外国語教育史とか応用言語学のメタ方法論とかに興味がある人は読むのを強くすすめる。とくに、この分野のメソドロジー議論は意識の低い人は統計手法のハウツーばかり、意識の高い人でも「量と質」に限定された議論が支配的であって、歴史研究というメソドロジーから「量 vs. 質」を相対化するという話に行くことはほとんどない。
Smithの指摘は、非常に大雑把にまとめてしまえば「歴史から学んで現在の言語問題の解決に活かそう」である。「現在」の有用性の観点から歴史を恣意的にピックアップして「学ぼう」とする態度なわけで、歴史の固有性みたいなものは重視していない。その点でガチの歴史家からすれば看過しがたいだろう。ただ、応用言語学がそもそも「応用」をレゾンデートルとしているわけで、実践と切り離された歴史研究というのはちょっとイメージがつきにくいし、それでいいんじゃないかと思う(誰目線?)。Smith自身もこの「現在に軸足を置いて歴史を眺めて何が悪い」というスタンスでものを言っているような気がする。
上記の指摘を含めて、Smithは応用言語学にデータと健全な形で向き合うことを要求する。そして、その「データ」のなかに「歴史というデータ」(つまり史料)を適切に位置づけることを主張する。
こうした指摘のほぼすべてに同意だが、応用言語学やTESOLの院生(や若手研究者)にそれを要求するのはちょっとキツ過ぎだろと思う部分もあった(笑)
とくに応用言語学のコースワークでがちがちに固められているなかで、さらに歴史研究者としてのトレーニングを積むというのはとても所定年限で博論が書けるとは思えない。しかも、他国の外国語教育史を対象にする場合、語学の問題や史料アクセスの問題もたちはだかる。
ただまあ逆に言うと、じゃあなぜ量的研究やフィールドワークだと5年前後で博論が書けちゃうという前提があるのかは興味深い、というかなかなか奇妙な話である。率直に言ってしまえば、量的研究・フィールドワークが歴史研究に比べて「なめられている」という印象である。欧米のPhDコースは知らないが、たしかに日本の博士課程ではなめられている感はある。
以下、興味深かった点のメモ。
言語習得論の進歩史観=「過去の言語学者はみんなバカ」観
p. 75. での議論。大意はこんな感じ。二次文献(最悪の場合、俗説や他人から聞いただけの話)に基づくような歴史語りは過去のステレオタイプ化につながり、そのような「過去の悪魔化」は結局のところ現代の実践に不当に下駄を履かせる「進歩史観」のようなものに成り果てかねない。
英語教育や応用言語学の歴史に関する概説書(概説書を引き写して書いたような概説書)を読んでいるとこういうのはよく見るw 過去の学説を過度に単純化しているせいで「言語習得論の進歩史観」のようになってしまっていて「昔の学者ってそんなにバカだったの?」と誤認しかねない記述がけっこうある。
史料の選択・代表性の問題。
p. 75. Phillipson (1992), Pennycook (1994, 1998) という言語帝国主義の歴史研究における超重要文献を、「その結論は説得的だが、史料の選択が恣意的で方法論的中立性の点では評価できない」(意訳)と手厳しい。