こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「誤用の指摘」が歓迎される場合と悪趣味扱いされる場合:Engrish, 日本の英語オブザイヤー、 #泣いちゃう英語 、「おかしな英語美術館」

追記 この記事は、以下のYahoo!ニュースの記事の下書きです。

ほとんど同じですが、Yahoo!ニュースのほうは、ポイントを1点追記している点、および、Yahoo!ニュースのほうが、全体的にマイルドな表現におさえている点が違います。

news.yahoo.co.jp


「日本の英語オブザイヤー2022」が決定~和製英語部門は「ライバー」、「伝わらない英語」部門はHumishige Naka body~

「日本の英語オブザイヤー2022」なるものが、「日本の英語を考える会」によって発表されたようです。

タイトルからはわかりづらいですが、日本(人)の英語の誤用で2022年を象徴するものを発表するという趣旨のようです。それにしては、2022年とは関係がなさそうなもの、誰も使って(誤用して)なさそうなもの(Humishige Naka body なんて文字列を本当に見たことあります?)が受賞しているのは気になりますが、今日は見なかったふりをしておきます。

英語の誤用を収集しようというキャンペーンは、伝統的には、いわゆる Engrish と呼ばれるミームがありました。さいきんでは、ツイッター上で繰り広げられる #泣いちゃう英語 というハッシュタグ・ムーブメント(?)もここに含められるでしょう(ちなみに「日本の英語を考える会」は、#泣いちゃう英語 タグで盛り上がっている人たちと重複するようです)

偶然にも、「おかしな英語 美術館」というものまで出てきたようです。 語学アプリ「Duolingo」、誤訳を集めた「おかしな英語 美術館」を開催 | ICT教育ニュース

こうした誤用収集に嬉々として乗っかるひともいれば、悪趣味だと眉をひそめる人もいます。または、下品かも知れないけれど必要悪ではないかと正当性を主張する人もいます。

一方で、抽象的に「英語の誤用を指摘する」と一括りにしてしまうと、「啓蒙目的なんだからいいじゃないか」と雑に擁護したり、「指摘がダメなら何も会話できなくなるでしょ」と雑に批判できてしまい、不毛な話になりそうです。

なぜなら、抽象的には同じ「誤用の指摘」であっても、その行為が行われる文脈によって「この指摘はとてもありがたい」から、「まあセーフ」「悪趣味」「どう見ても人種差別、逆にOKだと思った理由を教えて欲しい」までグラデーションがあります。(この辺は、ハラスメントの線引きと同じですね)

そもそも英語であれ何語であれ、他者の言葉遣いを指摘するという行為は、「誰が、どういうトーンで、何を指摘するのか」について切り分けるポイントがたくさんあります。

というわけで、誤用の指摘について切り分けるポイントを整理してみます。

X語使用の「誤り」を指摘するとき、その行為の許容度を左右する条件

1. 訂正する側の言語背景(X語の母語話者か否か)

一般的に、X語のネイティブスピーカーが「ここ間違ってるよ」と言うのと、努力してX語を身につけた人が「ここ間違っているよ」と言うのとでは、傲慢さに関する評価がかなり違います。ネイティブスピーカーの場合は、いっそうの慎重さが必要になるでしょう。

2. 訂正される側の言語背景

訂正される側、つまり「誤用」をしたと見なされた人がX語のネイティブスピーカーか、ネイティブではないにしても日常的にX語を使用している人の場合も、より慎重さが必要でしょう。訂正した側の勘違いということも大いにあるからです。

また、1. および 2. の論点は、人種差別の判断と密接に絡むという点でも慎重さが必要になります。 もちろん、英語ネイティブであることと人種は一対一対応するものではありませんが、「白人教師が非白人生徒にものを教える」という構図が多いこともまた事実です(たとえば日本の学校教育現場や英会話学校の「ネイティブ」英語教師には、明らかにこのような「白人=多数派」傾向が観察できます)。

この行為の人種差別性は、たとえば、日本語と英語が融合、「新言語」はいかにして誕生したのか - CNN.co.jp という記事でも以下のように指摘されています。

欧米では Engrish について、非ネイティブの英語話者を嘲笑することを意図した日常的な人種差別とみなされることが多い。

欧米が本当にこの状況にあるのかはやや疑問ですが、マイクロアグレッションが積極的に問題化されつつある昨今の状況を考慮すると、傾聴に値する意見であることは事実でしょう。

3. 訂正する側・される側の社会的地位

私達は非常に多様な関係性のなかに生きていて、その関係性次第で、許容度は変わります。

この点なきわめて複雑なので、簡潔に説明するのはなかなか難しいので、ひとつだけ例をあげるとすると、教師と生徒の関係でしょうか。具体的に「教師 - 生徒」の関係が存在しない間柄だったとしても、教師と見なされる社会的立場の人による指摘は比較的許容されやすいと思います。

4. 誤用によって伝達面で重大な問題が生じるかどうか

意味不明な言語使用に対する指摘は正当なものと思われやすい。一方、「言いたいことはわかる」ものであればあるほど、「意味はわかるのに、なぜわざわざ訂正するの?意地悪なの?」という反応を呼び起こしやすいでしょう。

5. 誤用によって倫理面・品格面で重大な問題が生じるかどうか

たとえ意味は明確だったとしても、単語の選択が不適切だったりすると、意図せずに差別的あるいは下品な表現になることがあります。このようなケースへの指摘ならば、もちろん許容されやすいでしょう。

6. 公共的媒体か、半公共的な媒体か、個人的媒体か

公共的媒体とはたとえば道路標識や官公庁の掲示です。 また、半公共的な媒体は企業広告など、必ずしも公益性のあるものではないけれども不特定多数が目にするものです。 一方、個人的媒体はそれ以外の様々な媒体を指します(たとえば店員による独自の張り紙等)

公共的媒体は、より正確かつ適切な言語使用が期待されるので、「間違っている」と指摘することの正当性は高いでしょう。 一方、個人的なものであればあるほど、慎重な指摘の仕方が要求されます。

7. 指摘・訂正のトーン

これは言わずもがなですが、嘲笑的に、あるいはぶっきらぼうに指摘すれば許容度が大いに下がります。

8. 個別的な指摘か、一般論的な指摘か

「こういう○○を見かけることがありますが、よくないですね」と一般論的に指摘するならば許容されやすいですが、「あなたのこの○○はよくないですね」と個別的に指摘する場合、より多くの配慮を必要とします1。 もっとも、言語使用に限らず、およそあらゆるタイプの「他人への指摘」にあてはまるでしょうが。

9. 「誤用」をした側が、訂正されることにどれだけ同意しているか

英語マッチョの人が意外と忘れている論点がこれです。

私たちは、訂正を望んでいるのであれば、「改善につながった。ありがとう」とむしろ感謝しますし、場合によっては報酬さえ支払います。しかし、望んでいなかったり、とくに頼んでいない場合には、むしろ「ありがた迷惑」と受け止められます。2 最悪の場合、傲慢で下品な行為だとか、指摘した人の属性次第ではマンスプレイニングとかホワイトスプレイニングとして扱われます。 これも、言語使用への指摘に限りませんね。

L2英語マッチョは「L2英語マゾ=指摘されると喜ぶ」である人も多いと思うので、この辺は麻痺していてるかもしれません。母語話者まで「みんな訂正されたら喜ぶはず」みたいな意識を持っていたらちょっと異常ですが…。

10. 改善のための具体的行為をしたか、単なる「晒し上げ」か。

ソーシャルメディアに特有の論点かもしれません。改善のために具体的な行動をしていた場合には、建設的な指摘として許容度はあがるでしょう。 また、具体的な行動をするというのは、「誤用」をした当事者に反論や弁明の機会を与えることでもあるので、より誠実な行為と見なされるでしょう。

一方、ソーシャルメディア等に載せるだけで何もしない場合には、当事者に弁明の機会を与えず、ただ「晒し上げ」ているだけと見なされるので、許容度は下がります。

11. 指摘する目的

高尚な目的(啓蒙とか注意喚起とか)から行われた指摘であれば許容されやすく、利己的な目的(例「英語ができる自分アピール」)や嘲笑のための指摘は許容されにくいのは自明な話です。

もっとも、本人が「これは啓蒙だよー、嘲笑じゃないよー」と言っているだけでは、「はい、そうですか」と許容できるはずもありません。 前述の1.-10. の論点に照らして、受け手が本当に啓蒙だと思ったかどうかが重要な論点です。

つまり、啓蒙ならば啓蒙らしいトーンや文脈が必要だ、ということですね。 これも、ハラスメントの線引きをめぐる論点と同型です。

#泣いちゃう英語

ところで、#泣いちゃう英語 のタグムーブメントですが、上記の点を総合すると(実際は、総合するまでもなくですが)かなり危ういなと思います。

まず、日本語の「泣いちゃう」には嘲笑のニュアンスがあります。 「〈笑っちゃう〉であれば嘲笑だけれど、〈泣いちゃう〉なのだから嘲笑ではない」という謎擁護を見たことがありますが、結論から言うと、間違いです。

もちろん「笑っちゃう」が嘲笑に用いられることは日本語学習者ですらおそらく理解可能ですが、「泣いちゃう」も同じく嘲笑にも使われます。これは、母語話者でなくとも、日本語にある程度馴染みがある人なら容易にわかると思います(そもそも、多くの言語で、「泣く」系の言葉は「笑う」の意味でも使えるのではないでしょうか---比較語用論?のような論点でしょうか。専門家の方、ご教示下さい)

ここに、「母語話者が指摘する」「伝達面で問題ないものをとりあげる」「ソーシャルメディアに晒すだけ」「個人の言語使用をあげつらう」等のイエローカードが積み重なると、累積退場ということになるでしょう。

異文化コミュニケーション

この記事では、11の論点を抽出するなどして、ものすごく理屈っぽく書きましたが、多くの日本語使用者(母語話者には限りません)は、こうした論点を直感的に計算して「許容可/許容不可」の判断をしていると思います。

以上の話が、(理屈はともかく)直感的に理解できない場合は、異文化コミュニケーションの実践家(※)としてはなかなか難儀なことになるのではないかなと思います(※もっとも、研究者なら問題ありません)


  1. この論点は @itani0314 さんからご教示頂きました。https://twitter.com/itani0314/status/1462050865745838084
  2. この論点は、@wtrych さんからご教示頂きました。https://twitter.com/wtrych/status/1462044737418846214