こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

エンピリカルな「英語帝国主義」研究の方法論整備

最近、英語帝国主義(的な議論)の整理をしている関係で以下のような記事を見つけた。

私自身は、彼らの「言語教育はすぐれて政治的である」という主張は理解できるが、「国際英語論までもアングロサクソンの世界支配に貢献している」との主張は行き過ぎと考える。ただ、これからの英語教育研究は、どの立場であれ、次の2点を意識しておくことは必要だろう。

  1. 経験的(empirical)な研究であり、事実に基づいていること。
  2. 言語的不平等の変革を志向する批判的態度を伴った研究であること。



英語帝国主義論 or 国際英語論 – 言語21世紀塾


「英語帝国主義に経験的 (empirical) な研究が必要だ」


私自身、自分自身を経験主義者(empiricist)だと思っているので、こういう宣言はよくわかる。わかるんだけど、リサーチャーの側があり得るメソドロジーの整理をしておかないとなかなかつらい。(というか、「日本の」英語帝国主義研究が、エンピリカル手法のトレーニングを積んだ研究者が担っていた時代ってあったかな?)

とくに、「歴史的メソドロジー」に理解がないまま「エンピリカル」な卒論・修論に着手するとかなり悲惨な事態になりそう(笑)

歴史 ---「経時性」程度の意味--- の重視

マクロ現象としての英語帝国主義的制度にせよ、ミクロ現象としてのネイティブ信仰にせよ、時間の経過を経て構築された慣習。なので、同時代主義的な志向が強すぎると残念な感じになる。



この方法論の超重要文献。
ポリティクス・イン・タイム―歴史・制度・社会分析 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス 5)

ポリティクス・イン・タイム―歴史・制度・社会分析 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス 5)


この場合、量的アプローチをとるか質的アプローチをとるかといったことは、歴史的アプローチの問題に比べれば大した問題じゃないように思う。なお、ここの歴史的アプローチというのは、「過去の偉人から学ぼう」とかそういう懐古趣味じゃなくて、「経時性を大事にするアプローチ」のこと。というながれで時系列データとのアナロジーを考えたが詳細は省く*1

「ネイティブ信仰を実証的に明らかにする---」みたいなカジュアル英語教育学では大人気のテーマでも、現代主義が強すぎると単なる「道徳の時間」になってしまう。

現代主義バイアスの例。たとえばアンケートで「〜%の人がネイティブ英語に憧れを持っていた」とわかったとして、その結果は、「原因としての過去」から切り離された「ネイティブ信仰」だ。結局、そこから得られる示唆は現在そうした考えを抱いている人のメンタリティに全責任を負わせる以外のものでしかない。

「現象Xを個人レベルで説明して終わり」というのは非歴史的・個人主義的な分野では王道手法でそれだけで即「下手くそな枠組み」というわけではない。たとえば、特定の脳内化学物質が特定の行動に及ぼすメカニズムを説明するのに、t-1, t-2, t-3 ...時点でのメカニズムを考慮する必要はない。

しかし、この現象Xというのが「社会問題」とか「望ましくない現象」とかだとかなり悪手である。だって、社会制度の責任を個人に転嫁してしまうからね。

こういう歴史的な視点がないまま「エンピリカル」な議論をするのなら、非エンピリカルな規範的議論をしていたほうがまだマシに思う。

まあ、歴史というのは英語教育学・応用言語学の不得意分野の代表なので頭が痛い問題。実際、英語教育学のメソドロジーの本で、歴史アプローチに関して数段落でも言及のあるものってあるのだろうか。洋書にはひょっとしたらあるかもしれないが、和書にはまだたぶんない。ちなみに、人文社会科学の多くの分野では、歴史というのは文句なく重要なアプローチである(たとえば、政治学社会学)。

*1:時系列データの統計分析において、過去の数値(たとえばt-1, t-2, t-3...時点での数値) を考慮しない分析などありえない、とかそういうことを言おうとしたんだけど、時系列データの分析に馴染みがない人には意味不明なので省略。