こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

反差別英語教育論と国際英語論

以下の記事の続き。




反差別英語教育論との関係

では,同論文の評者なりの文脈化を行う。 まず指摘したいのは,先行実践・先行研究との関係である。 評者がここで先行実践として念頭に置いているのは,とくに英語圏で展開されてきた英語教育関係者の反差別運動・実践・研究である。 同論文にはこれらへの言及がほとんどないが,理論的には共有部分も多く,何より運動の面では重要な先駆者であることは間違いないので,検討する意義はあるだろう。

本書評では「反差別英語教育論」と便宜的に呼ぶが,これは差別・不平等・不正義を積極的に是正していこうとする英語教育関係者(英語教師,応用言語学者,教材作成者)の取り組みの総称である。 単一の運動体やラベルがあるわけでなく,社会正義志向の英語教育(Poteau & Winkel, 2022)や,反レイシズム英語教育(Kubota, 2022),不平等な英語(Tupas, 2015)などと呼ばれる。 英語圏での取り組みが多いが,日本語でも啓蒙的な書籍が出版されている(久保田, 2018)。

反差別英語教育論で頻繁に問題化されてきたのは,評者の印象では,人種,ジェンダー,そしてセクシュアリティであり,英語圏(とくに米国)の歴史的文脈を反映している面が強いと思われる。 ただし,母語話者-非母語話者間の不平等性に関する目配りもある(上述の Tupas 2015 がその典型)。 そもそも非母語話者性は,一対一対応ではないにせよ,人種とかなり相関がある。

したがって,かどや論文と共通の問題意識を有しており,重要な参照点になるはずである。 それは,「車輪の再発明」を防ぐという消極的な意義だけでなく,先行的な取り組みへのリスペクトを示すという積極的な意義もあるだろう。 実際,このアプローチは,多くの英語の第二言語話者によって担われ,その中には非西欧の出身者も少なくなく1),単に米国等のドメスティックな運動にとどまらない広がりを見せている。したがって,日本語で発信される反差別英語論と共闘できる可能性も有している。 その意味で,かどや論文がこうした運動・学術的動向に目配りがなかった点は同論文の限界と思われる。

しかしながら,以上はあくまで抽象的なレベルでの共通点である。 もう少し詳細に見ていくと,無視できない違いも明らかである。 その相違こそ,かどや論文の新規性であるが,同時に,今後具体的な運動を展開していくうえでの課題となる点だと思われる。 その相違点は,一言でいえば,両者が注目している対象集団の違いである。 反差別英語教育論では,英語学習に対して相応のコミットメントがある集団を対象としているが,かどや論文ではそうではない。

反差別英語教育論において,焦点があたりやすいのは次のような人々である。, 周辺化された英語教師,たとえば,有色人種や非母語話者および女性やセクシャルマイノリティの英語教師の被差別状況および闘争。 同じく周辺化された英語学習者,すなわち,人種的・ジェンダー的・経済的マイノリティに属し,理想的教室ではない環境で学ぶ学習者。 つまり,英語使用の所与性が強い環境を前提に,そこで生きる人々がより平等・非抑圧的に英語と関わることができるのを目指しているのが反差別英語教育論の暗黙の前提であると言える。 たしかに,英語教師も英語学習者(英語圏で学ぶ学習者)も,英語使用の所与性が高い。 英語教師はもそも英語に対する職業的コミットメントが強いし,英語学習者も,英語圏・準英語圏で暮らしていく限り,生活言語として英語に向き合わざるを得ない。

他方,かどや論文の焦点は,英語使用の所与性が必ずしも高くない人々を含む。 英語による国際コミュニケーションを「なしで済ませられるなら,なくてもまったく構わない」というように,必要悪(純粋な意味の「ツール」2)として向き合っている人々である。 言い換えれば,何らかの事情で国際語コミュニケーションの需要が消失すれば,英語使用から「降りる」選択肢を持った人々である。 たとえば,機械翻訳の高性能化,極端な脱グローバル化=ブロック化=国内化,個人の職業上あるいは生活上の変化などにより,英語を使う必然性が消失し得る人たちである。

英語使用の所与性の相違は,対象とする人口の範囲を左右する。 つまり,反差別英語教育論の対象は,英語教育関係者・英語学習者・英語使用者に限定されがちなのに対し,かどや論文の立論は,英語使用者以外も含むからである。 潜在的ニーズを持った人口まで想定するなら,理論的には,地球上の全人口が対象範囲になり得る。

人口以上に重要だと考えられる相違が,切迫度の感じ方である。 反差別英語教育論においては,英語使用から「降りる」という選択肢はほとんど想定されていないだろう。 他方,かどや論文では,相応の不利益を甘受するならばではあるが,その選択は残されている人たちである。 この点で,前者より後者のほうが切迫度が低いと受け取られやすいと思われる。 そして,この切迫度の相対的低さは,既存の反差別運動の蓄積との接点を減じさせてしまうかもしれない。 言い換えれば,先人たちが考案・洗練してきた反差別のための概念的・政治的リソースを,直接使えない場面も大いに生じうるということである。 たとえば,グローバルサウス出身で英語母語話者の女性ポスドク研究者と,日本出身・日本語母語話者で英語が苦手な男性大学教授(コントラストをより強くするなら「有力ヨーロッパ言語母語話者の西欧出身白人男性教授」でもよい)が英語で議論する場面を想像してみよう。そして,このとき,英語力の差のせいで,日本人(あるいは白人)男性大学教授が不当な扱いを受けたとする。 しかし,このコミュニケーション上の不当性の分析に,反差別英語教育論が重視してきた枠組み――たとえば,人種差別,家父長制,コロニアリズム――をそのまま適用するのは難しい。

この複雑さは,単にいわゆる交差性(インターセクショナリティ)が絡んでいる点だけではない。 もうひとつ重要なのは自由意志による選択(というフィクション)が大いに介在している点である。 というのも,上記の日本人(あるいは白人)男性教授には,「英語から降りる」という選択肢が理論上,残されているからであり,また,実際,その選択をしても生きていけるようなシナリオは比較的想像しやすいからである。 もちろん,実際は自由意志で降りられるわけではないし,また,降りたことによる相当の犠牲・コストを甘んじて受けなければならないのは事実である。 しかし,この複雑な理路を整理して論じない限り,反差別英語教育論の枠組みを利用することは難しい。少なくとも,直接転用すれば事足りるという状況にはなっていないと思われる3



執筆途中(2024年9月15日午後5時)


  1. 前述の Tupas (Ruanni Tupas) はこの点で象徴的かもしれない。彼はフィリピン出身の社会言語学者で,修士まではフィリピンでトレーニングを積んだ(博士号はシンガポール国立大学)。出典は,ORCIDの経歴欄。
  2. 「(国際コミュニケーションの)ツールとしての英語」という語は国際英語論者ばかりか内輪英語規範を内面化した人にも人気が高いフレーズである――英語学習・英語使用をめぐる規範に自分は隷属しているわけではない,むしろ英語をツールとして隷属させているんだというレトリックが,プライドをくすぐるのだろう。しかし,こうした「英語=純粋なツール」観はレトリック上のごまかしであり,実際にはかなり多数の条件がついた,いわば「取り回しのきわめて困難な重厚ツール」である。釘の打ちやすい金づちを選ぶのとわけがちがい,英語を選ぶのには膨大な学習時間を犠牲にするという意思判断が必要である。ある金づちに慣れてしまっても気分次第で別の金づちに乗り換えることは容易だが,言語はこのようなことは不可能である。
  3. 脱線するが,この部分の議論は,英語圏のアプローチを日本に「直輸入」することの困難さも暗示している。日本の英語教育研究(とくに日本語で出版される研究)においても,英語圏の反差別英語教育論を紹介することが増えつつある(象徴的な例としては,日本の英語教育業界の商業誌である『英語教育』でも,2023年から行われた英語圏の批判的応用言語学を「紹介」する連載である)。ジェンダーや資本主義批判などであれば「直輸入」の齟齬も顕在化しづらいかもしれないが,人種差別や,応用言語学の最近のトレンドである「脱植民地性/デコロニアリティ」はとくに慎重な扱いを要するだろう。日本は,制度的にも知的にも,人種差別,(とくに広義の)植民地主義の被害者であったが,同時に,明らかな加害者でもあったからである。