こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「英語言説」研究の必要性―英語教育研究の学問的自律性のために

2014年8月9-10日に徳島大学で行われる全国英語教育学会での発表原稿を掲載します。


2014年8月8日更新
当日の発表スライドを以下に公開します。


2014年8月1日更新
規定の予稿集原稿(見開き2ページ)に入りきらなかった部分をふくめて、全文をここに掲載します。


「英語言説」研究の必要性
英語教育研究の学問的自律性のために


寺沢 拓敬(日本学術振興会 特別研究員PD)

全国英語教育学会第40回大会(徳島大学
2014年8月9日 第3室 13:00-13:30

1. 英語言説研究とは

本発表では、既存の英語教育学に対し、「英語言説の検証」という新たな研究課題を提起し、その具体的な方法を議論する。


英語言説を本発表では、「特定の社会における英語の位置づけに関して、特定のイメージ・社会観・政治観に基づいて語られたもの」と定義する。たとえば、「日本社会は英語化している」、「日本人(あるいは日本人女性)の英語熱は凄まじい」といったものがこれにあたる。日本社会にはこうした英語言説が以前からあふれており、いまや様々なメディアに ――政策文書にはじまり、学会誌や財界の機関誌、はてはウェブ上の匿名掲示板にまで―― 幅広く浸透している。


しかしながら、英語言説のなかには、実際には根拠薄弱であるにもかかわらず、きちんと検証されないまま、まるで「真実」のように信じられているものも存在する。こうした現状から、英語言説の学術的な検証は、いま切に求められている。

2. 英語言説とその誤謬

まず、具体的な英語言説を素材に議論を行う。以下、2種類の英語言説をとりあげ、その問題性を指摘する。


1点目が、「仕事と英語」に関する言説である。たとえば「英語はこれからのビジネスに不可欠だ」といった発言は様々なメディアで頻繁に聞かれるが、必ずしも明確なエビデンスが提示されることはない。むしろ、統計的な検討の結果、実態とまったく合っていないことが明らかになったものも多い(下表参照)。このような言説と実態の乖離には、「仕事と英語」言説に内在するきわめて強力な政治性が反映していると考えられる。つまり、「仕事と英語」というトピックは、中立的・客観的な文脈で語られるというよりは、たとえば英語産業関係者の利益に資するように議論が構築されるのである。

言説 反証
(1) ビジネスパーソンの多くに英語は必要」 「必要性」に幅を持って定義しても、必要なのは数%〜数割(寺沢, 2013a)
(2) 「仕事での英語使用は年々増加している」 2000年代後半、ほとんど全ての産業で英語使用は減少した(寺沢, 2014a)
(3) 「英語力が高くなると収入が増える」 英語力に賃金上昇効果は確認できない(英語力と収入の間の相関は、学歴・職種等を介した疑似相関)(Terasawa, 2011)



図1 産業別英語使用率の変化(JGSS-2006→2010, 寺沢 2014a)



2点目が、日本社会論・日本人論の領域に属する英語言説である。たとえば、前述の「日本人(あるいは日本女性)の英語熱は凄まじい」といった言説がその代表例である。この特徴は、きわめて素朴な言語観・民族観・ジェンダー観等に基づいており、そして、特定のグループを「一枚岩」的にイメージする点である。ちなみに、「日本女性は英語好き」という言説は、戦後の世論調査を検討した結果、正しくないことが既に明らかになっている(寺沢, 2013b)。1980年代中頃までは、英語学習をしている男性、および、英語学習意欲を示す男性のほうが有意に多かったからである。



図2 外国語学習者の推移(cf. 寺沢, 2013b)

3. 検証作業の責任・意義


こうした検証作業は、どのように行われるべきか。社会と英語の関係性を検討する以上、社会科学的な分析が中心となる。したがって、理論的には、次の2つのパタンが考えられる。すなわち、

  • (a) 社会科学者が、英語・英語教育に関するテーマを検討するというパタン
  • (b) 英語教育学者が、社会科学的な手法を用いて検討するパタン

の2つである。



このうちより重要なのが、 (b) の英語教育学者が主体となる方向性である。その理由としては、経済学者や社会学者など社会科学者の関心は多岐にわたり、英語に関する網羅的な検討は必ずしも期待できないという消極的理由も当然存在するが、それ以上に重要な積極的理由が存在する。以下に3点を述べる。

第1に、英語教育学の当初の位置づけである。学問が構想された1970年代頃において、英語教育学は、社会科学を含む様々な学問領域を援用し、英語教育を総合的に検討する「科学」として構想されていた(小笠原, 1972)。その意味で、社会科学的アプローチの居場所は、英語教育学のなかに昔から存在していた。


第2が、英語教育学の倫理的責任・応答責任である。そもそも英語言説を頻繁に利用し、場合によっては利益すら得ている者は、英語教育学者のなかにも少なくない。この点で、英語言説の流通と英語教育学は、部分的にせよ、共犯関係にある。こうした状況を深刻に受け止めるならば、いわば「排出者責任」として、英語教育学者自身にその検証の責任が発生するはずである。


第3に、学問としての自律性を確保するうえでも、英語言説の検証は重要である。前述したとおり、英語言説は、ビジネスや政治と密接に結びついており、場合によってはマスメディアの扇情的な報道によって増幅さえされている。こうした現状は、英語教育学の学問的自律性を損ない、最悪の場合には、「御用学問」化にさえつながりかねない。したがって、ていねいな学術的検討を通じて、この種の言説を相対化し、様々な権力関係と適切な距離をとることは、英語教育学の学問的自律性を維持するための重要な、そして有効な方策である。

4. メソドロジー/アプローチ

最後に、英語言説の研究方法として、以下の2種類のアプローチをとりあげ、詳述する。

4.1. 経験主義的アプローチ

ひとつが、経験主義的 (empirical) な方法である。つまり、日本社会における英語の実態を客観的に記述することで、一般に流布している英語言説を批判的に検証する方法である。このアプローチはさらに、以下の2つに下位分類できるだろう。

4.1.1. 「通説をくつがえす」型(検証志向)

 第1のアプローチが、「言われていること」と「実態」との間のギャップを暴く「通説をくつがえす」型である。たとえば、佐藤 (2000) は、「日本人」を代表するランダム抽出調査のデータを計量分析し、「総中流」言説を反証した。また、小熊 (2002) は、戦後思想に関する膨大な量の文献を検討して、「ナショナリズムは右派・保守派のもの」という通説をくつがえしている。これらは、前者が計量分析、後者が歴史分析という違いはあるが、当該社会の全体像を意識している点では共通している。そして、社会の全体像を仮定するからこそ、言説と実態とのギャップを示すことができる。


英語言説研究への適用例として、たとえば、一般化可能な統計データ(ランダム抽出標本等)を用いた計量分析があげられる。先行研究として、寺沢 (2014b) による一連の研究があげられるが、寺沢の研究は、ほぼ全てが公開データの2次分析である。今後は、英語教育学固有の問題関心を大きく反映した1次調査を実施・分析していくことも不可欠である。なぜなら、現在アクセス可能な調査のなかには、今後の実施が危ぶまれているものも多いからである(なお、ランダム抽出調査を個人研究として行うのは非常に困難なので、学会レベルでプロジェクトを組む必要があるだろう)。

4.1.2. 「通説をずらす」型(多様性志向)

一方、第2のアプローチは、一枚岩的・本質主義的に論じられてきた英語言説に、実態の多様性を対置するアプローチである。通説を正面から検証するというよりは、「通説をずらす」タイプである。


英語言説研究への適用例として参考になるものに、たとえばKubota & McKay (2009) をあげることができる。この研究では、「(内なる)国際化」がすすむ地域でのエスノグラフィーを通して、「国際語としての英語」言説が強調するものとは異なる現実を示し、同言説が相対化されている。

4.2. クリティカルなアプローチ

もうひとつが、応用言語学において Critical Studies と呼ばれる研究アプローチである。これは、「実態」との比較よりも、英語言説に内在する政治性・イデオロギー性を厳しく問うことをより重視した立場である。


このアプローチは、人文社会科学において伝統的に行われてきたアプローチであり、参考になる研究は膨大にある。隣接領域である社会言語学にも既に多くの先行研究があり、たとえば、識字・識字教育をめぐる数多くの「神話」を批判的に検討した かどや・あべ (2010) 、国語・日本語・標準語をめぐる「神話」を批判した ましこ (2003) などが指摘できる。


英語言説研究への適用例として、もっともイメージしやすいのが、1990年代頃から日本でも隆盛した、いわゆる英語帝国主義論の研究だろう(大石, 2005; 津田, 1990; 中村, 2004)。実際、1990年代以降、その系統の研究・評論は数多くなされている。しかしながら、経験主義的ではなく(つまりデータ分析に必ずしも基づかない)、思索を中心としている以上、放っておくと「独りよがりの意見」になってしまう傾向がある。その意味で、英語言説に疑問を抱かない人とも共有できる「土俵」をつくるうえでは、それ相応の理論武装は必要であり、したがって、このアプローチの代表的な教科書である Pennycook (2001) をまず足場にすることが無難だろう。


日本の英語言説を批判的に検討した研究を具体的に見ていこう。たとえば、久保田竜子 (Ryuko Kubota) の一連の研究である。たとえば、Kubota (2011) は、日本社会に広く浸透している様々な英語言説(たとえば「国際語としての英語」言説)に対し、マルクス主義ポスト構造主義思想などを援用しながら、その政治性 ―とくにイデオロギーを客観的・中立的な「事実」と誤認させる作用― を鮮やかに暴いている。また、仲潔の一連の研究も参考になる。仲 (2007) では、地域の言語的多様性から乖離した自治体の言語政策(英語教育政策も含む)が厳しく批判されている。また、仲 (2010) では、英語教授法をめぐる言説に内包される権力性が、根本的に批判されている(つまり、権力性が批判されているのであって、特定の教え方が「科学」的に効果がない云々、というタイプの批判ではない)。

5.付録:言説のリスト

以下、検証が必要・可能な英語言説のリストを提示する。

  • ビジネスにおける英語使用に関する言説
    • 「これからのビジネスパーソンにとって英語のスキルは必須」
    • 「ビジネスでの英語使用は増えている」
    • 「英語ができるようになると賃金が上がる」
  • 「英語熱」をめぐる「日本人」言説
  • 「日本人は英語熱に浮かされている」
  • 「日本人は英語に深いコンプレックスを持っている」(「大衆の『英語狂乱』を英語学習に見識のある私が叱る!」型レトリック)
  • 「日本人」の英語力に関する言説
    • 「日本人の英語力は世界で(アジアで)最低」
    • 「英語ができないせいで日本の経済発展は低迷する」
  • 国際語としての英語に関する言説
    • 「日本国内においても、英語は国際語として流通している」
    • 「国際語としての英語でのコミュニケーションは、『形より中身』が重視され、非標準的な英語使用であっても尊重される」
  • ネイティブスピーカーに関する言説
  • 英語教育に対する「世論」をめぐる言説
    • 小学校英語は、英語ができない(語学に「見識」のない)『大衆』の後押しで成立した」
    • 「世論は、話せる英語を求めている」
    • 「世論は、国語教育より英語教育のほうが大事」
    • 「世論は、英語教育より国語教育のほうが大事」(上の逆)
  • 英語と母語をめぐる言説
    • 「英語力よりも国語力が大事」
    • 「セミリンガル」(日本語力あふれる私が日本語力の足りない「大衆」を叱る!の図)
    • 「英語教育よりも母語教育」(「母語教育」は厳密に言えば形容矛盾)
  • 英語指導法に関する言説
  • 英語学習法に関する言説

補節 英語言説の研究は意外に簡単!


たしかに、英語教育学において、「言説」の研究は残念ながらごく一部の研究者によって行われているにすぎない。ただし、こうした「知的偏り」があるからと言って、この種の研究が難しいと考えるのは適切ではない。ましてや、意義が小さいというのであれば、明らかに間違いである。


人文社会科学において、広い意味での「言説」を批判的に検討する実証研究・理論研究は、すでに多くの蓄積がある(たとえ「言説」という言葉が用いられていなかったとしても、一般の人々のイメージを批判的に検討した研究は、伝統的に行われている)。「言語」に関連した領域でいえば、社会言語学日本語教育学にその種の研究は多数ある。英語教育学に先行研究がなければ、他から借りてくればよい。


また、英語教育学において長らく批判的研究が「流行」することがなかったのは、(関係者の関心の低さにももちろん原因があるだろうが)次のような構造的な問題も大きいと思われる。構造的問題は、あくまで英語教育学の事情であって、言説研究に内在する困難・限界ではない。構造的問題は、具体的には以下の3点である。

メソドロジーの未整備、および、それによる水路づけ

批判的な研究を行いたくても、参照すべき方法論がないため、研究の出発点にしづらい。その後の研究が、出発点という「初発の条件」に規定される。

実行可能性がないという(不当な)イメージ

不当に「ハードルが高い」分野だと思われている。たしかに、日本の英語教育学における先行研究だけを拠り所にするならば研究は容易ではないかもしれないが、海外の応用言語学や国内の他分野(社会言語学日本語教育学・人類学・社会学など)には、「足場」(そして「お手本」)になる研究はいくらでもある。

「貢献度が低い」という(不当な)イメージ

批判的な研究には、自分の教職キャリア形成に役立たない、既存の学術コミュニティに貢献できないというイメージが強い。たしかに、「明日の授業に役立つか否か」という観点で言えば批判的研究の貢献度は低いが、「明日の授業に役立つ」タイプの研究には研究者の分母が非常に大きく、パイを奪い合っている状態であり、個々の貢献度は逓減する。一方、批判的研究に参加している研究者は現在のところわずかなので、実際の個々の貢献度はイメージよりもはるかに大きいと思う。


次に、英語言説の研究のメリットを(下世話なものも含めて)あげてみる。

業績がつくりやすい

直接の先行研究(≒ライバル)がいないという点で、業績が作りやすい領域である。もちろん間接的な先行研究は膨大にあるので、先行研究が全くないということではなく、途方に迷うことはないと思う

社会的意義が大きい

たしかに、教育的意義・指導上の意義は比較的小さいかもしれない。ただ、この手の研究は、受益者は学習者だけとは限らなず、むしろ社会全体への貢献が想定可能である。

その意味で社会的注目も大きい

ひょっとしたらあなたの修論が新書になるかもしれない(ひょっとしたらの話)


というわけで、卒論・修論・博論のアイディアがないと悩んでいる皆さん!
英語言説の研究をやりましょ〜!!!

引用文献

  • Kubota, R. (2011). Immigration, diversity, and language education in Japan: Toward a glocal approach to teaching English. In P. Seargeant (Ed.), English in Japan in the era of globalization (pp. 101-124). Palgrave Macmillan.
  • Kubota, R., & McKay, S. (2009). Globalization and language learning in rural Japan: The role of English in the local linguistic ecology. TESOL Quarterly,43(4), 593-619.
  • Terasawa, T. (2011). English skills as human capital in the Japanese labor market: An econometric examination of the effect of English skills on earnings. Language and Information Sciences, 9, 117-133.
  • Pennycook, A. (2001). Critical applied linguistics: A critical introduction. Routledge.
  • 大石俊一 (2005). 『英語帝国主義に抗する理念 : 「思想」論としての「英語」論』明石書店
  • 小笠原林樹 (1972). 「英語教育と英語教育学と」 『現代英語教育』臨時増刊号. pp. 10-17.
  • 小熊英二 (2002). 『「民主」と「愛国」 : 戦後日本のナショナリズムと公共性』 新曜社
  • かどやひでのり・あべやすし (2010). 『識字の社会言語学』生活書院
  • 佐藤俊樹 (2000). 『不平等社会日本 : さよなら総中流中央公論新社
  • 津田幸男 (1990). 『英語支配の構造 : 日本人と異文化コミュニケーション』第三書館
  • 寺沢拓敬 (2013a).「『日本人の 9 割に英語はいらない』は本当か? ―仕事における英語の必要性の計量分析」『関東甲信越英語教育学会学会誌』第27号, 71-83.
  • 寺沢拓敬 (2013b). 「戦後日本社会における英語志向とジェンダー世論調査の検討から」『言語情報科学』11号, 159-175.
  • 寺沢拓敬 (2014a).「日本社会は『英語化』しているか ―2000年代後半の社会調査の統計分析から」『関東甲信越英語教育学会学会誌』 28, 97-108.
  • 寺沢拓敬 (2014b). 『「英語と日本人」の社会学 ―データに基づく英語言説批判』(仮題) 研究社(出版予定)
  • 仲潔 (2007). 「現実を覆い隠す「共生」概念--北九州市の外国籍市民に対する言語教育サービスに見る言語観」『社会言語学』7, 21--42.
  • 仲潔 (2010).「学習者を〈排除〉する教授法--「客観的な」教授法への批判的まなざし」『社会言語学』 10, 87-108.
  • 中村敬 (2004). 『なぜ、「英語」が問題なのか? : 英語の政治・社会論』 三元社
  • ましこひでのり (2003). 『イデオロギーとしての「日本」 : 「国語」「日本史」の知識社会学増補新版』 三元社