問題視するのもわかります。


しかし、そもそも禰津氏はそんなことを言っていません。上記の「教養英語」のクラスの話は、同書でたった1回、微妙なものを入れても2, 3回触れているだけです。むしろ、同書は、音声指導を軸とした4技能の育成を中心にしたカリキュラムが提案されています。そして、なぜ、「教養英語」のクラスの話が出てきたかと言えば、進路や学力に応じてクラス編成をしたとき、中学卒業後就職するクラスには「農村の文明化を担う英語科の使命」として翻訳を扱うのもアリだと言っているに過ぎません。


それを差し引いたとしても、石黒氏の「英語科ではなく社会科だ」という批判は、進学者がごく少数派で、しかも地域のサポートもない逆境の環境をあまり考慮していない意見のように見えます。たしかに、石黒氏は地方の学校をまわることもあったので、地方の実情を知らなかったはずはありませんが、過度に硬直した「都市」中心、「英語英文学」中心的な見方のようにも見えてしまいます。