こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

【方法論】英語教育史への社会学的アプローチ


 本稿は、日本英語教育史学会第29回大会 におけるシンポジウム「英語教育史研究のフロンティア ――研究方法論への提言」での拙発表の報告である。発表では、「英語教育史への社会学的アプローチ」と題し、歴史社会学の様々な方法論を紹介させて頂いたが、総花的になりすぎたせいか、消化不良になってしまった点は否めない。その反省にたち、本稿では、個別の方法論に立ち入ることは控え、英語教育史を社会学的に研究する意義・可能性を大きな枠組みとして提示したい。したがって、本稿の内容は、当日の発表内容と異なる部分もあることを申し添えておく。


1 歴史社会学とは何か ――実証史学との比較から

日本の英語教育史の研究者は、たとえ自覚していなかったとしても、歴史学の主流のアプローチである、いわゆる「実証史学」に依拠して研究を行っていると思われる。一方、歴史研究には、歴史社会学というアプローチも存在する。これと実証史学との境界は、後述するとおり、必ずしも明確ではないが、一応「別物」とされている。今までは実証史学が支配的だった英語教育史研究においても、今後、歴史社会学的なアプローチも考慮されていって欲しいという願いを込めて、本稿では歴史社会学的な英語教育史研究の可能性を論じる。


しかしながら、唐突に「歴史社会学とは何ぞや」と説明を始めるよりも、本学会会員にとって馴染みが深いと思われる実証史学と比較対照しながら論じたほうが、わかりやすくなると思われる。そこで以下より、「実証史学 vs. 歴史社会学」という対立図式を利用して、歴史社会学の性格を論じたい。

1.1 歴史社会学の位置づけ

概説ということなので、本来ならここで、「実証史学とは・・・」「歴史社会学とは・・・」のような簡潔な定義を述べておきたいところだが、これはかなり困難である。というのも、実際の研究者の著作を眺める限り、両者の間にクリアに線を引くことはほぼ不可能だからである。じじつ、多くの歴史研究が(研究者の自己認識は別として)「実証史学」と「歴史社会学」の両者の性格をある程度併せ持っている。しかしながら、クリアに線を引けないとは言っても、両者に性質の違いがないということではない。極端なレベルでは、線が引ける場合もあるからである。たとえば、「自他共に実証史学ではないと見なされる歴史社会学」は現に存在するし、同様に、「自他共に歴史社会学ではないと見なされる実証史学」も存在する。こうした「両極端」を利用して、実証史学と歴史社会学の相違点を図示すると、以下の図のように理解することができるだろう。


https://dl.dropboxusercontent.com/u/4689919/BLOG_Pict/HiSETsympo1.png
図1 実証史学と歴史社会学の位置関係


この図の縦軸は、歴史的事実をいかに丁寧に精査するか、その重視の度合いである。一方、図の横軸は、社会の仕組みをどれだけわかりやすく説明できるか、その説明力の度合いである。つまり、図の上に行けば行くほど、史料の真正性、そして史料から得られる知見の確からしさを重視した立場となる。また、左に行けば行くほど、当時の社会状況をできる限りシンプルな理論 で説明しようとする志向が高まる。


ここで、2つの軸に緊張関係があることがわかるだろう。つまり、片方を重視し過ぎると、もう一方が軽視されてしまうという関係である。たとえば、理論に過剰に依拠して、シンプルな説明を追求しすぎると、説明に合わない史実を切り捨てた「結論ありき」の歴史記述になってしまう。逆に、歴史的事実の検討に過度に厳密になり、史料から社会状況を想像することに対し禁欲的になり過ぎると、社会のダイナミズムのなかで史実を解釈する視点が失われ、単なる「史実の寄せ集め」に成り下がってしまいかねない。もちろんこの関係はあくまで一般的な話である。「史実の精査」と「華麗な説明」の両条件をともにクリアし、図でいえば右上に位置するような、優れた歴史研究も数多く存在する。

1.2 歴史社会学は、実証史学とどう違うのか

では、具体的な相違点について見ていきたい。実証史学と歴史社会学を、トピックごとに比較したものが表1である。

  実証史学 歴史社会学
1 史料批判 きわめて重要 必ずしも重視しない
2 史料の量 比較的少ない 比較的多い
3 分析対象のタイムスパン 1 時点 or 比較的短期間 比較的長期間
4 新史料 重視する 必ずしも重視しない

表1 実証史学と歴史社会学の相違点

表1の各項目を上から順番に見ていこう。1点目の史料批判についてだが、実証史学がこれをきわめて重視するのは周知の通りである。対照的に、歴史社会学では、必ずしも重きを置かない場合もある。たとえば読者投稿欄の声のように、発言者の属性に必ずしも信が置けない「史料」であっても、積極的に利用することもある。


この信頼性の低さを補うのが第2点目の論点である。つまり、個々の史料が信頼性を欠くならば、「量」を集めることによって、総体としての信頼性を向上させようという考え方である。このように、歴史社会学では、個々の史料の信頼性に多少疑問があっても、同様の史料が大量に観察されるのであれば、「事実」を積極的に見いだしていこうとする傾向がある。


この点はさらに、第3の論点、つまり、分析1単位あたりのタイムスパンにも関係してくる。信頼の置ける少数の史料の精査を重視する実証史学では、たとえば「昭和○年△月の××学校の英語履修率」というように、1時点あるいは比較的短い期間が検討の対象となる*1。一方、比較的多数の史料を検討するタイプの歴史社会学では、たとえば「終戦後20年間の英語必修化をめぐる声の変化」のように、広いタイムスパンを設定しなければ、「量」が稼げないことも多い。


そして、4点目、新史料の意義である。実証史学において(そして英語教育史研究においても)、新史料の発掘はきわめて大きな意義がある。新史料からもたらされる「新しい史実」によって、それ以前の定説が一新あるいは補強され、いずれにせよ、より深い理解が得られるからである。一方、歴史社会学では、新史料が手に入ればもちろんそれに越したことはないが、そうでなくても研究はじゅうぶん成立し得る。たとえば、誰にでも容易にアクセスできる小説などのテクストを「時代をうつす鏡」として証拠として用いる場合もある。ここで問われるのは、どれだけ貴重な新史料(≒新事実)が提示できたかよりも、諸史料をそれぞれ相互にどのように関連づけ、そしてどのような新知見を提示できたかである。

2 先行研究から見た分析事例

では、歴史社会学的アプローチにもとづく英語教育史研究の実例を検討しよう。ここでは、過去の先行研究から、ゆるやかな意味で歴史社会学的と見なせるものをとりあげ、その特徴を論じたい。なお、以下に紹介するものは、あくまで私が「歴史社会学らしさ」を持っていると考えたものである。したがって、著者は必ずしも自身の研究を歴史社会学と規定していない場合もあることをお断りしておく。


説明に都合がよいので、前述の「史実の精査重視 vs. 説明力を重視」の図式をあらためて利用したい。図 2 は、以下で説明する各先行研究のおおよその位置づけを表現したものである。


https://dl.dropboxusercontent.com/u/4689919/BLOG_Pict/HiSETsympo2.png
図2 先行研究の位置づけ


「説明力」の優先度がおそらく最も高い英語教育史研究のひとつとして、大谷 (2007) による「親英・反英の40年周期」説がある(図の最も右下の点がおよその位置をあらわす)。これは、「日本人」が幕末から現代まで、「英語好き」と「英語嫌い」の間を20年間隔で揺れ動いてきたとする説である。日本人の英語観が振り子のように周期的に変動していたとするアイディアは興味深く、一見するとかなりクリアな説明のため魅力的なものではあるが、残念ながら、この説に妥当しない例外的事例が数多く存在する*2。つまり、史実との対話を通して「40年周期」説を練り上げていったというより、最初から「40年周期」説があって、この説に合うような史実をピックアップしていったという印象が強い。


一方、理論的な説明の志向は依然強いものの、歴史的事実と適切な「対話」を行っていると考えられるものとして、Phillipson (1992)、Pennycook (1994)、そして綾部 (2009) をあげることができる。最初の2つは、いわゆる「英語帝国主義論」の基礎文献と見なされるものだが、現代の英語をめぐる状況だけでなく、英語と社会の関係をめぐる歴史的過程にも大きなウェイトが置かれている。すなわち、近代以降、英語がいかに権力を獲得し、世界中に拡大していったかを、史料の詳細な分析に基づき明らかにしており、その意味で、両者は歴史研究でもあると言えよう。また、綾部(2009) は、戦後期の英語教育政策が、各時代の種々の政治経済的イデオロギーに大きく規定されてきたことを、史料と社会理論の相互の「対話」を通じて描き出した著作である。


また、我田引水で恐縮だが、拙著 (寺沢 2014) も紹介しておきたい。同書は、「戦後の中学校英語がなぜ『事実上の必修科目』になったのか」という問いを検討したものだが、ここで紹介した著作のなかでは、おそらく最も「史実の精査」寄りである。というのも、研究を開始するにあたって、あらかじめ「仮説」のようなものを設定せず、まずは関係する史料の渉猟を優先したからである。こうした特徴を持つため、表1の右列に示した「歴史社会学らしさ」も色濃く持っている。同書では、戦後の比較的長い期間に刊行された既知の史料をできるだけ集めるという方針をとっており、「量」を確保することで、史料批判の問題を補っている。


以上、歴史社会学的な性格を持つと考えられる英語教育史研究を5点とりあげ、それぞれの位置づけを示した。ここでは紙幅の関係で詳細に紹介できなかったが、この 5 点以外にも方法論的に示唆に富む研究は多い。たとえば、山口 (2001) や齋藤 (2006)は ――いずれも狭義の「社会学者」ではないが――、既知の史料/テクストをいかに再解釈し、新たな知見を導くかという点で、非常に参考になる。また、日本語教育史の分野ではあるが、牲川 (2012) は、膨大な文献の渉猟に基づいて特定のレトリックの歴史的変遷を描き出しており、英語教育史研究にも適用可能な方法論である。これらの研究はいずれも、内容もさることながら、方法論という点でも参考になる点を多数含む。

3 応用可能な問題

最後に、今後の展望を述べたい。英語教育史のなかの具体的にどのような問題が、歴史社会学的なアプローチで検討可能なのか、いくつかアイディアを提示したい。

社会問題としての英語教育

第1に提案したいのは、「社会問題」としての英語教育論の分析である。周知の通り、日本における英語教育論は、しばしば「社会問題」の性格を帯びる。たとえば、最近も頻繁に話題になる大学入試改革論議(「高校生にTOEFL受験を義務づけ」等)や、国際人・グローバル人材の育成をめぐる議論は、その典型である。ここにさらに、はるか昔から流通している「中高6年やっても話せない英語教育」といった言説を付け加えてもよい。こうした言説群は、日本社会の多くの人々の不満、期待、ルサンチマンなど、様々な感情を源泉にしており、もはや英語教育関係者にのみかかわる問題ではない。その意味で、社会問題の一種である。


社会問題の分析は、一般的に、社会学の得意分野のひとつである(cf. 赤川 2006: 2 章)。たとえば、「虐待/体罰」や「同性愛」のようなトピックが、社会でどのように「問題」として扱われ、その扱われ方が歴史的にいかに変容していったかを分析するのである。分析を通して、場合によっては、社会のメンバー自身が気付かなかったような変容を発見することができる(たとえば、虐待や体罰は、一昔前にはそれぞれ「しつけの一環」「愛のムチ」のように「問題」として概念化されにくかったが、近年には「問題」の側面が顕在化し、その問題化様式は大きく変容している)。


これと同様に、社会問題としての英語教育論にも、歴史社会学的な分析が適用できるはずである。たとえば「国際人・グローバル人材育成のための英語教育」言説を例にとろう。英語教育とグローバル化・国際化を結びつけた言説を大量に収集し、その変容過程を歴史的に跡づけてみれば、ひょっとすると現代の国際化言説とはまったく異質の国際化言説が過去には存在していたことが明らかになるかもしれない。

英語・英語教育をめぐる思想史

第2に、英語観・英語教育観の歴史的分析も、歴史社会学的アプローチと親和的である。「社会問題」の場合のように具体的なトピックを分析するというよりも、たとえば「親英語/反英語」のような抽象的な態度の分析である。その意味で、前述の大谷(2007)を補完するものでもある。

現に、Seargeant (2009) も指摘しているとおり、日本の英語観・英語教育観には興味深いものが多い。日本は典型的なEFL環境ということもあってか、単一の英語観・英語教育観が支配的になるということがなく、様々な異質の英語観・英語教育観がせめぎ合いながら併存してきた。その結果、英語圏ESL環境よりもはるかに多様な英語観が生まれてきた ――たとえば、イングラント、イングリックや英語帝国主義論、太平洋戦争時における英語英文学者のアンビバレントな英語論など。こうした思想史的な検証は、実証史学からある程度距離を取らないと困難な作業であり、その点で、歴史社会学的アプローチが参照点として役立つかもしれない*3


以上、歴史社会学的アプローチにもとづく英語教育史研究の可能性を、実証史学と比較しながら論じてきた。本稿が、英語教育史研究における方法論論議の深まりの一助になれば幸いである。

文献

  • Pennycook, A., 1994, The cultural politics of English as an international language, London: Longman.
  • Phillipson, R., 1992, Linguistic imperialism, Oxford: Oxford University Press.
  • Seargeant, P., 2009, The idea of English in Japan: ideology and the evolution of a global language. Bristol: Multilingual Matters.
  • 赤川学, 2006, 『構築主義を再構築する』勁草書房
  • 綾部保志, 2009, 「戦後日本のマクロ社会的英語教育文化:学習指導要領と社会構造を中心に」綾部保志編『言語人類学から見た英語教育』ひつじ書房, 87-193.
  • 大谷泰照, 2007, 『日本人にとって英語とは何か: 異文化理解のあり方を問う』大修館書店.
  • 齋藤一, 2006, 『帝国日本の英文学』人文書院
  • 牲川波都季, 2012, 『戦後日本語教育学とナショナリズム : 「思考様式言説」に見る包摂と差異化の論理』くろしお出版
  • 寺沢拓敬, 2014, 『「なんで英語やるの?」の戦後史 ――国民教育としての英語、その伝統の成立過程』研究社.
  • 中西満貴典, 2002, 『「国際英語」ディスクールの編成』中部日本教育文化会.
  • 山口誠, 2001, 『英語講座の誕生 ――メディアと教養が出会う近代日本』講談社

*1:もちろん、歴史学者はごく短期的な歴史の変化にしか関心を抱かないという意味ではない(現に、多くの歴史学者は、古代から現代まで幅広い関心を持っている)。そうではなく、これはあくまで「分析1単位」あたりのタイムスパンで見た場合、実証史学の検討対象は短いということである。たとえば「学会での口頭発表、20分間」というように、情報量が統制されていた場合、実証史学の対象は、歴史社会学に比べ、短い期間に限定されることが多いだろう。

*2:たとえば、戦後初期は「親英語」の時代とされているが、当時は農村をはじめとして英語学習への疑義が渦巻いていた時代であり、また、根強い反米感情も存在していた以上、「親英語」の時代という切り取り方は困難である。詳細は、寺沢 (2014: pp. 8-10) を参照のこと。

*3:この観点に立つ英語教育史研究として中西 (2002) があるので参考にされたい。