こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

韓国における英語教育の地域格差是正をめざしたネイティブ講師派遣プログラム



Jeon, Mihyon. 2012. Globalization of English teaching and overseas Koreans as temporary migrant workers in rural Korea. Journal of Sociolinguistics, 16 (2): 238-254.


浅学ながらこの論文を読むまで知りませんでしたが、韓国では李明博政権主導のもと2008年から「TaLKプログラム」(Teaching and Learn in Korea)という英語教育に関係したプログラムが行われています。プログラムの詳細は、TaLKウェブサイト(http://www.talk.go.kr)にも書いてありますが、英語のネイティブスピーカー(と思われる人)を採用し、韓国の田舎の学校に派遣する制度です。こうした特徴からも明らかですが、その主たる目的として、都市と田舎の地域間格差是正、教育の機会均等がかかげられています。


日本のJET Programme の田舎版のようにも見えますが、TaLKの大きな特徴は、コリア系のエスニシティを持ったネイティブスピーカーを主なターゲットにしているところです。著者曰く、「自分のルーツの国で学べる貴重な機会」というように、参加者のエスニシティ/ペイトリオティズムに訴えかけているとのことで、その点で、JET Programme のような「他者」との交流を念頭に置いたプログラムと異なります。

「英語教育の機会均等」プログラムの光と影

この論文の主たるオチは、このように地域間格差是正・教育の機会均等を目指してたはずのTaLKプログラムが、実際は、そのような役割を果たしていないのではないか、むしろ、格差を維持・拡大しているのではないか、という点です。というのも、TaLKプログラムは、近年の韓国における、新自由主義的教育の雰囲気のなかであらわれてきたものだからと言います。つまり、「田舎における英語教育機会を保障する」というよりは「(都市だけでなく)田舎からも人材(人的資本=human capital)を育成・発掘する」ものとして理解すべきプログラムだとのことです。


著者の「新自由主義」(neoliberalism)という語の厳密な定義がよくわかりませんが ---悪く言えば「マジックワード」で、良く言えば「探索的/発見的概念」といった印象--- 教育の機能を「国力に資する人材の供給」に一元化する考え方、程度の意味と考えれば、なるほど、「教育の機会均等の背後に、新自由主義的な発想が」という著者の主張はよくわかります。


「田舎にはネイティブがいない!」

さて、そもそも、なぜTaLKプログラムが、地域間格差の是正に貢献すると考えられたのかと言えば、「都会には英語の私塾がたくさんあるので、都会の子どもたちはネイティブスピーカーから英語を学べるが、田舎には外国人が全然いないので不公平」という発想がありました。というわけで、田舎だけにネイティブ英語教師を派遣すれば、「生きた英語」を学ぶ機会の格差は是正されるというわけです。


しかしながら、著者は、教員リソース面の保障をすれば即格差が解消されるという政府の見方を単純すぎると批判します。著者のインタビューに対し、あるTaLKプログラム教師は、田舎にはそもそも英語学習に対する熱意がそれほどない点を指摘しています。この観察は、「韓国人=教育熱/英語熱が高い」というステレオタイプ的な見方と鮮やかな対照をなし、興味深いです。該当部分を引用します。

My students are different from stereotypical Korean children in that they do not all have overzealous parents; some of them don’t have parents at all. Many lack the parental encouragement that often pushes a child to strive in school. Receiving good grades in school is not important for these children . . . They are children of extremely rural circumstances and lack the privileges of most urban students.
(p. 248)


つまり、そもそも都市と地方の教育格差は、単に教育リソース・学習リソースの配分の問題だけではなく、田舎を取り巻く構造的・経済的・文化的要因の格差を反映したものであるということです。この点を政府はほとんど考慮せずに、「ネイティブ教師だけ田舎に配置すれば機会均等」などと言っていると著者は批判していますが、教育社会学・教育経済学の「定説」から言えば、ごくまっとうな批判でしょう。

英語学習に懐疑的な田舎

「田舎は英語学習の意義を感じていない」という話、驚いた人もいれば、当たり前だと思った人もいるかもしれませんが、日本にすでに先例があります。「学習意義を感じない田舎」というのは、日本の英語教育界でもある時期まで大きな問題でした。


その最も大きな「事件」が、1950年代後半から1960年代初頭の日本教職員組合(いわゆる「日教組」)の教育研究集会・外国語分科会の議論です。「生徒・保護者・地域が英語学習の必要性に疑問を抱いている」と、主に地方の教師から悲鳴が多数寄せられたのです(詳細は、相澤真一, 2005, 「戦後教育における学習可能性留保の構図」『教育社会学研究』76: 187-205.)。なお、このブログにも、いくつか「農村の英語教育論」に関する記事をアップしていますのでご参考まで:

「英語は不要」視を、「地域格差」と見るか「田舎の特徴」と見るか

明言を避けているようですが、著者は、田舎の人々に「英語熱」が欠けていることを、教育機会均等を阻む一要因と考えている記述は散見されます(ただし、明言を避けているように見える以上、慎重な態度を堅持していることは確かです)。


これはけっこう難しい問題です。もし仮に、英語・英語力が、「資本」としてまったく機能していないのであれば、英語学習に意義を見いだすかどうかは、単に「趣味の問題」であり、不平等を引き起こす「格差」とは見なされないはずです。(バイオリンの演奏能力がいい例で、これらはほとんどの場合、「経済的社会的富」を生み出さないので、「教育機会の保障のために、学校でバイオリンをみんなが学べるようにすべき」という話にはなりません)。もちろん「英語がまったく資本として機能しない」ということは考えにくいんですが、反面、「実際は、英語は富を生むのに、韓国の田舎の人々はそれがわかっていない」という風に考えるのも、人々の「合理的判断」をあまりに軽視している可能性もあります。


現実はその中庸なんでしょうが、この点、つまり「単なる差」なのか「不平等を引き起こす格差」なのかを判断するうえでは、当該社会において、どれだけ英語が資本として機能しており、また、機能していないのかを、きちんと客観的に測定する必要があります。もちろん第2言語として英語が流通している、いわゆる "Outer Circle" の国々(たとえばインド)においては、「英語=資本」はおそらく自明なので客観的な測定の必要もないでしょう。しかしながら、外国語として流通している韓国や日本など "Expanding Circle" の国々では、この点の冷静な判断が重要になってくるでしょう。この点で、こうした問題への知見を得るためには、(応用言語学ではどちらかといえば周辺的なフィールドである)"Expanding Circle" の事例がむしろ重要な貢献を果たすことが考えられます。