こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

『日本人と英語の社会学』への批判書評に対する再反論

拙著『「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』に書評を頂いた。以下のリンクを参照。
STUDIO » 「日本人の1割も英語を必要としていない」は本当か?

評者である「ぷくろう氏」*1のトーンは全体的には批判的である。かなり長い文章だがぷくろう氏の批判のポイントは以下の9点にまとめられるだろう。

ぷくろう氏の批判の骨子を抽出するなら、「寺沢の論証の仕方は多くがストローマン論法だ」となるだろう。なお、ストローマン論法とは、論敵の主張を批判しやすいように歪めたうえで批判する詭弁の一種である。まるで叩きやすいワラ人形 (straw man) をこしらえたように見えることからこの名前がついている。

以下に反論するように、ぷくろう氏の批判点の大部分が、本文ですでに答えが出ている内容である。ぷくろう氏がその箇所を意図的に無視したのか、それとも読解力不足のせいで見落としてしまったのかは知らないが(興味もないが)、いずれにせよ無内容な指摘である。

この意味で、ぷくろう氏の「ストローマン論法」批判そのものが、ストローマン論法である。

ぷくろう氏の9つの批判点

  • 1. 第3章の「日本人は英語下手」言説の検証はストローマン論法である。寺沢氏は、橋下徹氏の街頭演説の発言をやり玉に上げているが、実証分析による検証に値する発言ではない
  • 2. 寺沢氏は文科省の英語教育政策である「行動計画」を「国家総動員的」と批判している。しかし、「行動計画」を読んだがそのような部分は確認できなかった。
  • 3. 「日本社会全体が英語病だ」などと考えている人はほとんどいないので、それを反証ようとした寺沢氏の分析も無意味である
  • 4. 寺沢氏は「客観的な必要」こそが日本人の英語使用の必要性を示す尺度であり、英語使用の必要性は実際に英語を使用したかで測定できると主張しているが、この議論はおかしい。
  • 5. 寺沢氏の「英語が必要な人:1割」という推計には問題がある。「英語ができないために英語を使わなかった」人の存在を考慮していない。
  • 6. データは自ら何も語らない。コップに残っている半分のジュースと同じで、英語の必要な人が「1割しかいない」と考える人もいれば「1割もいる」と考える人もいる。寺沢氏は、たいした根拠もなく前者の立場を採用しているに過ぎない。
  • 7. 文部科学省が義務教育課程の到達目標を掲げるのは当然のことであり、それを「国家総動員」的と非難するのはおかしい。
  • 8. 大人になって英語が不必要かどうかわからない限り、義務教育の段階ですべての生徒に英語を学ばせるのは特におかしいことではない。
  • 9. 寺沢氏は、仕事での必要性に限定しているが、インターネットをはじめとして仕事以外の英語ニーズも存在する。

1. 第3章の「日本人は英語下手」言説の検証はストローマン論法である。寺沢氏は、橋下徹氏の街頭演説の発言をやり玉に上げているが、実証分析による検証に値する発言ではない

まったく的外れ。ストローマン論法ではない。私は3ページ強を使って、様々なタイプの「日本人は英語下手」言説を検討している(p. 55のラスト2行〜p.59ページ3行目)。企業人や政治家の発言だけでなく、白書や研究者による論文までをも総合的に検討したうえで、リサーチクエスチョンを導出している。

橋下徹氏の発言は章のイントロダクションのための一エピソードである。その証拠に節番号すら振っていない。つまり、私が橋本氏の発言だけを槍玉にあげたかのように書くのは不当な言いがかりである。むしろ、ぷくろう氏の批判のやり方こそストローマン論法の典型である。

ところで、枝葉末節ではあるが、ぷくろう氏の以下の解釈はおかしい。、

この演説で彼[=橋下徹氏] がイメージする英語ができない日本人というのはエリート層の日本人を指すと考えるのが妥当です

妥当ではない。街頭演説という状況、前後の文脈(自民党の教育政策に対する批判)、および当時の維新のマニフェストを考慮すれば、「エリート層の日本人を指す」というのはむしろ曲解である。

2. 寺沢氏は文科省の英語教育政策である「行動計画」を「国家総動員的」と批判している。しかし、「行動計画」を読んだがそのような部分は確認できなかった。

私は77ページ第4段落(および注1)、および、248ページ第3段落において、該当箇所を出典とともに明示している。

ぷくろう氏の指摘は、まるで私が印象論で「行動計画=国家総動員的」と評したかのような言い草である。

本文で明示的に議論しているものを、まるで書いていないかのように印象操作するのはやめて欲しい。

3. 「日本社会全体が英語病だ」などと考えている人はほとんどいないので、それを反証ようとした寺沢氏の分析も無意味である

このぷくろう氏の指摘は以下の3点において的外れである。

第一に、「日本社会全体が英語病だ」という言説は実際に存在する。(ぷくろう氏は「言説」と「意識」の相違を知らないのかもしれないが)。私は5章のイントロダクションでわざわざ2ページも割いて(pp. 100-102)英語学習熱言説の状況を紹介しているのだが、ぷくろう氏はまたもや無視である。これも、ぷくろう氏のほうがむしろストローマン論法を弄しているというだけの話である。

第二に、5章はそもそも「日本社会=英語病」説を検証するためだけの章ではない。むしろジェンダーをはじめとした社会階層と英語学習熱の関係を検討するのがメインテーマである。実際、つづく6章でこの点を再検討している。

第三に、以下のぷくろう氏の読解は、分析全体の文脈を理解し損なっている。

4割近くの日本人が何らかの関心を持っているものについて「●●病」や「●●信仰」と語ったら、「過剰な一般化」であり「過剰な劇画化」になるんですか。そういうレッテル張りこそ「過剰」でしょう。

5.1節では件のJGSS-2003調査だけでなく、内閣府世論調査、SSM2005調査、そして、JGSS-2010調査の結果を引き、これらを総合的に判断したうえで結論を導いている。批判するのなら、5.1.節の最後の段落や「まとめ」(5.5節)をまずは踏まえて欲しい。102ページの一部を局所的に引用するようなぷくろう氏の批判の仕方はやはりストローマン論法にしか見えない。

そもそも「4割近くの日本人」が英語学習に「強く」魅了されているというならまだ「●●信仰」と論じる妥当性はあるかもしれないが、本書の「4割」という数字は「機会があれば学習したい」「しかたなく学習する」と回答した人まで含めて初めて得られた数値である。このように、ぷくろう氏には統計の読み方にも問題がある。

4. 寺沢氏は「客観的な必要」こそが日本人の英語使用の必要性を示す尺度であり、英語使用の必要性は実際に英語を使用したかで測定できると主張しているが、この議論はおかしい。

そんなことを私は一切主張していない。

客観的な必要性と主観的な必要性を区別しているのは事実だが、前者が「真の必要性」で後者が「虚像」などということは言っていない(そもそも私はそんな考えは持っていないのだから、書くはずがない)。

この点については78ページの第3段落〜79ページの第2段落、および175ページの第2段落で明示的に議論しているのだが、ぷくろう氏はまたもや無視である。

ぷくろう氏はひょっとすると「必要性」というものが単一の指標で測定可能だと思っているのかもしれない。もしそうなら、その認識をまず改めるべきである。ニーズ/必要性はそんなに簡単な概念ではない。

5. 寺沢氏の「英語が必要な人:1割」という推計には問題がある。「英語ができないために英語を使わなかった」人の存在を考慮していない。

考慮している。

その証拠に、以下のFAQのQ2でも回答しているとおり、本文で明記している
『日本人と英語の社会学』、よくあるご質問

本文で明示的に議論しているものを、まるで書いていないかのように(以下同文)

6. データは自ら何も語らない。コップに残っている半分のジュースと同じで、英語の必要な人が「1割しかいない」と考える人もいれば「1割もいる」と考える人もいる。寺沢氏は、たいした根拠もなく前者の立場を採用しているに過ぎない。

ぷくろう氏の要約の仕方がおかしい。

これも以下のFAQで回答しているとおり(Q3)、本文に明記されている
『日本人と英語の社会学』、よくあるご質問

本文で明示的に議論しているものを、まるで書いていないかのように(以下同文)

7. 文部科学省が義務教育課程の到達目標を掲げるのは当然のことであり、それを「国家総動員」的と非難するのはおかしい。

「当然のこと」の意味次第。

248ページ第3段落で述べているとおり、「行動計画」以前の文部省の政策では、そのような事態は当然ではなかった。戦後の文部省がバカだった、21世紀の文科省が正しい、ということを主張したいなら別に構わない(同意はしないが。それ相応の事情があったから戦後の文部省はそうしたのだから)

8. 大人になって英語が不必要かどうかわからない限り、義務教育の段階ですべての生徒に英語を学ばせるのは特におかしいことではない。

これも「おかしいことではない」の意味次第。

歴史的には「おかしいこと」だった時代もあった。これは私の博士論文(そして前著「なんで英語やるの?」の戦後史 ??《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程)の中心的なテーマである。昔の英語教育関係者がみなバカだったと主張したいのなら別に構わない。

9. 寺沢氏は、仕事での必要性に議論を限定しているが、インターネットをはじめとして仕事以外の英語ニーズも存在する。

限定していない。

FAQのQ7で回答済み。
『日本人と英語の社会学』、よくあるご質問

ちなみに、JGSS-2006/2010には「インターネットでの英語使用」という設問があって、(どうせぷくろう氏は読んでいないんだろうが)本書の第4章でも分析している。

本文で明示的に議論しているものを、まるで書いていないかのように(以下同文)

総評(1) 要約すると「ぷくろう氏の議論こそストローマン」

ぷくろう氏の9つの批判のうち、7. と 8. 以外はすべて、回答が本文にばっちり書いてある。本文で明示的に議論しているものを、まるで書いていないかのように(以下同文)

私が既に論じていることをまるで論じていないかのように要約して「この観点を見過ごしている」と批判するのは、典型的なストローマン論法である。

ぷくろう氏は拙著をストローマン論法が多数見つかると評しているが、まずはご自身の議論にその評価基準を適用してみたらどうだろうか。

ストローマン論法で思い出したのが、ぷくろう氏の記事の最初の方にあった以下の文章である。

教育学部の教員の多くが実証分析のトレーニングを大学院で受けていないため、厳密な実証研究を行う能力を備えていないからです。例えば、いま日本で一番著名な教育学者は尾木ママこと尾木直樹・法政大学教授ですが、彼は大学院に通っていません。学士から中高校の教員の経験を経て、大学教員になっています。彼が有名人だからこういうルートをとれたのではなく(有名になったのは法政大学の教員になってから以降のことです)、教育学部は教育者育成のための実践学の分野なので、頭でっかちの研究しかできない人よりも「現場」を経験した人の方が優遇されるからです。

「いま日本で一番著名な教育学者は尾木ママですが」
「いま日本で一番著名な教育学者は尾木ママですが」
「いま日本で一番著名な教育学者は尾木ママですが」

なんだそりゃ。

「いま日本で一番著名な法学者は竹田恒泰氏ですが」とか「いま日本で一番著名な政治学者は池上彰氏ですが」並みの与太話である。

お気軽なバラエティ番組の見過ぎではないだろうか。

尾木氏は教育評論家と自称しており、多くのメディアもそれにならっているはずだが。

要は、尾木氏を槍玉に挙げて(しかも大学院に行っていない点を槍玉にあげるところが権威主義的で笑える)、教育学を批判しているわけで、ストローマン論法以外の何物でもない。

どんなに少なく見積もっても、日本の大学において教育学部のスタッフの半数以上はアカデミアの出身者である。教育学をよく知りもしないのによくここまで全能感の溢れた批判ができるものだ。

総評 (2):内在的批評は生産性が低い

最後に指摘したい点が、「内在的批評は概して生産性が低いので、大した覚悟がない限りやめたほうがよい。外在的批評をしたほうがみんなの利益になるよ」という点である。これは、ぷくろう氏というより、読者全般に向けた一般的なメッセージである。

内在的批評とは、著者のロジックを精査し、その矛盾を鋭く突くような批評である。一見ディベート風味でかっこいいのだろう、「これぞ書評!」とか「これぞ指定討論者!」などとしばしば院生・学部生も勘違いすることもあるが、実際のところ、学術的な生産性は高くない。

学術書の著者は通常そのテーマに関しては最も詳しい専門家のひとりであるので、ロジックをめぐる問題点は度重なる精査をくぐり抜けているのが普通である。さらに出版物は通常、多数の人間の目によって徹底的に検討されている(本書も例外ではなく、約半数の章が査読論文をベースにしている)。

こうした状況だから、たいして読んでもいない学術書の内在的なロジックを鋭く突くというのは、途方もなく望み薄の作業である。鋭く指摘したつもりが、単に評者の読みが浅かっただけという例がほとんどだろう。その場合、情報量の増加はゼロである。

書評された側はたまったものではない。そのような「的外れ内在的批評」に応答したとしても、私たちの知の総量は一切増えない。これほど虚しいリプライコメントはなかなかない。じじつ、ぷくろう氏への反論もひどく虚しい作業だった。

一方で外在的批評とは、著者が言及しなかった別の理論・別のデータ・別の事例を提示することで、著者の議論を相対化することである。もちろん外在的批評でも的外れになることもあるが、少なくとも情報量は多少は増える。逆に、一見的外れであるほど情報量の飛躍的な増大の可能性を秘めているとすら言える。著者が考えもしなかった論点である可能性があるからだ。

ただし、外在的批評は簡単というわけではない。それ相応の汗をかく必要もある。著者が言及していない理論・データ・事例を引っ張ってくる必要があるのだから、それは当然である。


それでもなお、書評や指定討論を通して「知の総量の増加」に貢献しようとするなら、外在的批評を意識し、著者や読者に情報提供を試みるという姿勢を強く推奨したい。

もちろん自分の頭の鋭さを見せびらすために他者の著作を批評するのなら、どうぞ内在的批評に徹してもらえればいい。その目論見が成功するかどうかは保証しないが、自己責任でどうぞご自由に。

*1:なお、もともとの記事ではどうお呼びすればよいかわからなかったので「English Studio氏」としていました。より妥当な呼称に修正しました。