こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

羽鳥博愛氏の英語「選択制」論

昨日は、渡部昇一氏の英語選択制論を紹介した。
今日は、羽鳥博愛氏。
出典は、『国際化の中の英語教育』(三省堂

中学校と高等学校の英語は今でも制度上は選択科目である。ところが実質的には、ごく僅かの例外を除いては、ほとんどすべての学校で英語が教えられていて必修科目と同じである。国語でさえ学校の授業についていけない生徒が少なくない現状であるから、英語を選択科日としたのは妥当だと筆者は思う。


英語に関するある程度の知識が今後の社会において教養の一部となることは否定できない。しかし、その程度はごく低いものであって差し支えなく、指導要領で言えば中学二年ぐらいでよい。したがって、中学二年までの英語は必須とすることとし、中学三年以上の英語学習には徹底した選択制度を取り入れるべきであろう。(p. 91)

ここ、提案内容だけ見れば、「平泉試案」に似ている。ただ、どういう根拠で選択制を擁護したのかは、ちょっと違うようだ。「平泉試案」の場合は、かなり国家主義的な色彩が強かった(「英語で日本を発信する精鋭を育成しなければならないから少数選択制で」とう主張)わけだが、羽鳥氏の主張は、「国語についていけない人がいるならいわんや英語をや」とか「それほど程度の高いものは社会一般で求められていないから」といったような風に読める(明記はない)。


話は、1980年代の中学校の英語授業時数削減への反対運動にうつる。

一時、中学校の英語の授業時間が週三時間になったときにこの制度に不満を感じた人は多いが、それは週三時間では授業能率が上がらず、生徒の英語力の低下が心配されたからである。しかし、どの生徒にも一律に英語学習をさせるというのはどういうものであろうか。中学二年までの英語の学習を通じて英語学習に興味を感じ、さらに英語を勉強したいと望む者や、将来のことを考えて英語学習の必要性を感じている者には、現在以上に英語を学習させるのがよいであろう。しかし、学習を希望しない者には英語学習を免除してやることを考えるべきである。(p. 91)

この論文の初出は、1983年とのことなので、まだ、反対運動は完全に下火になっていないころだと思われる。英語授業時数の削減への反対運動は、ある面で、英語教育関係者が自信の権益を守る運動とも言えた(もちろん大義名分でそんなことを言う人はいなかったが)。羽鳥氏は、「既得権益」の側の人間でありながら、距離をとってこの運動を眺めていたということだろうか。