こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

戦後初期の「科学」としての英語教育(その1)

和歌山大学の江利川春雄先生に以下の文献をご教示いただきました。ありがとうございました。


タイトルが示すとおり、中高の英語教員の指導者講習のために作られた冊子。英語科教育法に関する網羅的な記述があり、多くの示唆を含む文献だが、ここでは「科学/科学的」という点に注目したい。

天才的直感による教育は、日本伝来の名人芸として今日もかなり高く評価されてはいるが、それはもう新しい時代の日本を育成していくには不十分である。今日の教科教育法には科学的根拠がなければならない。

はしがき

「英語科教育法はサイエンスであらねばならぬ」――参加者の一員のこの真剣な発言をもつて1952年の英語科IFEL(教育指導者講習会―引用者注)は開かれたのです。

編集後記


「はしがき」と「編集後記」から引いたが、これ以外にも、同書にはことあるごとに「科学(的)」という用語が登場してくる。ひとつの基調をなしていたといってよい。


「科学」「科学的」は、戦後(初期)思想にとって重要なキーワードのひとつなので、1952年の文献にこの言葉が繰り返されていたからといって驚くにはあたらない。ただ、興味深いのは、英語科教育は、ほかの教科教育とはちがって、「科学化」がかなりうまくいった領域ではないか、という点である。


私は学部まで教育学の研究室に所属し、修士課程から応用言語学系の研究室に移ったのだが、そこで指導教官や先輩の「ことばづかい」を耳にしてとても驚いたのが、「科学的」ということばが、まだ完全な「現役選手」として輝きを放っていたことだった。じっさい、英語教育の研究論文を見ると、膨大な量の数値が収められた表や鮮やかなグラフが並んでいて、場合によってはいくつもの数式さえ併記されていた。学部時代に読んだ教育学の論文では見かけることのなかった「サイエンス」らしさである(学部時代に接した「教育学」は、必ずしも教科教育ではなかったが、フィールドとしては、専攻スタッフの関係上、国語教育や社会科教育が多かったように記憶している)。


しかも、同書を読む限り、戦後初期の「サイエンス」としての英語科教育法には、単なるスローガンを超えた、ある程度洗練された知識体系であることがうかがえる。もしそうであれば、そうした知識が戦前からすでに蓄積されていたはずである。これは、言語学・心理学と密接な関係にあったことが原因のひとつだろう。


戦後の英語科教育は、「教育科学」の成功事例として、たとえば教育学・教育社会学に重要な示唆を与えられるかもしれない。

*1:東京教育大だと思うんだけれど、そうはなっていない。