こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

英語教育学と主観/客観

国際化の中の英語教育
羽鳥博愛著『国際化の中の英語教育』を読んだ。以下は、同書所収の「英語科教育学の立場」という論文について。


この論文は、『教科教育学の成立条件』(東洋館出版、1990)という各教科と学問の関係を論じた本に寄せたものの再録で、英語教育と学問の関係を論じたもの。」


以前、英語教育研究と主観/客観の問題についてちょっと話した/書いたことがあるのだけど(教育研究としての「外国語教育学」 - こにしき(言葉、日本社会、教育))、この論文におけるキーワードが、まさに「主観/客観」だった。しかし、用語やロジックがよくわからない…。

日本では英語教育の研究会は昔から各地でよく開かれているが、その研究会の内容はたいてい公開授業を参観し、その授業についての意見を交換する。また、有識者を招待してその講演を聞くというようなものであった。このやり方はそれなりに有効であったが、この種の研究会でそれぞれの人の述べる意見はいずれもその人の過去の経験に基づいた主観的な意見であった。しかし、英語教育を学問として成立させるためには、主観による感想的な意見を中心とするのではなく、客観的な資料を積み重ねていくことを考えなくてはならない。


なぜかというと、事柄の是非を主観的判断に依存しているかぎりは、どうしても年長者や経験者の意見が優先することとなり、もしその人たちの考え方が偏っている場合には、公正な結論は得られないからである。また、二つ以上のことを比較する場合には、客観的資料がなくては厳密な比較は期待できないからである。(pp. 60-61. 強調引用者)


ここのロジックを整理すると(太字部分参照)、

  • 客観的な根拠に基づかないと、
  • 公正な結論は得られないから/厳密な比較ができないから
  • 英語教育が学問として成立しない


というように読めるんだけど、これはぼくの読み違い?


因果関係が逆なら、つまり、「学問的な要素も入らないと、公正な結論は得られない」というロジックならば、(「学問」の権力性を慎重に考慮するなら)よくわかるんだけれど、これだと、学問として成立させるのが最終的な目的みたいに読める。


ついでにいうと、「客観的な根拠に基づかないと公正な結論が得られない」というロジックも、もちろん「客観的」「公正」の意味次第だけれど、なんだか言い過ぎな感じがする。「事実」ならともかく*1、「主観」を考慮しない「公正さ」ってあるのだろうか?

筆者は以前二人の著名人が「音読にさいしてのナチュラル・スピードの是非」について論争する場に居合わせたことがある。Aは「ナチュラル・スピードでは生徒はついていけないから、もっと加減すべきだ」と主張し、Bは「ナチュラル・スピードでなく遅いスピードでの英語を聞かせるのでは、英語を教えたことにはならない」と主張し、その論争は三〇分近くも続いた。しかし「一分間何語ぐらいで読むのをナチュラル・スピードと考えるか」という第三者の質問で、この論争にはけりがついた。AもBも生徒に適当だと考えるスピードについては意見が合っていたが、ただナチュラル・スピードをどのくらいの速さと考えるかがちがっていたのである。この話は客観的資料の必要性を示している好例ではないであろうか。(p. 60)

これも主観的根拠/客観的根拠というより、定義の共有/非共有ということではないかな?

*1:ま、認識論的にややラディカルな立場をとるなら、これも微妙だけど。