こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「良識派」英語教師とナショナリズム、その4(リサーチクエスチョン+用語の定義)

書いている途中の論文(非査読)を、コピペするコーナー!

分析課題

以上の問題点を踏まえ、本稿は、Hino (1988)の問題意識は継承しつつ、「第4期」 ---つまり、戦後約20年間 --- に焦点化して、「英語教育とナショナリズム」の様相を描く。
特に検討の俎上に乗せるのは、民間教育団体・英語教育学者を含めた、英語教員の思想的議論である。こうした人々の思想性に注目することで、戦後初期を単純に「アメリカ化・非日本化」の時代であると言えないことが明らかになるだろう。

用語の定義

本論に入る前に、用語の定義をしておきたい。

ナショナリズム}

まず「ナショナリズム」について、本稿は、最もゆるやかな定義を採用する。つまり、国家(日本という国家)あるいは民族(日本民族)の同一性を前提にして、そのカテゴリに該当する人々(日本人)の、(a) 過去・現在の優秀性を強調、あるいは、(b) 今後の発展を希求する、一連の主張を、ナショナリズムとする。


もちろん、この包括的な定義は、包括的であるがゆえ、理論的な意義に欠けるものである。
だからこそ、多くの理論家・研究者・言論人が、こうした「ゆるやかすぎる」定義を採用せず、特定の定義・特徴づけ・類型化を試みている。たとえば、アントニー・スミスの「市民的(civic) vs. 民族型(ethnic)」や、塩川伸明ナショナリズムの現出パタン4類型、はては、藤原正彦俗流愛国心論 ---「ナショナリズムと祖国愛(patriotism)は違う」--- まで(Smith 1991, 塩川 2008, 藤原 2005)。


しかしながら、本稿は、理論的な検討より、発見的性格を重視する。
つまり、ナショナリズムの類型化や、特定のナショナリズムの正当性をめぐる評価、はたまた、既存のナショナリズム理論の局所的妥当性の検証(例「日本の英語教育にも当てはまるか否か?」)を意図していない。むしろ、本稿の目的は、先行研究で「無視」され、また、関係者にもよく知られていないタイプのナショナリズムを丁寧に記述し、その存在を示すことにある。そうした目的をとる以上、最広義の定義を採用し、特定の文脈におけるナショナリズムの包括的な記述を目指すのである。


「良識派」

もうひとつ定義しておくべき語が、本稿のタイトルにもある「良識派」である。これは、理論的な用語では必ずしもないが、日本の英語教育思想を特徴づけるキーワードであるので、本稿でも用いたい。


本稿の「良識派」とは、「現実主義」の対義語で、学校英語教育の根源的な目的を深めようとする自覚的な態度のことである。結果としてどのような目的を見いだしたかには関係なく、また、その人の持つ思想(ヒューマニズム、リベラル、保守思想、等々)とも無関係である。態度を示している「状態」こそが重要である。


もちろん、日々の授業で、教育の根源的な目的を考える必要は必ずしもない。たとえば、所属集団(たとえば、国・文部(科学)省や、教育委員会、雇用者や直属の上司など)の指導方針に沿ったり、与えられた教科書に準拠したり、または上級学校の入学試験に照準を絞ることで、日々の教育実践を遂行できる。これは、英語教育に限らず、様々な教育実践においてよく見られることである。


一方で、こうした技術主義的・現実主義(リアリスト)的な教育観は、浅薄なものと見なされる場合もある。こうした「浅薄さ」を忌避する英語教師は、必然的に、与えられた仕事をこなすだけの「現実主義的」な英語教育をよしとせず、なぜ学校で英語を教育するのか、その目的を根源から考えようとする。こうした人々は、現実主義(リアリスト)的な英語教師の無思想・無見識を鏡像として自己規定している点で、「良識派」と括弧付きで呼ぶことができる人々である。実際、おそらく本人も大なり小なり自身を「良識派」として認識しているだろう。


「良識派」英語教育論および「現実主義」的英語教育論の2つのうち、ナショナリズムを検討するうえで重要なのは断然前者である。なぜなら、教師の思想のなかにナショナリズムが現れるのは「なぜ英語を教えるのか」「『日本人』にとって英語とは何か」という根源的な問いに対峙するときだからである。つまり、「日本人」による「日本人」の教育において、「英語」という「外部」のものを扱わざるを得ない意味を根源的に考えるとき、必然的にナショナリズムとの対峙につながるのである。


逆に言えば、根源的に考えないのなら ---つまり、技術主義的・現実主義的でよしとするならば---、ナショナリズムとは無縁だろう。たとえば、英語教育の「目的」を「そういうルールだから」とか「どちらにしても受験で必要でしょ」といった「正当化」で済ませられる人ならば、「日本人」にとって英語とは何かなどと考えあぐねる必要もない。