こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

英語教育の「必要性・教育目的・普遍的カリキュラム」というトリレンマ問題

(以下の文章はこの論文に掲載するために書いたものです)


「日本社会における英語使用の必要性は、まだそれほど高くはない」ということは各種統計から明らかだが(拙稿「『日本人の 9 割に英語はいらない』は本当か? ―仕事における英語の必要性の計量分析」『関東甲信越英語教育学会学会誌』第27号、2013年5月刊行予定)、それでは、こうした現状と、英語教育目的論・英語教育政策はどのような関係で把握できるだろうか。

「優等生風」に言えば、「ニーズがまだ小さいという現状をきちんと考慮しましょう」となるだろうが、実際のところ何も言ってないようなものなので、もうすこし丁寧に考えてみたい。

英語教育目的論のトリレンマ問題



学校英語教育、とりわけ義務教育に英語教育が導入された戦後英語教育を正当化するうえで、次の3つの原理が重要である。すなわち

(A) 社会統計的実態の考慮
「英語を必要とする人は少数である」という実態を深刻に受け止める
(B) 非逸脱性
「英語学習」のコアイメージを重視して、「英語」から距離のある理念を前提にしない
(C) 普遍的カリキュラム
同質・同量の教育内容を提供することが望ましい

である。しかしながら、これらは2者が成り立つと、もうひとつが成り立たないという意味でトリレンマ(trilemma)と呼べる構造をもつ(図参照)。


具体的な説明を、以下の表をもとに確認する。以下は、上述の3つの原理のうちどれを重視し(+)、どれを重視しないか(-)という観点から、異なる目的論を類型化したものである。

A 社会統計的実態の考慮 B 「英語」からの非逸脱性 C 普遍的カリキュラム   具体例
I
-
一部の生徒に集中的特訓 加藤周一平泉渉成毛眞『日本人の9割に英語はいらない』、(後期渡部)
II
-
抽象的な教育目的を設定 指導要領試案、日教組「四目的」、渡部昇一
IIIa
-
国家総動員」的英語教育論 文科省「行動計画」、第2英語公用語論(船橋洋一
IIIb
-
基礎教育としての英語教育 茂木弘道山田雄一

I エリート主義的

第一は、英語の必要性が社会全体に浸透していないことを認めたうえで(A+)、英語力を育成するという「英語科独自」の成果を期待する立場(B+)であるが、これを普遍的なカリキュラムに乗せようとすると「必要ない人にまで学習を押し付ける」という事態になるため、「普遍的なカリキュラム」を正当化するのは不可能である(C-)。この立場に立つ論者は、一部の生徒に集中的な特訓を課すことを ―ある意味で「開き直って」― 主張し、したがって、エリート主義的な教育論を展開することになる。代表的な論者は、1950年代半ばに中学校英語の義務教育化に反対した加藤周一、平泉渡部論争(1975年)における平泉渉の主張がこれにあたる。昨年刊行された成毛眞『日本人の9割に英語はいらない』も「英語が必要な1割に徹底的な訓練を」と述べており、この立場である。そしてさらに重要なのが、あまり知られていないことではあるが、1950年代後半の文部省も、このようなエリート主義的な英語教育政策を志向していた――結果的にそれは失敗に終わったわけだが(詳細は、拙著『「なんで英語やるの」の戦後史』第5章を参照)。

II 抽象的目的論

第2の立場は、第1の立場と対照的に、学校英語教育(とくに義務教育段階の英語教育)がすべての生徒にとって意義(relevance)を持つことを最重要視する(C+)。しかし、同時に、英語の社会的必要性も限定的であることを認めているため(A+)、「すべての子ども」に関わるカリキュラムとして、英語力育成に特化した目的論を展開することはできず(B-)、したがって、抽象的・理念的な目的論を提示することになる。代表的なものとして、「教養上の目標」を英語科教育の「終極的な目標」とした戦後初期(1951年)の学習指導要領試案や、前述の平泉渡部論争において「知的訓練としての英語学習」を強調した渡部昇一の主張*1をあげることができる。また、日本教職員組合の教育研究集会が提示した、いわゆる「外国語教育の四目的」も、英語の4技能育成だけでなく、異文化理解や日本語への認識を深めることを学校英語教育の重要な意義として強調しており、この立場を代表する主張である。

III (a)「国家総動員」的英語教育 / (b)基礎教育

このように考えると、「英語」のコアイメージを維持したまま(B+)、すべての生徒に英語教育を提供することが正当である(C+)と主張しようとすると、必然的に社会統計的実態を無視ないしは軽視せざるをない(A-)。この立場は、英語の社会的必要性に関してとる態度の違いによってさらに下位分類される。ひとつは、序盤で引用した船橋洋一や「行動計画」の主張に特徴的にみられるもので、「多くの人に英語は必要だ」という現状とは乖離した現状認識に基づくものである。逆にいえば、社会統計的実態の正確な把握を前提にしないからこそ、いわば「国家総動員」的な英語教育論は展開できるのである。

もうひとつは、英語の必要性は限定的である点を認めつつも、たとえば「学校英語教育には独自の意義があり、社会のニーズに100%応える必要はない」というように、学校英語教育の自律性を社会統計的実態に大幅に優越させる立場である。典型的な主張が、茂木弘道による、義務教育は「すぐ役立つなどということを目的とするものではな」いのだから、「全員に基礎力としての英語を教え、実際に必要性を感じるようになったときに、より高度の英語力をつけられるベースを作っておくべき」であるという主張である(茂木 2005: 49)。こうした論者は、社会的実態とはとりあえず独立させた「英語の基礎」を仮定し、その教育の徹底を強調するので、「基礎教育」としての学校英語教育を概念化する山田雄一郎の議論(山田 2005)もこの系譜に含められる。


日本の英語教育目的論における「必要性」という制約

以上、日本の英語教育目的論においてトリレンマがいかに成立してしまうかを例証したが、ここで気づくのは、もし英語の必要性が日本社会全体に浸透してしまえばこのトリレンマは解消されることである。英語の技能習得が、すべての(そうでなくとも多数の)生徒の必要性に合致していれば、それを普遍的なカリキュラムとして提供すればよいからである。このような状況は、英語が公用語(あるいは事実上の公用語)として使われている社会における英語教育では、一般的に見られる現象だろう(たとえば、英米における移民やその子どものための英語教育ケベック州の英語教育)。日本の英語教育が、上述のトリレンマを抱え込んでしまったのは、日本の社会的条件が主因であると言える。

少なくとも短期的には、日本社会全体に英語が浸透することはないだろう。したがって、このトリレンマは、まだしばらくのあいだ日本の学校英語教育に必然的についてまわるはずである。このトリレンマを完全に解決することは理論的に不可能である以上、考えるべきは、構成する3つの原理(A/B/C)のうちどれを重視して、どれに優越させるかという点である。この優先順位を決める作業は、本稿の問題設定である「日本社会に英語のニーズはどれだけあるか」のような経験的(エンピリカル)な問いとはちがい、基本的に規範的な問いである。したがって、どの原理を重視/軽視することがもっとも正当性が高いか、哲学的・倫理学的な議論が今後求められる。

*1:少々ややこしいことに、渡部昇一は、論争からおよそ四半世紀後、著書『国民の教育』(渡部 2000)のなかでは、エリート主義的な英語教育を全肯定しており、したがって、平泉の主張と大差ないものとなっている。2000年前後のいわば「後期渡部」は、第2の立場ではなく第1の立場に分類するのが妥当である。